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外れた世界で哭女は。  作者: 三番茶屋
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 Ⅳ薤露蒿里

 入学式が終わってからほどなくして、憂鬱にさせるほどの曇り空からぽつぽつと滴が降ってきた。

そしてそれは瞬く間に雨へと変わり、さらには次第に豪雨になった。

 土砂降りである。

 その名の通り、川が氾濫したり土砂災害が起きてしまうんじゃないかと心配になるほどの雨量で、もはやビニール傘程度では役に立たず、しかもそれが相合傘ならば尚更のことであった。

傘を持つ僕としては気遣いせざるを得ない状況で、右半身はすでに素肌まで雨が浸透していたが、彼女もまた彼女で、僕ほどではないにせよ半身を濡らしていることに変わりなく、言ってしまえばお互い同等のレベルだった。

 両親に買ってもらったばかりの一張羅に卸したての革靴――それが水浸しになることは些細なことに過ぎないが、隣の彼女のスーツは物の価値に疎い僕でもわかるほどの高級感を滲ませていたので、それが儚くも酸性雨に晒されていることに、僕の気遣いは有り得ないほどに増幅している。

しかし、そんなことを気にする素振りもなく、にやにやと笑みを浮かべながら軽い足取りで並走する彼女は、ハイヒールを躊躇なく水溜りに浸ける。

その様子を見れば、そんな僕の気遣いはそれを通り越して余計なお世話だったのかもしれない。

 彼女。

 黒い彼女――名前は八千代 真伊(やちよさない)と言う。

 珍しく初めて耳にする名前だったが、彼女曰く、どうやら沖縄方面では割かし多いようで、

「真実の『真』に伊太利の『伊』、真意の『意』でないところがこれまた滑稽のように思えるだろう? 私としては、職業柄、『意』であって欲しかったと切に願うばかりだが、イタリアは好きだから許容できる。まぁ、イタリアなんて行ったことないんだけれど――パスタはイタリア以上に好きだよ」

 などと、よくわからないことを言っていた。

 その会話の流れで、僕がよくパスタを作ることを話すと、どうしてか今度振舞うことになってしまった。

どうやら、八千代さんは料理が絶望的に壊滅的なようで、食事は専ら外食らしい。

しかも、『食事をとる』ということに執着心が皆無らしく、二日くらい平気で飲まず食わずで過ごすこともあるそうだった。

それについてはとやかく突っ込ませてもらったのだが、慣れた様子であしらわれるのがオチだった。

 

 場所は変わり、喫茶店である。

 学校からさほど遠くない、徒歩十五分程度の距離に位置するそこは、なんとも形容し難い雰囲気を醸していた。

ファミレスのような窓口が広い印象は皆無だったが、しかし、人が寄り付きにくいというわけではない。

外観も内観も重厚感が滲む調度品で統一されており、少ないテーブル席とやけに長いカウンター席は木目調で、それがより良質さを語らせる。

 決して広いとは言えない店内には、達観した老人が一人。

 彼一人で切り盛りしているのかと思うと店の経営状態が不安になってしまうが、それで間に合うということなら、来客数も高が知れているのだろう。

 繁盛しているとは言えない――店内に入ってみると、僕たち以外の他に客はいないようだった。

それならば尚更、経営状態は勿論のこと、自ずと提供価値をも疑ってしまうが、どうやらそれは僕の思い違い、思い過ごし、勘違いのようだった。

「おいしいですね、これ……」

「だろう。私はここのコーヒーを毎日飲んでいるよ」

 十九年を生きてきて、今まで一度もコーヒーを美味しいと思えなかった僕だったが、そのコーヒーはそんな僕にでもわかるほど、他とは違うものだった。

一線を画すほどに、今まで飲んできたそれがまた別のものかのように思えてくる。

味は勿論のこと、香りが全然違う。

コーヒー豆の匂いを初めて嗅いだような気がした。 

「このコーヒーに惹かれてかれこれ数年経つが、ここにはパスタがないのだ。店主に何度か打診したのだが、一向に口をきいてくれなくてね。私は今まで一度も彼の声を聞いたことがないと言える」

