セセラギと自分
――違った。
ずっと下を向いている。え? と、声を出したのは、自分だ。幼女は、てっきり泣き出すと思っていたのに、一言も発しない。謝るとか、感謝とか、それ以前に、声を出さない。
「大丈夫?」
自分が大きな声でそう問うても、幼女は返事をしない。無反応、だ。おかしい、これはおかしい……と、体をこちらへ向けようとすると、ぐるん! と首が回転した。一八〇度ほど、顔が真後ろへ廻っている。
え?
え?
ちょ、ちょっと……え?
あ、ヤバ、う、う、ヤベ……はぁ? ま……ええええ?
自分は、幼女の体を地面へ置くと、逃げるように駆け出した。角を曲がるところまで来て、心臓が、胸を馬鹿みたいに叩いてることに気づく。さっと、壁に寄りかかって、息を整える。
三度ほど深呼吸をして、もう一度、幼女のことを見てみる。
倒れたままだ。
動かない。
ピクリとも。
呼吸すら、していないように……見えた。
――いや、もう一度、よく思い出してみよう。自分は、結構強い力で、幼女を引っ張った。それで、地面へ倒れた。だから、気を失っているだけかもしれない。そうだ、そうだ、そのはずだよ、きっと。
首が廻ったよね?
どこからかそんな声のような想いが振動として聞こえてきて、映像が蘇る。
そんなわけない。
そんなわけ、うん、平気、多分、自分の見間違え、だ。きっと。
抜き足差し足で、幼女へ再度近づく。確認しようそうしよう。さっきは焦っていたから、そう見えたのかもしれない。うん、人間の記憶って曖昧だし、嘘に決まっているのだ。幼女ちゃんは、ただ余計に首が廻っているように見えたのかもしれない。確認、確認……あ、駄目だ、やっぱり、顔がこっちを見てる。一八〇度廻っている。左目がしっかりと、自分のことを捕らえている。だけど右眼は、黒目が重力に引かれて、おかしな方向を見つめている。あ、あ、あ、うわー、自分の足がガクガクと震えている。よかった、トイレに行っていて……。
いやだって、傍目では、確実に死んでいるよ、コレ。
くるりと踝を返すと、自分は、即効で逃げようとした。
が、自分が幼女の襟を掴んだことを思い出す。
指紋が、べっとりとそこに残っているはずだ。警察でそのことを調べたら、すぐにわかるだろう。他にも、自分は幼女を抱きかかえた時に、何か付着したりしたかもしれない。なんか昔見たテレビで、そういう細かいレベルから、犯人を着実に追い詰めると、放送した。
大きく息を吸い込むと、右ひざを地面につけて、幼女を両手で掴むと、抱きかかえる。そして、全力は走り始めた。
「誰もいませんように」
と、念仏のようにその言葉を呟きながら、道を走る。もしも、この自分の姿を誰かに目撃されたら、絶対に怪しまれる。あのまま幼女を置いて警察に捕まるよりは、自分は、……幼女を自宅に連れ帰って、その後を考えることに、した。
アパートに辿り着くまで、誰にも見られなかった、と思う。
中に転がり込み、扉を閉めて、鍵をかける。
そして、幼女を居間に置いた。
だらんと、両腕に力は無く、首はここに持ってくるまでかなり揺れたので、もうなんか凄いことになっている。頭を持ち上げて、ゆっくりと人間的なポジションに戻しても、すぐに位置がズレてしまう。
胸を触ってみると、あぁ、やっぱり何も聞こえない。慌てて自分の胸に手を当てると、こっちは普通に脈動している。でも、この幼女の心臓は止まっている。口元に耳を当てても、呼吸はしていない。それに、目がヤバイ。さっきからゴロゴロと動かすたびに回転している。「ははは」と笑みがこぼれるほど、不気味すぎる……。目蓋を、無理やり閉じさせた。
死んでいるね、確実に……。
この幼女の死体――そう呼ぶと、ちょっと長いし、垢抜けていないので……、『セセラギ』と呼ぶことにする。セセラギとは、自分が好きな小説に出てきた言葉で、ゴキブリの名前だ。主人公が、ゴキブリの気持ち悪さを、名前がいけないと言った時に、出てきた言葉だった気がする。で、セセラギの対処を考えることにした。
切断して、どっかに捨てる! という作戦を最初に思いついたけど、ムリムリ! グロイの苦手だから、多分指を切ったところで、絶対に吐く。幸い、風呂があるから、そこで作業は出来るけど、後片付けが糞めんどくさそうだから、辞める。
次に考えたのは、どこかに埋める、という作戦。直面する問題が、セセラギをどうやって目当ての場所まで運ぶか。このアパートの庭に埋める、という手立てを考えたけど、流石にそれは見つかる。大家さんに怒られる。どっかの山へ運ぼうと思ったけど、大変だな。車があればいいのに、実家にあるボロいスクーターしか自分には無い。免許も無いしね。駄目だ。
ふと、それよりも、今、このセセラギの状態が非道いなと、蔑む。壊れた人形のように、転がっているのは、自分の部屋から、更に浮きだって見える。
そうだ、何かビニール袋で包もうと思う。昔、死体清掃員のブログを読んだことがあるけど、確か、人の体はほとんど水分で出来ている。死後、数時間で、体が液体へと変化しようとする。と、書いてあった気がする。
でも、我が家には、セセラギを入れられるだけの大きさのビニール袋はどこにも無い。いつもコンビニの小さなビニール袋に、適当にゴミを捨てているので、巨大な袋が無いのだ。
「はぁ」と重いため息をつく。風呂に放置しておくにも、体液が流れ出して、死臭が溜まると困る。ここの大家は、何かトラウマがあるのか、臭いを酷く嫌う。住人に、一日一回は必ず風呂に入れとうるさかった。大家が臭いを嗅ぎつけて、部屋に上がられるのはマズい。仕方なく、セセラギを風呂に置くと、またアパートから出て、今度こそと、コンビニへ向かう。近場の、自分が勤めるスーパーには、行けない。普段ゴミ袋を買わない人間の姿を同僚に目撃され、それが元になって、事件発覚を防ぐためである。
しかし、コンビニには、あまり大きなゴミ袋は無かった。小さい雑貨コーナーには、最低限の袋しか置いていない。これでも、セセラギを捻じ曲げて押し込めば入るかもしれないけど、無理に押し込んだおかげで、破れてしまっては困る。仕方なく、コンビニから飛び出て、隣町のデパートへ向かった。
隣町と言っても、そこまでは十分でいける。デパートの前には、映画館がある。デパートの一階には、雑貨コーナーがあるはずだから、小走りで向かった。
あった。一番大きな袋の束を三つ買い、すぐさま戻る。
その時、ふと、目の前に小さな公園があることに気づく。アパート周りに、あんなデカイ屋敷が聳えていることに気づかない自分なので、付近に公園があることすら知らなかった。
外灯が一つあり、ベンチがその下に一つ寂しげに置いてある。ここを迂回するよりも、真っ直ぐに突っ切ったほうが、近道だった。
そう判断すると、迷い無く、この公園の中に入っていく。