9.雛鳥たちの戦場
雨のような矢の攻撃を受け混乱した二番隊だったが、なんとか体勢を立て直してかろうじて敵の突撃に対応していた。
熟練兵たちが先陣に立ち敵の隊列に斬り込んでいく。
輪廻はその最前列に飛び込んでいた。
熟練兵たちが、ただの新兵である輪廻が最前まで出ていることに驚きを見せていた。
輪廻は素早く目の前の男に斬りかかった。
剣を打ち合おうと構えていたが、防御の隙間を狙って胴を斬る。
が、輪廻の剣は相手の鎧とぶつかって、傷を与えるに至らなかった。
(鎧! 面倒なものを着込んでやがる)
しかし輪廻の鷹のような動体視力は返す刀で鎧の隙間、相手の喉を狙って適切に切り捨てていた。
「うっ…」
相手がうめき声を上げて倒れた。血が吹き出している。
人体を切断した感触と血の匂いで、今まで眠っていた輪廻の心が激しく騒ぐ。
高揚感。
命の危険と隣り合わせの場所で未だ自分は生きているという充足感。
輪廻は熱狂的に戦闘に没頭した。
輪廻が狙ったのは首と手足である。
帝国軍と王国軍兵士が身につけている鎧は全身を覆うものではなく、胸の前面と肩の傷を防ぐための簡単なものであるのが幸いした。
しかし二人目、三人目と切って捨てたところで、輪廻は違和感を覚えた。
(こいつら、突撃してきた割にはずいぶんと防戦的だね…一体何を企んでるのかしら)
輪廻は敵と一度も剣を打ち合わせていなかった。
これは打刀を使っていたころの戦闘経験による癖であったが、他の味方たちは斬り合うばかりで一進一退であった。
輪廻と対した敵も、輪廻がたちまち三人を切り殺したのを見てまともに切り結ぼうとせずに仲間で固まって剣先で輪廻を牽制し続けている。
(時間稼ぎ…かしら?)
ということは、撤退を前提に戦っているのか?
奇襲を受けて混乱していた王国軍だったが、帝国軍が奇襲をした割には攻勢の意志が薄いことと、帝国軍の数が王国側よりも少なかったことで、両軍は互角の戦闘を繰り広げていた。
輪廻の読みは当たった。
帝国軍が後退を始めたのである。
しかし混乱し乱戦状態にあった王国軍は、そのままずるずると引きずられるようにして帝国軍の追撃を始める。
輪廻も、戦列の隙間を作らないために積極的に敵に前進し続けていた。
いや、前進せざるをえないという状況である。
ただでさえ乱戦状態で王国軍は陣形の体を成していないのだ。
下手に後退すれば帝国軍が反転攻勢してきて隊列をずたずたに引き裂かれるおそれがあった。
やがて帝国軍が完全に撤退し、姿を消したところで、王国軍は追撃を止めた。
反転攻勢はなかった。
ヒルマン隊長はほっと安心して、全隊に部隊の再編を命じた。
「ラディ、大丈夫か?」
輪廻が振り返るとヴァージニアが立っていた。
鎧が半分泥だらけだったが、一見したところ怪我はなさそうだった。
「ヴィセンテとゴアーシュは?」
「分からんが無事だろう。あのとき前に出てきたのは私たちだけだ」
「君は?」
「斬り合いの最中に木の根に足を取られて転んだだけだ。今はもう落ち着いた。大丈夫だ」
ヴァージニアは輪廻の鎧と剣についた返り血を見ていたが、何も言わなかった。
その時である。
二番隊の斜め左前方から矢の一斉射撃が飛んできた。
三回の射撃の後、そちらの方向から最初のものとは別の帝国軍部隊が突撃してきた。
臨戦態勢にあった王国軍は最初ほどの混乱はなかった。
しかし今度は、輪廻は冷静に戦場を眺めつつ、味方の援護をするように最前列を縦横無尽に駆け巡る。
「ヴァージニア!」
敵と鍔迫りになったヴァージニアの背中を守って敵と斬り合う。
すぐに翻ってヴァージニアと相対していた者の腕を切り捨てる。
「ラディ、すまない!」
「あんまり前に出ないで!」
先ほどのこともあって、輪廻は敵の追撃には消極的だった。
一度最前線から下がり、戦場全体を見渡す。
数の上では王国軍が有利であるが、戦況自体は互角である。
(……いや、互角じゃない)
何故なら帝国軍には、最初に遭遇した部隊がまだほとんど無傷の状態で残っているのである。
いや、それどころか敵に増援がいないという保証はない。
森の中は見通しが悪く、仮に伏兵が隠れていたとしても見つけるのは困難だろう。
輪廻は帝国軍の攻勢をその中心部で支えているアブリル隊長を見た。
右手にロングソード、左手に短剣を持ち二人の敵と同時に斬り合っている。
「ひるむな! 持ちこたえろ!」
隊長の怒声が森に響く。
