幼女とトレーラー
はぁ……。
まずは、もう一度話を整理しよう。
自分は、大学を卒業して、就活が上手く行かずに、フリーターになってしまった。もっと必死に頑張って就職しようと思ったけど、いや、いっそニートになって、このまま親が死ぬまで寄生したほうがラクじゃんいいじゃん……と、判断した。で、ダラダラとゲームとパソコンばかり触っている自分に対して、父の堪忍袋の緒がぶち切れてしまったのだ。我が家から二駅も離れた場所にある、小さな古ぼけたアパート(でも風呂トイレは個別にある)に勝手に契約して、そこに自分を捨てるように置いていったのだ。
そんな寂しい別れ際、母は、父に隠れて、封筒を自分に渡した。中には、十万入っていた。
す・く・な……。
この汚いアパートは、その内面外面と比例するように家賃が低い。おかげで、この十万で少しは生活出切るけど、それもすぐに尽きるだろう。そう判断した自分は、付近にあったスーパーでレジ打ちを始めた。周りはオバサンか高校生だけで、その中間よりちょっと上に居るような自分は、上手く話しが合わず、親しい人は出来ない。
でも、お金を貰えれば、いいのだ。適当にお客さんの相手をしていれば、問題無いのだ。
で、だ。
やっと話が現代に来た。うん、そのままレジ打ちを必死に三年続けて、自分はもう二五歳を超えてしまった。昔みたいな瑞々しいお肌は消えて、隙を見ては、油が額を覆っている。数年前まであった、就職して働こうという思いは、もう微塵も残っていない。昔、友達だった人から、同窓会の誘いや結婚式の招待状が届いて、それを見て、胸がざわめくこともあったけど、何も感じない。そんなシンプルな人間になっていた自分は、アパートから出た。
昼間、だ。今日のバイトは、深夜からなので、それまで時間がある。近くに、小さなコンビニがあったはずなので、そこに向かおうとしていた。雑誌を片っ端から読んで、ジュース買って(本当は酒がいいけど、バイトがあるので無理だ。一度酒飲んでレジ打ってたら、店長にメチャクチャ怒られた)、安いお菓子買って、これ以上使うと、生活が厳しいので、アパートに戻って、バイトの時間まで寝ていようと思った。
粗方雑誌を読み終え、店を出ようとして、その前に、トイレに入って、すぐに外に出る。ぶらぶらと道を進んでいると、細い路地が見える。真っ直ぐ歩けば、すぐにアパートに辿り着くけど、……今日は暇こいているので、ってかいつも暇なので、ぐるっと迂回することにした。左の道を進むと、すぐに広い道に出た。自分では一生住めないであろう高級住宅が並んでいる。住んでいる人々は、宇宙人にでも攻め込まれて殺されちまえ、と思いながら眺めていると、おかしい家を見つけた。左側には、きらびやかな家が立ち並んでいるのに、その向かいには、汚らしいお屋敷が立っているからだ。二階の窓からは、腐ったような植物が見える。外見も、ところどころの壁が剥げていて、汚い。うちのアパートと、いい勝負だ。ざっと眺めながら、自分が小学生くらいなら、この中で肝試しをやろうと思うかもしれないけど、もうそういう歳じゃない。黒い影のオバケとか出ないで下さいと内心唱えながら歩く。
少し進んだら、すぐにアパートに出た。――やれやれ、もう三年も経っているのに、あの汚い屋敷が近くにあったとは、気づいていないとは、我ながら、恐れいったよ……。
私の部屋は二階にあるので、階段へ向かう。錆びが模様のように広がっている、今にも崩れそうな階段だった。そこに足をかけた、瞬間、私の足元を通り過ぎていく物体があった。足の下、……正確には階段の下を横切る影を見つけたのだ。動物かと思ったけど、違う。どうやら、それは子供のようで、まだ小学生にも上がっていないであろう……幼稚園に通っているであろう、可愛さしか備わっていない幼い女の子――略して
幼女
