Ⅲ奔放不羈
月は変わり、四月。
その日は生憎の天気で、濃いグレーのキャンパスは桃色の花弁を呑み込むほどのものだった。
幸いにも雨は降っていないが、晴れ晴れしい舞台と言うには程遠いどんよりとした曇り空である。
そう、この日、今日という日は入学式だった。
私立花ノ宮学院大学、創立百数年の伝統ある大学の入学式。
とかなんとか、そんな表現を誇張し過ぎると、まるで日本全国においても屈指の名門校のように聞こえてしまうかもしれないので、一つ訂正すると、学力はそこまで高くなかったりする。
それはつまり、こんな僕でも合格することができたのだから、という意味であり、また、基準とされる偏差値においても特別高いわけではない、という意味でもある。
平均を超える程度の偏差値があれば楽に合格できるようで、それが故に、受験者数と入学者数は途方もない数に及ぶそうだ。
比較的難易度の低い入試を潜れば、知名度の高い大学に通うことができるのだから人気があってもおかしくはない。
何より、その知名度とマンモス校が故にOGやOBも非常に多く、就職活動がかなり楽らしい。
今日入学したばかりの僕なんかは就職活動のことなんて特に考えていないけれど、きっと隣の彼やその隣の彼女はそれが目当てで入学を決めたのかもしれない。
とかまぁ、他人のことなんてどうでもいいか。
「遥ちゃん、あれからどこ行ったんだろう」
大学見学会と称した不当な侵入を機に旗桐 晴弥と出会い、そして、それから様子がおかしくなって姿を消した――あれから暫く経ってからの、この日である。
入学式が始まる直前、出来る限り遥ちゃんを探したが見つかるわけはなく、こうして気掛かりで仕方なくなってしまった。
それもこれもあんな別れ方をしてしまったからなのだろうが、しかし、よくよく考えてみれば、何らかの理由があるにせよ殺人容疑をかけられている遥ちゃんとの縁を切断するには丁度良い機会なのかもしれない。
そもそも、初めからそのつもりだったし、遥ちゃんもそのつもりだっただろう。
もしこの大人数の群れの中に遥ちゃんがいたとして、彼女はきっと僕のことなんて探していないだろうし、僕も今後探すことはないだろう。
そう、それでいいのだ。
初めからそのつもりだった。
そのつもりでいたのに――どうしてこうも心の底がもやもやとするのだろう。
透き通らないのだろう。
明瞭にならないのだろう。
確かに別れ際の遥ちゃんの様子はおかしかったけれど、それにしても、この曖昧な感情の要因はそれだけでない気がする。
しかし勿論、情が移ったとか、恋心が芽生えてしまったとかあるはずもなく、それを自覚して自認しているからこそ、僕の心を取り巻くこの『何か』が果たして一体何なのかわからなかった。
そう言えば、旗桐さんはそういうものを専門としているらしいから、後で訊きに行ってもいいだろう。
「殺人容疑ねぇ……」
僕は滔々と述べられる謝辞を方耳に、誰にも聞こえない程度に呟いた。
考えてみれば、疑いをかけられ追われているらしい遥ちゃんがのこのこと入学式に現れるはずがない。
その真偽はともかく、実際、あの《黒女》は間違いなく遥ちゃんのことを探していたし、彼女の言葉から推測するに、それは事実に違いない。
警察内部で遥ちゃんという存在がどのように扱われているのかはわからないけれど、しかし、目下捜索中であるならば、入学式はおろか、先日のように出歩くことすらままならないのではないだろうか。
けれど、遥ちゃん自身は決してそんな風ではなかったし――むしろ、大声で騒いだり叫んだり、注目の的になっていた。
自分が追われている身であると自覚しているらしいが、それなら尚更、そんな行動を大胆にやってのける心理状態が理解できない。
容疑があると自覚しているならば、どこかに身を潜めるのが一般的だろうに――いや逆の発想で、木を森の中に隠す如く、あえてそうしているのだろうか。
しかし、それにしたって隠匿しようともしない自由奔放さはやり過ぎだと思う。
「なぁ――」
遥ちゃんの気になる点はもう一つ。
どうしてか僕には、遥ちゃんが旗桐さんに何か怨恨のようなものを抱いているように見えた。