「それはそれで、店としても問題があるような……」

 この場合の『も』とは、人として、ということを含んでいる。

 と言うか、オーダーとかどうするんだろう。

 終始、無言なのだろうか。

 確かに言われてみれば、ホットコーヒーとアイスコーヒーを注文した時、軽く一礼されただけだった。

「えっと、その八千代さん――」

 コーヒーを口にした後、僕は静かに言う。

 しかし、その先の言葉を発する直前に、

「八千代でいいよ、少年。敬称を気にするような器じゃないからね」

「えっと……」

「別に敬語もいらない。堅苦しいのは苦手な性分だからな」

 うーん、と唸って数秒。

 彼女がそう言うのなら、あえてここで無理に慮る必要はないのかもしれない。

それが不快を与えるなら尚更だろう。

 ということで、八千代さん、改め、八千代。

 初対面に加え、年上に対していきなりそれもどうかとは思うが、難しい話ではないし、可能な範囲で期待に添うことにしよう。

「じゃぁ、八千代で」

 と、僕は改めて彼女の名前を口にした。

その瞬間、とてつもない罪悪感のような、いや、背徳感のようなものに襲われたが次第に慣れることだろう。

「僕が知っている遥ちゃんの情報は既に八千代も把握していると思うけれど、一つだけ知らないかもしれないことがあって」

「……ふぅん?」

「いや、情報というか、状態というか――有益な情報ではないかもしれないし、それにしたって情報と言うには足りないかもしれないんだけれど……ただ、気になったというか」

 そう、遥ちゃんとの別れ際のことである。

 遥ちゃんがどんな人格の持ち主かを知らない僕にとって、それはただ単に隠されていた内面が露になっただけに過ぎないことなのかもしれないけれど、しかし、あれはどう見たって異常だった。

あんな表情ができる女の子とはどうしても思えなかったのだ。

「八千代、旗桐 晴弥って知ってる?」

 僕の問い掛けに八千代は、あー、と何かを思い出したかのように相槌を打った。

「旗桐ね、うんうん、知ってるよ。そりゃ、勿論」

「そんなに有名なんだ」

「世間一般的には知られていない方が多いかもしれないけれど、旗桐と言えば、財政界のトップに君臨する財閥じゃないか。それこそ、その筋の関係者は絶対にその名前を知っているくらいだよ」

