8.黒の森
帝国軍カリナ・エーデル中将は、軍務省長官との会議を、帝都にある帝国軍参謀本部の自分のオフィスに設けた。
ジョーン・グレイス長官は齢60の老人だったが、眼光のねちっこさと人の弱点を即座に見抜く才能は噂に違わず健在であった。
カリナは軍務省長官を油断ならない人物だと考え、オフィスに入れてからも自分の一挙一動に細心の注意を払わなければならなかった。
「それで。私は東部方面の担当になるのですか?」
無駄な会話をしたくない一心で、カリナはすぐに本題を切り出す。
王国の側から言う場合の「東部戦線」と帝国の側から言う「東部戦線」は同じものである。
帝国は王国の北側と東側を囲むように領土を保有している。ちょうどコの字の下の一画を隠したような形だ。
そして東部方面の戦いとは"┐"の領土の右の一画を争う戦闘であった。
カリナ・エーデルは帝国軍参謀本部では珍しい、女性の士官である。さらに珍しいことに、彼女は帝国軍最年少の中将であった。
彼女の生まれは一般の商人の家である。
父の死後、野心を胸に秘め士官学校に入学し、その後は実力のみで現在の地位に上り詰めた。
人は彼女を天才用兵家と呼ぶ。
肩まで届く銀色の髪と鋭い眼光、それに真っ白な肌は、厳しいながらも気高く生きる美しさを秘めている。
…と、帝国のゴシップ紙は彼女のことを表現した。
しかし実際は肌の手入れをサボるあまり最近はガサガサだし、髪は内地にいるときも3日も4日も平気で洗わないときがある。
何より致命的なのは、カリナは部屋を片付けるのが苦手だった。
さきほどから長官がカリナの話には上の空で、しきりに部屋の中を眺めては嫌そうな顔をしているのもまさにそれが理由だろう。
長官は、ソファの上に散らばっていた、本と下着と書き損じの書類を丸めたものと、鼻をかんだちり紙とこぼした紅茶を慌てて拭いたまま忘れていた雑巾を手でさりげなくどかした。
ちなみにカリナの同僚たちは、一度彼女のオフィスを訪れると大抵は二度と来ることがなかった。
「…とにかく、冬に向けて我が国は北部に物資を集中せざるをえない。首脳部はそういう結論に達している」
「でしたら、私も北部戦線に行くべきでは?」
「いや、最近は東部戦線への圧力が高まってきている。それに南方の部族の反乱もある。あそこの反乱政府と王国が結びつくのは厄介だ。ここはどうあっても、王国のこれ以上の浸透を防がなければならない」
「なるほど……。それで、私の地位はどのようになるのですか?」
「君には第3師団を任せる」
カリナの眉がひくりと動いた。
北部戦線では一個連隊の指揮を任され、奇策を用いて王国軍に対して大きな戦果を上げた経歴があった。
それがいきなり師団相当の軍隊を任されるのは、奇抜な人事だと言えた。
「……期間は?」
「冬が明ければ、再び軍の再編成が行われる。そのとき、我が軍は東部戦線に戦力を集中し、一気に方をつける」
(なるほど。つまり、試用期間というわけね…。その間に成果を挙げなければ切られる、というわけか)
カリナは頷いた。
もとより正式な任務である。承諾する他はない。
「補給も制限されるし、増援もそうは送れん。だが切り札を一枚与えよう」
「切り札?」
「入ってきたまえ!」
長官が大声で呼ぶと、オフィスに一人の男が入ってきた。
一目見て、手と足のバランスがおかしいと思った。
どちらも長い。
そして髪は錆色の赤である。筋肉質で、無精髭に、長い髪を後ろで縛っていた。
「この方は?」
「よう。俺の名前はイールズだ。あんたが俺の主人か?」
不遜な態度でイールズは名乗る。
名前を聞いた途端にカリナに衝撃が走った。
「蛇槍イールズ…」
その名前には心当たりがあった。
南方の反乱軍に対する軍事作戦での活躍は耳にしていた。
民兵上がりのこの男は、たった一人で、中隊規模の敵を壊滅させたという英雄だ。
否、この男が英雄などであるものか。
この男は――毒蛇にたとえられる忌み者。
「切り札というには切れすぎですよ、長官」
カリナは思わず笑いがこみ上げていた。
イールズは主の様子を見て満足そうに頷く。
オフィスを出る際、長官が言った。
「それから君、出発前に部屋を片付けておきなさい」
「…はあ。あの、今日は長官がいらっしゃるので、一応片付けておいたのですが」
「……………」
長官はなんとも名状しがたい表情を浮かべて、それ以上は何も言わずに帰った。
◇
輪廻たち新兵が黒の森に到着したとき、季節はすでに秋だった。
湿った真っ黒の地面。背の高い木が空を覆い隠しているかのようだ。
基本的に舗装された道などなく、柔らかな土と、落ち葉に、張り巡らされた木の根が大部隊の進行を困難にしていた。
馬車から降りて、輪廻たち新兵は部隊のテントに挨拶に行く。
黒の森の戦線にはたくさんの兵士が参加しており、訓練所の仲間で輪廻と同じ隊に配属されたのはヴィセンテ、ヴァージニア、ゴアーシュの三人だけである。
白い円筒形のテントの中が隊長のための部屋になっていた。
部下の一人がテントの中に新兵の到着を告げると中から「入れ!」という威勢の良い声が聞こえる。
中に、猿のような顔をしたいかつい男が仁王立ちしていた。銀色の胸当てのころどころが錆び、切り傷がついている。
ヴィセンテが、度胸試しとばかりに一番最初に口を開く。
