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藤の種

作者: 斉藤寧子

「藤の種、もう飛んだ?」

「どうだろうね。去年は、ぱちぱち壁に当たっている音が聞こえたんだけど、今年は聞かないねえ。いつもは今時期なんだけど」

「そう・・・昔に比べて藤自体も減ったからかな」


 裕明は夏になると必ず祖母の家を訪れる。庭に咲く藤の花を見る為だ。とは言え、藤の見頃は四月五月。夏になると花は萎み、種を包んだ長い鞘がぶら下がっているだけになる。その鞘は乾燥すると自然に割れるのだが、その割れ方が凄まじい。爆発音と共に鞘は割れ、種は四方に弾け飛ぶ。あの優雅な藤の姿とは似つかない、ダイナミックな幕切れである。裕明は、その瞬間を一度は見てみたいと思っていたが、未だに達成出来ていない。

 祖母の家の庭には様々な種類の花が植えてあったが、裕明はその中でも藤が一番好きであった。まあ、藤以外の名前を知らないせいもあったが。


「炊き込みご飯食べてって」

「うん」

「三合分はあるから。こんなに炊いたのいつぶりだろうね」

 

 裕明は頷いたが、それほど色ご飯が好きな訳でもなかった。

 今年で八十二になる祖母は言葉も行動もしっかりしていて、見た目よりも十ほど若く見える。祖父は五年前に亡くなり、今は一人で札幌に暮らしていた。祖母の息子、つまり裕明の父親は函館に住んでいて、あと二年ばかりで定年を迎える。長男である父親は、数年前から一緒に住もうと祖母に何度か持ちかけたようだが、祖母の方が断ったらしい。


「ホタテと鶏肉のフライ揚げたんだけど、ソースにする?マヨネーズ?」

「ソースでいいよ。って、フライなんて油っこい物食べるんだ?」

「歳をとると、くどい物は食べられないって話をよく聞くけど、私は平気だね」

「そう」 


 昼食にしてはテーブルの上に並べられる皿が多い。みそ汁とサラダの盛り合わせ、そしてタッパに詰められた漬け物が出されて終わりかと思うと、マグロの刺身が出てきた。昨日の残り物だと祖母は言うが、本当かどうかは分からない。わざわざ買ってきたんじゃないの?と聞く訳にもいかない。


「そんな気を遣わなくていいのに」

「色々食べ物とか頂くんだけど、一人で暮らしていると食べきれなくて」

「そう・・・まだお茶の先生、やってるの?」

「とりあえず。弟子達はいなくなっても、結構お茶をする場所はあるものよ。女子大での講師や、趣味程度の集まりにも呼ばれたり」


 若さを保つ秘訣は人と接し続ける事、裕明は改めて理解した。今でも一人で生活出来る祖母が、わざわざ違う土地に行く筈がない。

 食事を全て出し終えた祖母はテーブルに両手を付き、静かにゆっくりと腰を下ろした。職業病か、それとも慣れなのか、家の中でも正座であった。祖母の身体の中で悪い箇所は、老眼鏡越しに孫を見つめる二つの瞳だけかもしれない。  

 祖母の家は札幌でも郊外にあり、すぐ裏には藻岩山が見える静かな場所だった。一戸建ての庭付き。晩年の生活を送るには申し分ない環境だ。涼しい風と、草木の蠢く音色だけが網戸をかいくぐる事を許される。


「おかわりいるかい?」

「ああ、もらうよ」


 祖母に気を遣った訳ではない。普通に美味しかった。白飯が何より好きな裕明は、色ご飯など滅多に食べない。むしろ嫌いに近い。出来れば、飯の具だけを別に煮物にしてもらって一品作ってくれた方が良いと考えていた。しかし、今日食べた炊き込みご飯は純粋に美味いと思った。椎茸、人参、油揚げ、鶏肉、なると、かんぴょうも入っている。


「一杯食べて。もち米と普通の米を半々で炊いたの。食べやすいでしょ?」

「うん」


 裕明はお祖母ちゃん子ではない。祖母はずっと札幌だったが、父親が転勤族なので北海道、その中でも道東付近を転々としていた。札幌にも住んでいた時期があったらしいが、まだ裕明が赤ん坊の時なので記憶にはない。結局、祖母に会うのは正月と盆程度。ほとんど他人の関係だ。故に裕明は、祖母の家に行く前日当日はひどく緊張していたものだった。そして、祖父母の前では変に畏まってしまい、居心地の悪い思い出だけが裕明の脳を占めていた。


