31.妄執の剣
ミルグランと窓から落ちた輪廻だったが、窓の真下に厩舎あったため、一度屋根にぶつかってから跳ね返って地面に落ちた。
背中に受けた衝撃は強烈だった。一度意識が途切れる。
意識が復活した瞬間、危機感に急かされて輪廻は飛び起きた。
気絶していたのは一秒だったのか、一分だったのか。
たとえ瞬きする程度の時間であっても、ミルグランを相手に無防備を晒すのは命を捨てるに等しい。
輪廻が起き上がったとき、同じく起き上がっているミルグランの姿を見つけた。
ミルグランも輪廻同様、地面に落ちてまったく平然としていられたわけではなかったのだ。
ミルグランは窓から落ちてもなお、握った剣を離さなかった。
もちろん輪廻も、剣だけは死んでも手放すつもりはない。
「あなたのような――」
ミルグランがなおも輪廻に語る言葉を持っていることは、少し意外であった。
応えず、剣を構え、対手に近づく。敵までの距離を七歩、六歩、五歩、と縮める、いつもと同じ歩き方で。
「あなたのような強敵と出会えたことは幸運でした。今夜、私たちの剣技は――」
ミルグランの目が見開く。
彼女に油断など微塵もない。むしろたった今、彼女は目覚めたのである。
輪廻は、自分が立ち向かっている相手の正体を初めて肌で感じ、身震いした。
「あなたという試練を乗り越え、完成する!」
――退がりたい、と輪廻は心底後悔した。
◇
ミルグランの剣術の歴史は浅い。
起源を紐解けば、数十年前にとある用心棒が自らの剣術についての理論を弟子に伝えたのが始まりだった。
まず初めに、素朴な理論があった。
その後、数えきれない実戦の場を経て、数えきれないほどの担い手を渡り、理論の網は抜け目なく、完璧なものへと鍛えあげられた。
彼らは自らの理論に名前をつけなかった。
真理が世界にたったひとつだけであるなら、それを識別するものなど必要がない。
「剣術」の担い手はみな短命であった。
過去の担い手たちは、自らの敗北と死と流血をもって、理論の網を補強していった。
数えきれないほどの剣の才能が、この「剣術」を完成させるために消費された。
そしてミルグランもまた、自らの生命をこの事業に費やす覚悟でいる。
――輪廻がミルグランのしなる剣を弾いた。
弾かれた姿勢から、次の行動に移る。
自らの体勢と対手との位置関係から、「剣術」の中よりもっとも的確な選択肢を採用する。
ミルグランは半身になった輪廻の背中側に移動し、撫でるように輪廻の足を狙う。
輪廻に与えられた選択肢は、先にミルグランを斬るか、もしくは剣を受けるか。
しかし輪廻が先にミルグランを斬るには、距離にして5センチメートル、時間にして0.05秒足りない。
故に、輪廻の選択肢はミルグランの剣を受けることしかない。
それはミルグランの「剣術」の範疇にある。
すぐさま「剣術」の中から次の攻撃を検索し、もっとも効果的な行動を実行する。
必ず敵を屠れる完璧な一撃など存在しない。
ある構えから放たれたある一撃には、それを回避する「正解」が必ず存在する。
しかし――では100の構えがあれば、そこから抜け出す「正解」を常に選び続けられるだろうか。
ミルグランと輪廻の戦いは、つまるところ術理と術理の戦いである。
より完璧な、矛盾のない理論を持つ方が生き残る。
先に敵の綻びを見つけた方が勝つ――。
輪廻の突進をミルグランは軽く受け流した。
輪廻はミルグランの次の行動を予測して動いていた。ミルグランの「剣術」にとってはそれすらも対処可能な範疇にある。紙の上ではとても表現できない複雑な条件と状態遷移が、ミルグランの体内にはすべて完璧に記録されていた。
ミルグランは「剣術」の教典そのものだった。
輪廻の剣はミルグランには届かない。
ミルグランの「剣術」の埓外に出ようとするたびに、ミルグランに「剣術」の中へ引き戻される。
それはまるで、迷宮の中を歩いているかのようだった。
術理の迷路。