 財政界、財閥――遥ちゃんが呟いていた、旗桐家当主の息子、とはそういうことだったのか。

つまり、現当主は旗桐 晴弥の父親ということになるのだろう。

「旗桐 行司というのが彼の父親であり、現在の当主だよ。ちなみに旗桐本家の家族構成は行司とその息子夫妻、そしてその娘、あとはメイドが数人だったかな」

「へぇ、詳しいね……」

「当たり前だ、私は弁護士なのだから」

 弁護士ってそんなことにまで精通しているのか、と素直に八千代の言葉を鵜呑みにする僕だった。

「で、その旗桐 晴弥がどうしたって? そう言えば、少年が入学した大学には教授として在籍しているのだったな」

「そう、その旗桐さんに対して、遥ちゃんは怨恨のようなものを抱いているのかもしれないんだよ」

 八千代は、なるほどと納得したように相槌を打ち、ストローを(くわ)えた。

そして、決して綺麗とは言えない音を立てながら一気に飲み干す。

やはり子供のようだと思ったが、そう思ってしまうとやはり僕の胸は痛いくらいに締め付けられた。

どうやら本気で心の底からタイプらしい。

泰然とした態度の隙間から覗かせるギャップに、脳内が麻薬で満たされていくようだった。

いやまぁ勿論、麻薬なんて使ったことないのだけれど。

 僕は自身の顔が火照っていたことを自覚し、眼前にあるホットコーヒーを同じく一気に飲み干す。

丁度いい温度にまで冷めていたので、それは容易であった。

「その辺の事情は知らないのか? 遥ちゃんと旗桐さんの間に因縁のようなものがあるとか」

「いや――」

 八千代は妙な意味を持たせるように少しの間を空けて、

「――それはないな」

 と断言したが、しかし、その声調はどこか曖昧な名残があった。

 八千代の言葉に変に駆り立てられた心中を抑え、僕はそれ以上のことを言うわけではなく、彼女もまたそれ以上話を続けるつもりもなく、少しの沈黙が場を制圧した。

しかし、その沈黙は居たたまれなくなるものではなく、むしろ、そこはかとなく心地よくて、何故だか気楽に思えた。

少々の時間を共にしただけであって、それは僕の勝手な思い込みかもしれないが、どうしたって落ち着いている自分がそこにいる。

冷静であるという意味では勿論なく、かと言って、冷めているというわけでもなく――より正しい表現をするならば、癒されているのかもしれない。

 やはり、僕は気楽になっているのだろう。

取り繕ったりせず、仮面を被ったりもせず、演じず踊らず――ありのままの自分を曝け出すことができると感じているのかもしれない。

下手に気取ったりしなくとも、ただ暢気に、何も考えず屈託のない素面を露にすることができるということに、何よりの居心地のよさを感じているのだ。

それが許されるのも、やはり八千代の寛大で寛容な器のおかげなのかもしれないし、僕と彼女との間に前世で親密な関係があったのかもしれない。

まぁ、間違いなく後者は有り得ないだろうが。

 ともかく、僕は沈黙がこんなにも心地いいものだと初めて知った。

深い付き合いの友人がいればそういう感覚を経験することができたのだろうが、生憎、僕には『親友』と呼べる友人がいない。

どころか、『友達』と言うにも足りないであろうそれは、言わば『知り合い』程度の関係性にしかないように思える。

その証拠として、田舎から地方都市に引っ越すにあたり、僕は何一つの挨拶を周囲にしていない。

勿論、周りから離別を残念がられることもなかったけれど、僕もまたそれを口惜しいと思っていないのだから必然だろう。

 その程度の関係性しか築くことができなかった過去だけれど、都会に出て友人を作ることを夢見ているわけではないけれど、何故だろう、僕は今、八千代と友人になりたいと思っている。

もはや、既に彼女のことを友人と捉えている勝手な自分がいる。

決してそれを口にするつもりはないのだが、まさか恥ずかし気もなく「僕と友達になって下さい」などと言ってしまうと、「友達は作るものではなく、自然とできあがるものだ」と一蹴されることは目に見えていた。

それに、天下を闊歩する弁護士である八千代が僕のような一介の大学生に対して興味を持ってくれるとも思えない。

 それならば、と。

 もし八千代が僕のことを必要とした時は、可能な限り協力しよう。

捜査でもいいし、遥ちゃんのことでもいいし、召使のように扱われても構わない――とはさすがに過言だが、協力は惜しまないことにしよう。


「……ん?」


 八千代は空になったグラスに銜えていたストローを戻し、携帯電話を確認する。

どうやら僕が変なことを思案している最中、電話がかかってきたようだった。

 そして数回、無愛想にうん、うん、と相槌を打ち、最後に「そうか」と言って電話を切った。

およそ十秒ほどの電話だったが、八千代の表情から察するに内容は濃いものだったのだろう。

 そのとき、僕はまた見蕩れてしまう。

 心を奪われてしまう。

 その、八千代の天真爛漫な笑みに。


「よし、それじゃ少年、行こうか」

「どこに?」

「言わずもがな現場検証だよ、ゲンバケンショウ」

「何の?」


 八千代の笑顔は刹那、消失する。



「そんなの殺人現場に決まってるだろう」



 僕の心もまたそこで完全に消失した。

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