それに呼応する形で、隊長の腹心たちが一気に前進する。
一部の仲間が前進することで、戦線自体が帝国領側へ押し上げられていた。
「隊長!」
輪廻は隊長の元へ走ると、周囲にいた敵をすれ違いに素早く切り捨てる。
一人目、二人目と切ったところで、三人目はレザーアーマーが致命傷を防いだ。
鍔迫りになりかけたところで、輪廻は三人目を蹴り飛ばし、喉に剣の先を突き刺した。
「隊長!」
「やるな新米!」
隊長は敵と激しく剣を打ち合わせ、敵の剣が跳ね上がったところで、短剣を振って急所を狙った。
輪廻と隊長は、共に敵の返り血で真っ赤になりながらも、焦ることなく、ゆっくりと敵の方へ前進を続けた。
「隊長、このまま前に行くのは」
「うるさい。新米は自分のケツだけ見ていろ」
隊長はそう答えながら、敵兵が剣先を向けて走ってくるのを軽くいなしていた。
隊長が一歩踏み込んで斬りかかろうとしたところで、敵が剣を合わせながら大きく後ろに下がる。
やがて、敵軍全体が後退を始める。
改めて、実に統制された後退であると輪廻は思った。
◇
アブリル・ヒルマンが前線で戦うようになってからすでに五年。
黒の森の戦場など自分の家の裏庭のようなものだ。
アブリルは士官としての高等教育など受けてこなかったが、軍隊を動かすためのいろはは実戦での先任の隊長の手腕を見て学んでいる。
それゆえに、帝国軍の動きが王国軍を誘うための罠であることは今さら輪廻に指摘されるまでもなく理解していた。
(んなこたあ分かってるんだよ、分かってるんだが、こうするしかねえだろうが…!)
一見すると王国軍の方が多勢であったが、実のところ、アブリルが把握できているのは二番隊だけで、五番隊との命令系統の統一が未だにできないでいた。
このような状態では軍全体に統制のとれた作戦行動を命ずることができず、その結果王国軍は戦場のあちこちで遊兵を生んでいる。
王国軍の実数は帝国軍と同数か、ひょっとするとそれ以下かもしれないのだ。
このようなバラバラの状態では撤退すらままならない。
犠牲を出さない撤退こそ、用兵においては極めて高度な作戦行動のひとつだからである。
二番隊だけならばともかく、今の状態でそんなことをすれば、五番隊との連携の隙を突かれて多大な出血を強いられるだろう。
否、もしも今すぐに撤退できるのならばその出血は払うべき代償である。そう考えることもできた。
しかし敵の行動は悪辣である。
敵は常に、王国軍が前進することがもっとも出血が少なくなるような状況を作り、王国軍を帝国領の奥深くまで誘い込んでいるのである。
今のところ前進することそのものでの兵の損失は少ない。
だから、このまま敵を追撃してゆけば、いつか敵が隙を見せるのではないか――。
撤退のリスクを考えれば、どうしてもその希望が目の前にちらつくのだ。
それゆえに、アブリルは撤退を命じられずにいた。
(くそっ、どうかしてるぜ。戦場に楽観主義なんか通用しねえ。こうなったら部隊の二割は犠牲にする覚悟で全力で後退するしかない――!)
そもそもこれは、軍をあちこちに分散し、各隊隊長の面子を守るために命令系統の統合すら嫌った王国軍司令官の失点であると言えた。
しかしながら、司令官の行動を止められなかった自分にも責任がある、とアブリルは思っていた。
「留守番部隊」と揶揄される二番隊とはいえ、隊長は隊長であり、部下を守れない士官に上層部の責任を追求する資格はない。
王国軍の斜め右前方から最初にぶつかった敵軍が現れて、弓の斉射の後に突撃してきた。
王国軍がそれも退けると、今度は斜め左前方から、二番目の敵軍が再び現れて、またしても弓の斉射の後に突撃を仕掛けた。
帝国軍が後退する度に王国軍が前に引きずられる。
四度目の突撃を退け、アブリルが撤退命令を出す直前。
隣で一緒に戦っていた輪廻が、たった一人で敵の部隊に突撃した。
◇
帝国軍少将、ベニード・ウォルコップは作戦の成功を確信していた。
副官の忠告を受け、敵が想定外の行動をとった場合、直ちに作戦を中止して撤退する準備ができていたが、どうやら杞憂に終わったようである。
少将の立てた作戦は単純である。
まず王国軍へ諜報活動を行い、帝国軍の動きについてのデマを流す。
狙い通り、王国軍はその真偽を確かめるための偵察部隊を派遣した。
また、以前から帝国軍は継続的に森の北部の拠点に圧力をかけており、そちらに王国軍の二個部隊を釘付けにすることに成功した。