「隊長! 俺たちは本日からここの隊の――」
「私は隊長ではない」
という短い答えが返ってきた。
「あのう……それでは隊長はどこにいらっしゃるのですか?」
ゴアーシュが恐る恐る尋ねた。
男が視線を向けると怯えたゴアーシュが体をこわばらせる。
「……隊の中で、一番威張っている女が隊長だ」
ぶっきらぼうにそれだけを答えた。
隊長はすぐに見つかった。
テントを出て外を歩いていると、屈強な男たち数名に罵声を浴びせ腕立て伏せをさせている女がいた。
「た、隊長! もう限界っス! 腕がぷるぷるしてます!」
「馬鹿野郎! 切り込み役がそんなんでどうする! そんなひ弱じゃスプーン一本持てねえぞ!」
「ひいっ」
弱音を吐いた兵士の背中を踵で何度も踏みつけていた。
「もしかして、あなたが隊長殿ですか?」
ゴアーシュが真っ先に声をかけたのは、ひとえに隊長が美女だったからに他ならない。
黒い短髪のスラリとした体型の女だった。
一見してか弱いほどの痩躯だったが、よく観察すれば全身を無駄のない筋肉が覆っているのが分かった。
重い剣を振り回すためではなく、長い時間動き続けるための最適化された体だ。
その隊長が、ゴアーシュを見て、加虐的な表情でニヤリと笑う。
しまった、声をかける相手を間違えた――と、ゴアーシュが後悔したのが輪廻には手に取るように分かった。
「そうかそうか、お前たちが雛鳥か! 待ちかねたぞ。ふふふ、安心しろ、このオレが精一杯鍛えてやるからな。立派な雄鶏に育ててやるぞ喜べ」
「アブリル・ヒルマン王国軍東部方面軍二番隊隊長殿。女王陛下の命を受けてただいまより我々四人が貴官の指揮下に入ります」
「あーあー、よしなに。オレのことは隊長か神様と呼べ」
真面目に形式ばったことを伝えたヴァージニアに対して、ヒルマン隊長は型破りである。
「うちの隊のルールは簡単だ。第一に仲間を見捨てないこと。第二に国を見捨てないこと。第三に自分を見捨てないこと。お前たち雛鳥は何かあればすぐにくたばる出来損ないの鳥だ。だから雄鶏になるまでは絶対に生き残れよ。オレの命令に従っていれば生きて故郷に帰らせてやるぜ。そういえば補佐官のリンドには会ったか? あいつ顔は怖いが腕はそれほどでもない。まあ隊の中じゃ二番目だ。一番は間違いなくこのオレだぜ」
「ここにいるのが王国軍の全軍ですか? 記憶では、黒の森には五個隊が展開しているはずですが」
「一番隊と三番隊は森の北部で作戦行動中。総司令部と、それから四番隊と五番隊の一部は偵察行動中。ここにいるのはオレたち二番隊と、五番隊の後詰めだけだ」
ヴァージニアの質問に隊長が答える。
ヴァージニアの言う通り、大部隊が展開できないことを差し引いても森にはずいぶんと人気がない。
(なるほどね、わたしたちの部隊は留守番か…)
「それで、僕たちはこれからどのようにすればいいのですか?」
「今は待機中だから何もないが、普段から鍛錬だけはしておけ。毎日のたゆまぬ努力こそが生存率を上げるのだ。隊の細かいルールは補佐官から聞け。以上、解散!」
◇
輪廻たちは寝床の確保と細かい事務手続きを済ませる。
最前線であるので、すぐに防具と剣が支給された。
動きを制限される鎧は輪廻の望むところではなかったが、新兵が部隊の決めた方針に逆らえるはずもなかった。
それにしても初日はやることがない。
輪廻たち四人は外で待機している先輩たちに挨拶をして回っていた。
「それにしてもヴァージニア、君も来るなんて珍しい」
「そうか?」
ゴアーシュの疑問に気のない返事を返した。
それにヴィセンテも同意する。
「だって最初に会ったときなんか、まともに口も利かなかったんだぜ」
「うっ、うるさいぞ!」
「別にいいじゃねえか。今の方がいいと思うぜー。まだ取っ付きにくいけどな」
「…勘違いするな。単に、仲間に対しては、もう少し交流を持った方がいいと思っただけだ。その方が戦場で生き残れるしな」
ヴァージニアはそう言ってからちらりと輪廻の方を見る。
輪廻は意味が分からなかったが、とりあえず無難に微笑み返しておいた。
ヴァージニアは機嫌を損ねて輪廻に背を向けて離れて行った。
――そのとき、見回りに行っていたはずの兵士が走って戻ってきた。
木々の間を走って、輪廻たちの目の前に飛び込んでくる。
「て、敵襲!」
そう叫んだが最後、その男はばったりと前のめりに倒れて動かなくなった。
背中には矢が刺さっている。
直後、輪廻の耳は複数の矢音を聞いた。
一番近くにいたゴアーシュを強引に地面に倒す。
「痛っ! 何だい突然!」
ヴァージニアはヴィセンテが木に押し付けて背中でかばっていた。
少し遅れて矢が山なりに飛来する。
咄嗟に対応できなかった者、対応したにもかかわらず運が悪かった者が何人かその犠牲になった。
輪廻の伏せているすぐそばにも矢が刺さっていた。
次に輪廻に聞こえたのは仲間たちの怒声と、敵軍の突撃する音。
「狼狽えるな! 体勢を立て直せ! 押し返すぞ!」
それからは一気に白兵戦になだれ込んだ。
輪廻はすぐにスイッチを切り替えると、剣を抜いて敵の中に突撃した。
「おいおいマジかよ…!」
ヴィセンテがそうぼやきながら輪廻の後に続いた。
愛型「俺の出番まだ?」
シャロ「まだですー」