ミルグランが輪廻の行く手をすべて塞ぎ、詰み(チェックメイト)となる前に出口にたどり着かなければ、輪廻は死ぬ。
輪廻に同じ場所を巡る余裕などなかった。
自らの退路と選択肢がじりじりと削られているのを感じている。
最短距離で辿りつけなければ、生還は望めない。
――幾度目かの衝突の後、輪廻は身を低く落とした。
否、屈んだのだ。
そして剣は天を刺すように上段へ。
(……これは何だ。気でも狂ったか)
いずれにせよその隙を見逃すミルグランではない。
剣術の射程はミルグランの方が長いのだから、動きを止め、弱点をさらけ出す輪廻の構えは、たとえ相打ち覚悟だとしてもただの無謀である。
何万回と繰り返してきたいつもの踏み込みで、ミルグランは輪廻の眉間に狙いを定める。
そしてミルグランの釘が輪廻を打つ前に。
輪廻は頭上に掲げた剣をするりと地面に落とし――ミルグランの剣を両掌で挟んだ。
「な――!?」
我を忘れてミルグランは驚愕した。
しかし極限まで加速されたミルグランの剣は白刃取りだけでは受けきれない。
剣を挟んだ両掌を切り裂きながら、剣は輪廻へ迫る。
輪廻は両掌をひねり、ミルグランの剣の切っ先を強引に自分の左肩の方へねじ曲げた。
「――うっ」
ミルグランの釘が輪肩に刺さり、輪廻は苦悶の声を漏らした。
ミルグランはすぐに剣を抜いて次の攻撃に移行しようとした。
輪廻は肩に力を込める。激痛が走る。それでも構わずに、肩の内部に食い込んだ異物を咥えて離さない。
地面に落とした剣を拾い、ミルグラン目掛けて斬りかかる。
即断、ミルグランは自分の剣を手放して後ろに下がった。
輪廻の剣先がミルグランの右手を刎ねる。しかし首には届かない。
手首から吹き出すおびただしい出血。ミルグランは袖口を素早く縛って止血した。
そのまま輪廻に背中を向けて、一度も振り返らずにその場から走り去る。
地面に続く血の跡が、夜闇の中に消えていた。
◇
輪廻が地面に膝をついて荒い呼吸を繰り返していると突然背後から声をかけられた。
緩慢に振り向くと、そこにはアブリルが立っていた。もし背後にいたのが帝国軍の兵士なら、輪廻はろくに反撃もできないまま捕まっていただろう。
「おいラディ、生きてるか」
「……ハンニカイネンはどうしました?」
「ヴァージニアが馬車まで連れて行った。お前を助けるように言われて来たんだが…敵はどこだ?」
「もう行ってしまいましたよ。…危ないところでした」
輪廻は立ち上がるだけの精神的余裕をやっと取り戻した。
肩から血が流れている。出血はそれほどでもない。軽く腕を動かしたが、痛みがある以外は特に支障はなさそうだ。ミルグランの剣の細さが幸いしたようだ。
「お前が苦戦するということは相当の手練か…おい、肩を見せろ。止血してやる」
「相手は帝国の兵士じゃありませんでしたよ。あと、言い訳するわけじゃないですけど、この服は動きにくくて……」
輪廻は自分のドレスを見下ろす。
袴と同じで足元が見えないという点では評価できるが、関節の自由度が少ないのはかなりのハンディキャップだった。
輪廻のぼやきを聞いてアブリルは笑った。そして自分のドレスのスカートを引き裂いて、それを輪廻の肩にきつく巻きつけた。
「とりあえず、これで血は止まると思うが…」
そのとき、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
輪廻とアブリルは慌てて身を隠すが、やって来たのは三頭繋ぎの軍用の荷馬車で、御者席にはヴァージニアが乗っていた。
「早く!」
ヴァージニアが叫ぶ。馬車の後ろから、帝国軍と思わしき騎兵がこちらに向かってきていた。怒声が徐々に近づいてくる。
二人は慌てて馬車に乗り込んだ。
荷台の中には両手両足を縛られたハンニカイネンが転がされていた。
◇
馬車を走らせ、要塞の警備を突破する。
ミルグランの襲撃で要塞の警備が混乱していたのが幸いだった。
馬車は森の中を全速力で横断した。
車輪が軋み、荷台が激しく上下に揺られた。気を抜けば舌を噛みそうになる。途中から降りだした雨が、荷台の屋根を激しく打ち付ける。