であった。ポニーテールに、ピンク色のワンピースのような服を着ている。トテチテと、あまり早くない速度で、自分の視界から消えようとする。なんで幼女なんかがこのアパートに? このアパートには、大人しか住んでいない。子供はいないはずなのに、そう考えた瞬間、このアパートの建っている位置が脳裏に浮かんだ。そうだ、このアパートは二本の道の間に建てられている。両方から進入できるので、ここを近道にしようと、よく子供が通っていくのだ。あの幼女も、ショートカットをするためにここを通ったに違いない。大家さんに見つかると烈火如く爆発するので、早くお行き、と心の中で呟く。可愛い幼女が、目に涙を一杯溜めて怒られる姿なんて、誰も見たくないのだよ……。
足元を見ながら階段を二段上がったところで、階段の隙間から何か光る物が目に入る。見なかったことにしようかと思ったけど、暇なので、しゃがむで見てみる。階段の途中で、意味も無くしゃがむという行為は、傍目からだとかなりアレだけど、まぁ、昼間は、誰も居ないし、別に、見られたところで、何も問題は無いな、うん。
それは小さな袋に包まれた、何か、だった。少し遠いのでよくわからない。立ち上がってため息を一つつくと、階段を下りて、ぐるっと迂回すると、その袋に近づいた。
飴だ。赤色の飴が、ポツンと落ちている。それを少し見つめた後に、自分は腕を伸ばして、掴んだ。食べよう! と思ったわけじゃない。そのまま立ち上がり、がんッ! と頭部を階段に打ち付けた。涙が出るほど、痛い。
十秒ほど呻いた後、今度は頭が当たらないように気をつけると、そっと階段の下から脱出して、小走りでかける。
あの幼女に、この飴を渡そう。
親切じゃない。……暇だからだ。あの幼女がポケットに入れてあったはずの飴が無くて、困っている姿を想像したからでもない。本当に暇なのだ。幼女に、これ、君のでしょ、と渡して、違うよ、と返されても何も問題は無い。何か理由が欲しいのだ。自分について、の。
我ながら颯爽とアパートを抜けると、前方に、幼女の姿があった。だが、すぐに角を曲がり、見失ってしまう。高校以来、久しぶりに走ると、その角に辿り着いたところで、既に息が切れていた。ハァハァと、荒い息が、口元から漏れ出ている。誰かに見られたら、確実に不審者で警察を呼ばれてしまうかもしれない。
角を曲がると、五メートルほど先に、幼女が居た。小走りだが、それほど早くは無い。自分が、もうちょっと頑張って、大股で走れば、すぐに追いつくことが出来る。――と、思った時だった。
幼女の先には、広い十字路がある。住宅街の間にあるような道なので、見通しは悪い。特に、幼女みたいな、背の低い人間にとっては。
右側から、車が走ってきた。早くて、黒い、大きなトラックだ。人なんかあたったら、簡単に砕けそうな雰囲気を纏わせているほど、圧倒的だ。自分からは、右側が空き地になっているので、視認できるけど、幼女はそうはいかない。
気づいていない。
必死に、何かから逃げるかのように、走っている。
ぞわっと、背中を、汗が通り抜ける。
ヤバイ。
そう恐くなった。
だって、このままだと幼女はトラックに当たってしまうのだ。
自分は、一瞬迷ってから、一歩、前に足を踏み出す。
それを軸に、駆け出した。
私の視界には、トラックが恐ろしいほど高速で駆けている。対して、私の走りは圧倒的に遅い。
それでも……と。
ぐっと歯を食い縛った。
嫌だよ、目の前でグモるなんて……。
でも、あ、駄目だ、間に合わない。
そう思った時には、宙を飛んでいた。
ほとんど倒れこみながら、腕を伸ばす。
そして、襟を掴むと、思いっきり自分の方向へ引っ張る。
ごきん
と音を立てて、幼女は自分と一緒に倒れる。
刹那、トラックは眼前を走り抜けていった。
風が、顔を叩いて痛い。
それでも、間一髪のところで、幼女をこちらの道へ引き込むことが出来た。
助けることが、出来たんだ。
しかし、幼女は自分に対して、一言も礼を言わない。
やれやれ。