「裕明、今年でいくつ?」

「三十三になったよ」

「早いものだね。結婚はまだかい?」

「まだ早いさ」

「そうかい。せめて、私が生きている内にしてほしいけれど・・・まあ、曾孫は諦める事にして」

「・・・諦めるのはまだ早いかもよ。結婚も子供も、意外にすんなり決まるもんさ」

「そうなればいいけど。おかわりは?」

「うん」


 裕明が札幌に転勤してきたのは二十五の時。しかし同じ市内とは言え、地下鉄の終点で降り、そこからバスに乗り換えなければならない祖母の家。頻繁に行ける場所ではなかった・・・と言うのは建前。裕明が祖母の家に出向かない本当の理由は、子供の頃の居心地の悪さがまだ残っているのである。今も、何かどうも、落ち着かない感じがするのであった。

 父親からは、祖母の様子をちょくちょく伺うようにと言われていたが、年に二、三度顔を出す程度に留まっていた。 

 裕明は無口な方だったが、祖母がよく喋る人だったので祖母の言葉に頷くだけで良かった。裕明が常々怖いと思っている事は、会話が止まってしまった時の、あの重い空気。ただ、祖母といる時は、その恐怖はない。祖母の思い出話や近況報告は途切れる事がなかったからだ。裕明は高校野球を観ながら、祖母の話も耳で聞く。


「あんたのお父さん、頭のてっぺんに傷あるの。子供の頃、庭で遊んでたら丁度、藤の種が爆発してね・・・お父さんの頭を直撃したのよ」

「はは、今度傷を見せてもらうわ」


 この話題も何年かに一度、祖母の口から出てくる。話した事を忘れてしまったのか、話す事がないので敢えて話しているのか、藤と言えば恒例な話なのでとりあえず的に話しているのかは、分からない。しかし裕明は、初めて聞いたような表情と声で、受け流すように毎回相槌を打つ。その会話には何の発展性もない。まさに惰性。しかし、その惰性があるからこそ、裕明は祖母の家を訪れる事が出来るのである。


「藤、今年は鞘が少ないと思う」

「知らない間に割れたんだろうね」

「来年は種が飛ぶ瞬間、この眼で見てみたいよ」

「そうね。割れそうな時になったら電話する」


 裕明にとって、藤の種飛ばしなど実はどうでも良かった。ただ祖母の家に訪れる理由、口実が欲しいのだ。用事もないのに訪れるのは、何か忍びない。実の孫なのだから遠慮なんて必要ないと言われるかもしれないが、裕明にとって祖母という存在は遠い親戚と変わりない。とは言っても、孫は孫。祖母の体調や一人暮らしが気にならない訳ではない。しかし、頻繁に電話を掛ける積極性も裕明には持ち合わせていなかった。

 惰性。

 それはお互いに理解し把握していた事実だった。夏になると藤が枯れ、孫である裕明が祖母の家に訪れる・・・惰性の関係以外、何物でもない。しかし、その惰性がなければ裕明も祖母の家に行く事はないだろう。祖母は、藤の鞘が割れるそうな時に連絡すると言いながら、一度も裕明に電話した事がなかった。あのしっかりした祖母が約束を守らないのは何故だろう?単に忘れているだけだろうか?裕明はずっと考えていたが、ここ最近になって、もしかしてと思う事が出てきた。

 まさか、わざと、敢えて、電話をくれないのでは?と。

 もしも裕明が、藤の種が鞘から飛び出す瞬間を一度でも見てしまうと、もう夏に祖母の家に訪れる理由がなくなってしまう・・・それを危惧して教えないのでは・・・あくまで裕明の憶測だが。


「やっぱり三合ぐらいで炊くと美味しいわ。一人分だと味が広がらないからね。炊き込みご飯さ、余ったら包んであげるから」

「ああ、ありがとう」


 若くはない裕明は、さすがに三合も食べられない。いや、学生時代でもそこまで食べられていたかどうか。


「おかずは足りる?」

「うん、十分だよ」

「後でスイカもあるから」


 裕明は苦笑する。祖母にとって、孫はいつまでも孫か。

 しかし、今日の飯は美味い。


「おかわりは?」

「もらうよ」


 裕明はいつのまにか、色ご飯を二合ほど平らげていた。 





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― 新着の感想 ―
[一言] 二人の微妙な関係と藤の種の描写が素敵な表現だと思いました。個人的には、最後藤を使った表現で〆てくれたら最高だったと思います。失礼…
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