「遅かったですね。王国のスパイはもう少し優秀だと思っていましたが…買いかぶりでしたか」
ミルグランが言った。全身を拘束され芋虫のような姿になりながらも、口調には余裕がにじみ出ている。
アブリルがハンニカイネンに怒鳴った。
「うるさい、黙ってろ!」
「無礼な人だ……一体誰の力でここまで来たと思ってるんですか?」
ハンニカイネンが笑った。
輪廻が制止する前に、アブリルがハンニカイネンの襟首を掴んで引き上げた。
「おい、何の話だ? 操られているというのはどういう意味だ?」
「諜報戦の基本ですよ。こちらから誘導して相手に望んだ行動をとらせる。でも本人は、自分が望んでこの行動を選んだと思っている。誰かに強制されたわけじゃないから、滅多なことじゃ仕掛けが見破られることもありません」
「仕掛け? 馬鹿を言うな。これはオレの考えた作戦だ」
「ではワタクシの居場所をどうやって突き止めたんです? 要塞の見取り図は? 帝国に入るための準備は? 誰が手を貸した? 自分たちの力だけで、これほどの作戦が実行できると思っていた? それは自惚れもいいところですよ」
アブリルが言葉を詰まらせる。
ハンニカイネンがもう一度高笑いした。
「ワタクシが国境で手配をしなければ、あなた方は帝国に入ってすぐに捕まっていましたよ。そうならなかったのは、ワタクシがあなた方の身分を内務省に保証してやったからです」
「なぜそんなことを…」
「ワタクシを帝国の外に逃がしてもらうためですよ。かなりギリギリでしたがね…もう少し君たちが来るのが遅かったら魔導同盟の刺客に殺されていたところでした」
「てめえ人をコケにしやがって……!」
「アブリル、ちょっと待ってください」
「何だラディ。止めるな!」
「別の馬の蹄の音が聞こえる。誰かが追ってきてるんです」
輪廻は馬車の後ろの幕を少し開いて、追跡者の姿を探した。
馬の影が一頭見える。鎧は着ていないから帝国軍の重騎兵ではない。
あっという間に追いついてきて横に並んだ。
輪廻は騎手の顔に見覚えがあった。赤い刺青に五本の刀。
「九条愛型……!」
輪廻は御者席へ急いだ。
御者席のヴァージニアも九条には気づいている。
「ジニー、追いつかれてるぞ!」
「馬車が重いんだ!」
ヴァージニアが馬を囃し立てるが、九条はぴったりとくっついて離れない。
やがて九条は馬をこちらに寄せてきた。
背中の刀をひとつ抜き馬へ投げつける。
「――ッ! まずい!」
ヴァージニアが手綱を引いて減速すると同時に方向を変えた。九条の投げた刀が馬の鼻先を掠める。方向転換で強烈な慣性が働き、輪廻もヴァージニアも馬車から振り落とされそうになった。
九条はさらに追いすがる。もう一本刀を抜いて、投擲の姿勢をとった。さらにこちらに馬を寄せてくる。
「ジニー! 先に行ってくれ!」
「リンネ…? 何言ってるんだ!」
輪廻も剣を抜いた。
そして御者席から外へ飛び出した。
九条が刀を投擲するより先に、輪廻が九条に空中で斬りかかった。
九条は慌てて輪廻の剣を受けた。
馬上での一瞬の鍔迫り合いの末に、九条は輪廻がとびかかった衝撃を受けきれずに、二人一緒にもつれて落馬した。落ちた瞬間に激しい水音が響いた。
輪廻は地面の上を転がり、木の根に激しく体をぶつけて止まった。
馬車の音が遠くに逃げていくのが聞こえる。さらに九条の馬が逃げる音。
そしてもうひとつ――九条愛型が立ち上がる音。
「おいおい……正気じゃねえぞお前。へへへ」
九条は額から血を流していた。さらに体は泥だらけである。
輪廻も、九条を迎え撃つために立ち上がる。全身に打撲があった。それぞれが燃えるように熱い。
「間違ったら俺たち二人とも死んでたぜ。それに何だその格好は……前世を懐かしんでるのか? へへ、未練がましいぜ」
「嬉しそうだな」
「嬉しいよ。てめえみたいな頭のいかれた女を叩き斬るのは」
九条が三本目の刀を抜き、構える。輪廻もそれに応えた。
