最終章ー13
ほんとですよ、とHはつぶやき、缶を置いて頭をたれる。
「なんだか、眠くなっちゃいました……」
そういいながらカウンターの上に置いた缶に手を置き、その上に顔を乗せる。
缶が傾いている。いかにも危なっかしい体勢だ。
「Hさん。その体勢は」
危ない、と俺は言おうとした。
しかし声を出す前に彼女はバランスを崩した。
ビール缶は倒れた。しかしそれ以上に派手な音を立てて、いすから転げ落ちてしまった。
俺は呆然としていた。
Hさんは床から立ち上がってこない。
カウンターに身を乗り出し、覗き込んでみる。
彼女は横向きに床に倒れこんだまま、動こうとしなかった。
俺は駆け寄った。打ち所が悪かったのかもしれない。柄にもなく大声で彼女の名を呼び、いすをどけ、両腕で抱え起こす。
うん、と小さくうめく声が聞こえた。
「Hさん。大丈夫?」
「ウ~ン……」
顔が真っ赤。
耳まで赤くなっている。
俺が近くにいることに驚いたようだが、すぐに表情を崩した。
「だいじょうぶです」
「それならいいが」
俺は彼女を床に座らせ、ペットボトルの水を取ってきた。
彼女のそばで腰を下ろし、ふたを開ける。
愛想笑いか何なのかわからないが、彼女は笑っていた。
「ちょっと酔ってしまいました」
「君、実は酒、弱いのか?」
「えへへへ、実は」
「だったら断ればよかったんだ」
「断ったら殺されると思ったから」
「まあいいや。とにかく水を飲んで」
ふたを開け、ペットボトルを差し出す。
彼女は口に近づけられたペットボトルを取り、ゆっくり飲み始めた。俺は彼女の隣に座った。彼女の顔から眼鏡がずり落ちそううだった。
彼女の足元をよく見てみる。
俺が話しながら一本飲んでいる間に、彼女は三本目を飲もうとしていたのだ。
ペットボトルの水を半分ほど飲んだところで、彼女は大きく息をついた。
「大丈夫? Hさん。立てる?」
「なんとか」
そういいつつ、カウンターに手を伸ばし、つかまろうとする。
だが指先がすべり、足もなんだか力が入っていないようだ。
俺は彼女が立ち上がるまで中腰の姿勢でじっと見ていた。
考えている以上にアルコールが回っているようだ。
何回か立ち上がるような体勢になったが、そのたびにすぐにバランスを崩してしまう。
Hさんは笑ってごまかした。
俺は時間がかかりそうな気がしてきた。
それまで一歩引いて見ていたが、両手を前に出しながら近づいた。
「あの、Sさん。どうしたんですか……あの、ちょっと、あの、私重いですよっ」
Hさんは笑いながら首を振り、俺から逃げるように腕を突き出してきた。
俺はその腕を払いのけ、彼女にさらに近寄った。
何も言わなかった。
はじめは笑っていた彼女も、表情が引きつり始めてきた。
「きゃっ!」
俺は彼女を抱えあげた。いわゆる『お姫様だっこ』で。
彼女が言うほど重さを感じない。
彼女は短く悲鳴を上げ、体をちぢこませた。
緊張しているんだろう。
表情は全く変えず、身動きもとろうとしない。
そんな彼女を事務所から持ってきた椅子に座らせた。
体を硬くしたまま、両手を膝の上に置き、じっと下を向いていた。
背もたれがある分、こっちの椅子のほうが楽だろう、と言ったら彼女はうなずいた。
俺は床に置きっぱなしの水を取ってきた。
まだ半分ほど残っている。
勧めてみたところ、彼女は俺を見ることなく、それを手に取った。