そう見えてしまった。
互いの反応を見る限り、顔見知りというわけではなさそうだったけれど――
「なぁ、少年――」
いや、一方的に遥ちゃんが旗桐さんのことを見知っているという可能性は否定できないか。
そう思えば確かに、あの表情は初対面の人に向けられるべきものではなかった。
まるで汚いものを見るような、見下すような、蔑むような――そんな視線だった。
「おい、おい少年、衛理少年――」
「…………っ!?」
僕は隣から聞こえてきたその呼びかけにふと我に返った。
一瞬、脳髄の深層に電気が走ったような感覚を味わい、反射に近い反応速度で視線を真横に遣る。
「……え」
遣ると、そこにいたのは、
「久しぶりだな少年、衛理少年」
「なな、な……」
驚きのあまりそれ以上の言語を発することはできず、思わず口を魚のようにぱくぱくと開閉してしまう。
まるで誰かに心臓を握られたかのような衝撃は、ほどなくして僕のそれを圧壊させた。
まさか。
いやいや、そんなまさか。
なんで、どうして。
どういうことだ。
「ふはっ、君は面白い反応をするな。私が初対面で抱いた君への印象とは多少のズレがあるが、うん、まぁ概ね間違いではなかったようだ」
僕の表情と反応を面白がるようにくすくすとその女は笑う。
式中なので、当然、彼女の声はひそひそ話をするような声量だった。
自然、僕も叫びたくなる気持ちを抑制して、彼女の耳元で話す。
「な、何してるんですか、こんなところで……」
「何って、入学式だよ」
「それはわかりますけど、あなたここの新入生じゃないでしょう」
「失礼な奴だな、こう見えて私はまだ二十四のお姉さんだ。自分自身、君たち新入生と遜色ないほどの若さを保っているつもりなのだが」
「いや、決してそういう話をしているわけではないです」
特別な形容などいらない。
豪華な装飾もいらない。
彼女を一目見ただけで思い出す――彼女の『黒色』を認識するだけで想起する。
そう。
隣の彼女は、間違いなくあの日、電車内で僕に声をかけてきた《黒女》だった。
そして同時に、僕はその時に抱いた彼女に対する印象を思い出した。
それはつまり、やたらと膨らんだ胸部に目がいってしまっていたという恥のことであったが、思い返すだけで情けなくなってしまうほどの赤っ恥だった。
しかも、そんな僕の欲望が大きすぎる器と心で許容された――それが何より恥ずかしい。
辱めを受けた、屈辱と言っても過言ではないけれど、元を辿れば、そもそも僕がいやらしい視線を初対面の彼女に向けたことが原因なので、それについてはもはや後悔しかなかった。
思い出さなくてもいい汚点を思い出してしまったが最後、何故か自然と視線がそっちに向きそうになる。
しかし、こんな状況下で再びそんなことをしてしまえば、後々にやはり後悔しそうだったので、僕は極力、前列に座る同じ新入生の頭頂部に意識を集中させた。
他から見れば、何やら不審な挙動のように思われるかもしれないが、後の後悔より一時の恥、という理屈である。
第一、僕はすでに彼女が警察機関の関係者であることを把握してしまっているので、ここで下手な真似でもすれば不信感を与えてしまうだろう。
それこそ厄介事に巻き込まれる可能性があるので、やはりここは自制して大人しくするに越したことはない。
「何故、新入生でもない私がこの場に、しかも新入生が座るべき場所に座り、あたかも新入生だと偽り、入学式に新入生として侵入し、それが故に及んだ水紋が浸入したのか――それを知りたいのだな」
「…………」
非常に分かり辛い洒落が混ざっているような気がしたが、きっと気のせいだろう。
僕はそれには触れず、
「あなたがここにいる理由は大体察しがつきます。恐らく、遥ちゃんのことなんでしょう?」
「ビンゴだよ、少年。イッツグレーイト」
ぐっ、と親指を天に突き立てる彼女。
物静かで聡明な印象を与える容姿であったが、時折そんな子供のような仕草を見せるらしく、僕にとってそれはかなりのツボだった。
遥ちゃんもそうだけれど、ぶっちゃけ、彼女もかなりの好みである。