雨は激しさを増している。
輪廻の剣に、九条の刀に、顔に、喉に、背中に、地面に、激しく打ち付けられた。
ドレスが水を含み、体が鉛のように重かった。剣を握った掌と、力を込めた肩がズキズキと痛む。
九条が先に動いた。力任せに斬りかかる。
雨にぬかるんだ土が剣術の足運びの妨げになっていた。
輪廻は足を動かさないまま、真上から振り下ろされた九条の刀を受け流した。
足を止めたままお互いの武器をぶつけあう。
呼吸するのも苦しい雨の中で、技も策もなく、ただ夢中で剣を振り続けた。
――真正面で剣を打ち合わせる。
その勢いに押されて、輪廻はとうとう後ろに倒れる。泥と雨水が跳ねた。
同時に九条も体勢を崩して片手をついていた。
九条は笑っていた。
「最ッ高だぜアンタ。俺、あんたをぶっ殺したいし、あんたにぶっ殺されてえ」
輪廻に答える余裕はなかった。すでに全身は傷だらけで、完全に息が上がっていた。激しい雨は輪廻の体温と思考力を容赦なく奪った。九条との斬り合いの最中も、集中力を欠いて夢の中にいるような感覚だった。
技も策もない力任せの打ち合いは、九条が意識している以上に輪廻を窮地に追い込んでいたのだ。
――次で決めるしかない。
輪廻は剣に力を込めた。
その気配を敏感に感じ取ったのか。九条の笑みは消え、同じく必殺の気配を見せる。
九条はそれまで使っていた刀を捨て、腰から四本目の刀を抜く。
そして、九条は構えた。
――それは、ある「仕掛け」に特化した異端の構え。
浅く刀を持った腕を首に巻き付けるようにし、さらに腰と足をひねり地に屈む。全身をひねらせた形から、輪廻の脳裏には横切りのイメージが浮かんだ。
……腕、腰、足、体の関節の同時加速による横切り。
しかしこの構えの欠点は、加速しきるまでの間に体が無防備にさらされることだ。
「行くぞ。望み通り、これで終わりにしてやる」
九条がつぶやいた直後。
九条の体が傾く。否、輪廻の方に向けて倒れるように前に進む。
刀は背面にあった。輪廻の剣を受ける何物もない。
輪廻は差し出された九条の頭を刈り取るため、剣を振り下ろそうとして――。
直感。
まさか、と思う前に。輪廻は自らの直感に身を委ねた。
剣を放棄して後ろに飛ぶ。
泥濘に沈み、反応が遅れた。
九条の体が前に倒れ込む瞬間、閃光のような一撃が放たれた。
……輪廻の剣に九条の体が飛び込んだとき、彼のすべきことはすべて終わっていたのだ。
それは、全身の関節を利用した自動加速。
たとえその途中で術者が頭を跳ねられようとも、回転による腕の「振り」は止まらない。
仮に輪廻が九条の首を切っていれば、その直後に無防備な輪廻を死んだ九条の剣が襲っていただろう。
相打ち覚悟、というよりも相打ち前提の剣。
その名は――最終剣、「巻刀」。
輪廻の顔を熱いものが通り過ぎる。
(――――え)
その感触には覚えがあった。刀で斬られたときの感覚。
一文字に切り裂かれた輪廻の顔から血が吹き出した。
「う……九条……その技は……」
「おいおいおいおい! どうして俺は生きてるんだ? お前、俺を殺せなかったのか? 俺の腸、見たくねえのかよ」
尋常ではなかった。
相打ち前提の剣を、こんな場面で、躊躇することなく繰り出したのである。
「あーあ。お前がちんたらしてるから、もう時間がなくなっちまった」
九条が振り向いた先から雨音に紛れて馬の蹄の音が聞こえた。
二人はすぐに帝国軍の騎兵に囲まれた。
輪廻と九条は武器を奪われ、体を取り押さえられた。頭を地面に押さえ付けられ、手を後ろで縛られた。目の前に流れている赤いものは、自分の顔面から流れた血の色か。
「わーったわかった! 暴れねえから乱暴にするな。ほら、大人しくしてるからよ」
九条も同様に身柄を拘束される。
二人は引き起こされて、それぞれ別の馬車に乗せられた。
「じゃあな輪廻! 俺を殺すまで死ぬんじゃねえぞ! アハハハハハ!」
輪廻はうなだれたまま、馬車の中で死んだように動かなかった。