これで、王国軍を各個撃破する準備が整った。
戦略目標としては王国軍の戦力を削ぐことにある。
まず帝国軍の部隊を3つに分ける。
1つは王国軍の偵察部隊の攪乱と陽動を行う部隊である。狙いは偵察部隊が本部に引き返すのを妨害することにある。
残りの2つが右翼部隊、左翼部隊として、敵本部の右前方、左前方にそれぞれ位置する。
一方が射撃、突撃、後退を行い、敵部隊を引っ張ると、その側面からもう一方の部隊が射撃突撃そして後退を行う。
つまり2つの部隊が交互に王国軍とぶつかり、敵軍を精神的に消耗させつつ、補給線の届かない帝国領内へと敵を引きずり込むのが最終的な目的である。
ウォルコップ少将の計画では、ある程度帝国領内への誘導が完了した後は、最初の攪乱陽動部隊とも合流し、敵を孤立無援にし包囲殲滅することになっていた。
だが当初はウォルコップ少将の部下においてもこの作戦の脆弱性を指摘する声があった。
ウォルコップ少将は士官学校上がりで実戦経験に乏しく、本作戦も言うなれば「机上の空論」であると見る向きが強かったのだ。
しかしながら、アブリル・ヒルマン率いる二番隊と五番隊後方部隊との不和や、二番隊が兵員補給をした直後で練度が低かったことなどの幸運が重なり、ウォルコップ少将の「机上の空論」は空想がそのまま具現化したかのような理想的な効果を示していた。
「王国軍恐るるに足らず! 未だに王族にかしずくだけの下等文明よ!」
ウォルコップは喜色満面で部下に漏らす。
自分の作戦がどのような幸運のもとに成功したのかは知る由もない。
ウォルコップ自身は左翼部隊にて全軍の指揮を執っていた。
右翼部隊の後退を確認してから、長弓部隊に射撃の用意を号令する。
「構え――」
そのときである。
まだ若い、男の王国軍兵士が、たった一人で飛び込んできた。
◇
「て、敵襲――!」
帝国軍の左翼部隊が輪廻の単身突撃を確認したとき、すでに長弓兵を2人斬り殺していた。
素早く視線を動かして、敵兵の分布と、大将の位置を確認する。
「う、撃て! 撃てぇぇぇ!」
敵の大将と思しき男が叫ぶと、部隊の前方に展開していた弓兵たちが一斉に輪廻に弓を射った。
雨のような矢を、輪廻は斬り殺した弓兵の死体を盾にして防いだ。
「あ……」
第2射をつがえるよりもずっと素早く輪廻は飛び出している。
疾風のように帝国軍の隙間を縫って走ると、その後ろには斬られて血を流した兵士たちの屍が並んでいる。
戦場は地獄などではない。
地獄を作るのは輪廻である。
「重歩兵隊前へ!」
帝国軍部隊の司令部へ肉薄する寸前に、後方に下がっていた歩兵隊が前に出て輪廻を囲む壁になった。
退路を完全に塞がれたが、それでも輪廻の動きによどみはない。
四方八方からの切り込みを蝶のようにかわしつつ、少しでも隙を見せれば容赦なく切り捨て、隙がなかったとしても、輪廻の剣技の前には裸で立っているも同然である。
「囲め! 押しつぶせ! たった一人で戦局を変えられてたまるものか! 右翼部隊を呼び寄せ――」
そう叫んだ司令官ベニード・ウォルコップはその瞬間意識をねじ切られた。
輪廻に続き単身で飛び込んできたアブリル・ヒルマンが、帝国軍が輪廻に気を取られている隙に一瞬で司令部まで滑り込むと、司令官の頭蓋を一太刀で半分にスライスしたのである。
倒れた司令官の死体からは異様な匂いが立ち込めている。もはやそれが司令官だったのかどうかも分からない。
上官の脳髄が地面に撒き散らされたのを見て、副官たちの間にどよめきが走った。
やがてそれは、アブリル・ヒルマンへの恐怖に変わる。
「さあどうした。頭を叩き割られたいのはどいつだ!?」
それから1時間後、帝国軍は全軍が敗走し、王国軍もそれを追撃することなく王国領内への帰還を果たした。
たった二人で帝国軍の左翼部隊に致命的な傷を与えた輪廻とアブリルだったが、ほぼ無傷の状態で本部に帰還し、戦友たちを驚かせた。
帝国軍も王国軍も同数を減らし、全体の戦果としては王国軍がかろうじて収支が正になる程度であったが、この先王国軍が支払わされていた出費を考えれば十分すぎる結末だと言えよう。
また、輪廻だけではなく、ヴァージニアたち三人もこの戦闘では一命を取り留めた。
雛鳥たちは、無事に初陣を生き延びたのである。
アヴリル「なぜ私を連れて行ってくださらなかったのですか……夜一様……」