「おっと、もはやすでに下の名前で呼び合う仲にまで進展していたとは思わなかったけれど、一体全体、君たちの間に何があったのだ?」
僕はその時、思わず口を滑らせてしまったことを後悔した。
遥ちゃんとの繋がりがあったことを知られてしまえば、僕もまた容疑者リストにめでたく加えられるかもしれない。
それだけは避けたいので、僕は焦りを隠し、冷静さを装って答える。
「二人の関係? 何ですかはそれ? 僕はハルカ・クリスティーンのことを言っているだけなんですけれど? ほら、テレビとかで引っ張りだこのハルカ・クリスティーンのことですよ?」
冷静さを装ってみたものの、やはり不慣れなことはするべきではないのだろう、僕の言葉の端々は疑問系で統一されてしまっていた。
それが尚更、自分でも思えるほどに不審だった。
「ふふっ、まぁ落ち着け少年。誰だって冒険はしたいものだ、男も女もミステリアスで掴み所のない者を好む傾向にあるからな。高い壁があるほど恋は燃えるとよく言う、それに則れば、きっと君もそういうことなのだろう。しかしどうだ、一度手にしてしまった獲物が案外思っていた以上に小物で、自分が抱いていた理想とかけ離れていることに気付くだろう。その間隙を埋めるほどの魅力が彼女にあるならばそれでいいのだろうが、しかし、大体はそのハードルの下をすんなり潜っていく――つまり、だ。何が言いたいかというと、苦労したりリスクを犯したりして高い壁を越えた先で得たものは、案外つまらないものだということだ。その先に何があるのか、それが不明瞭だということは自然と期待を膨らませてしまう。理想と希望がどんどんと膨らんでいくのだ」
「…………」
「だからまぁ、男女の関係になったところで、きっと君は何も得ていないのだろう。一瞬の快楽を得ただけで、それ以上のものは残らない。そして何より、君は釣った魚に餌をやらないタイプのように見受けられる」
「はいすいません嘘をつきました。先日、あなたが探しているであろう女の子と接触しました」
「あははははっ、だと思ったよ」
「訂正しますけれど、別に男女の仲とか、そんなんじゃないですよ」
「わかっているさ。むしろ、君たちが大学内で何をしたかまで、概ね把握済みだ」
「…………」
驚愕なことに、全てを抑えられていた。
その上で僕に鎌をかけてきたのだろう、いや、この場合その表現だとニュアンスが少し違うかもしれない。
「ということは、あれですか……全てを知った上で、遥ちゃんと接触した僕に色々と訊きたいことがあるということですね」
それはつまり、尋問である。
まぁ、これもまたその表現だと少々語弊を生みかねないが。
「確かに訊きたいことは山ほどあるが、しかし、君も別に静 遥のことをよく知っているということではなかろう。君の知っていることは私がすでに既知としている情報だということだ」
「それなら……」
「ただ私は純粋に、興味本位に、ただの好奇心が故に、少年に協力をお願いしたいだけだよ」
協力。
それが意味するのは、捜査に協力しろ、ということなのだろう。
何故だろうか、下手にお願いをされているのにも関わらず、やけに高圧的に聞こえて仕方がない。
いや、勿論そんなことは決してないのだろうが、半ば無理矢理、半強制的に手を貸すよう持ちかけられている気がしてきた。
「警察の捜査に協力できるほど、僕は何かを知っているわけではないんですよ」
「警察?」
「……ん?」
「私は警察の人間ではないが――確かに、警察の依頼を請け負うこともしばしばあるけれど、しかし、それを言えば、むしろ逆だ」
「逆、ですか?」
彼女は暗闇をぶち込んだかのように深い瞳をきらりと光らせて、ジャケットの襟に指で示した。
そこには金色の紋章。
水平に停止した天秤を真ん中に、その中心点から外側に向けて後光が差すバッジがあった。
彼女は言う。
にやり、と不敵に微笑んだ。
「私は警察でも検事でもない――」
その瞬間、長ったらしく述べられていた謝辞答辞が終わったようで、彼女の利発そうな声をはっきりと聞き取ることができた。
「私は弁護士だよ、黒い弁護士だ」
僕はその時、改めて彼女が只者ではないことを理解した。