30.流血の舞踏会
要塞の外から、中の様子を伺う二つの影があった。
ひとつは魔導同盟「執行者」十三賢人がひとり、"釘付け"のミルグランである。
ミルグランは四十を超えた中年女である。オールバックにした髪には白髪が混ざっていた。
「それで、ミルグランさんよお、一体どうやって中に入るってんだ? さっきからぐるぐる回ってるが、どこもかしこも兵隊だらけじゃねえか」
もうひとつの影がミルグランに話しかける。
ミルグランは鬱陶しそうな表情でその人物を見た。
彼の顔には赤い入れ墨があった。輪廻と同じ世界からやってきた男、九条愛型である。
「突破するしかありませんね。裏から行きましょう。あなたが警備を片付けていてください。その間にわたしがハンニカイネンを抹殺します」
「『突破するしかありませんね』。だから最初から正面突破で行こうって言ったじゃねえか。それをあんたが、どこかに隙がないか調べようなんて無駄なことを言わなきゃ――」
ミルグランは九条を一瞥したが、彼の言葉は無視した。
正面は避け、二人は物資搬入用の小さな入り口に近づいた。
すぐに警備の兵士に囲まれる。
ミルグランの目が素早く敵の位置を確認した。
自分たちを囲んでいるのが4人。さらに、向こうの入り口のそばに2人。
「おい、ここは――」
ミルグランは素早く剣を抜いた。
正面の兵士の喉を一突きする。すぐさま剣先を喉から抜き、もう一人の顎から頭頂部にかけて突き刺す。
この間、わずか1秒弱。
訓練を積んだ兵士でさえ、到底反応できる速度ではない。
「敵――!」
声を上げて、仲間に敵襲を知らせようとした兵士の喉が横に裂かれる。
ミルグランはくるりと翻って、4人目の心臓を突いた。
ミルグランが要塞入り口の方へ視線をやると、そこにいた兵士2人をちょうど九条が斬り殺しているところだった。
九条はミルグランが剣を抜いた瞬間に飛び出して、兵士が声をあげる前に一瞬のうちに倒したのだ。
(なんという迷いのなさだ…)
ミルグランは、純粋な剣の腕だけであれば、九条の遥か上を行く自信があった。
いや、九条だけではない。およそ剣術での一対一の勝負で、ミルグランは自らが敗北する可能性をまったく信じていなかった。
しかし、それにしても。
(それにしても、この男は凶暴だ)
身体能力も、剣術も、すべてにおいて一枚劣る九条を、それでもミルグランが警戒する最大の理由は、彼の持つ殺意――としか言いようがない、きわめて優れた攻撃性にある。
「おい何やってるんだ。さっさと中に入ろうぜ」
「…分かりました。ハンニカイネンの部屋は最上階です。邪魔が入らないようにお願いします」
「あんたもしくじるなよ」
「誰に向かって言ってるんですか」
何かの間違いで――この任務で、九条が死んでしまえばいいとさえ、ミルグランは思っている。
九条は今はまだ、十三賢人の補佐という任務を与えられているに過ぎないが、このまま敵を殺し続ければいずれは十三賢人に推薦されるときが来るだろう。
そこまで登りつめたときに、果たして彼は敵を殺すだけで満足していられるだろうか。
ミルグランはまったく足音を建てずに要塞の中を歩いた。
人の気配に敏感な彼女は、巡回の兵士に見つかることなく要塞の中を移動することができる。
階段を上り、最上階へ向かった。
そこに、多数の人間の気配を感じ取る。通路の先にあるハンニカイネンの部屋に行くには、この警備を突破しなければならない。
ためらうことなく廊下に出る。
警備の兵士たちが即座に反応して剣を抜く。その反応の速度でミルグランは敵の技量を計った。
ミルグランがハンニカイネンの護衛を片付けるのに、五分とかからなかった。
「まったく、くだらない…」
いずれも『串刺し』にされた死体を眺めてミルグランが吐き捨てる。
さして手間取ることなく、ミルグランはハンニカイネンの部屋にたどり着く。
部屋の中に入ると、執務机の向こうに標的の姿があった。
机の上で軽く手を組み、まっすぐにミルグランを見つめている。
「……思ったよりも、早かったな」
ミルグランの姿にハンニカイネンが感想を漏らす。
ミルグランはそれに答えることなくハンニカイネンに近づいた。これからもうすぐ死ぬ男に無駄話などする意味はない。
ミルグランはハンニカイネンの心臓を狙って剣を突き刺そうとした。
…ミルグランは剣術家である。
たとえ人を刺し殺す瞬間であれど、周囲に対する警戒は決して怠らない。
実戦においては常に臨戦態勢にあらねばならず、敵が目の前の相手一人である保証などないのだ。
限定された空間の中で、敵が常に一人であることを保証された状況での剣術など、ただのスポーツであり、何の意味もない……と、ミルグランは考えている。
だからミルグランが今まさにハンニカイネンを刺し殺すその瞬間であろうとも、彼女の体に刻み込まれた剣の教えは、背後から飛び込んできた敵の気配をいち早く彼女に知らせたのである。
ミルグランはすぐさま振り向いて、ハンニカイネンに向けていた剣の先を新たな敵の方に向けた。
疾風のような速度で突進する輪廻の剣を、ミルグランの針のような剣が十分な余裕を持って受け止めた。
◇
輪廻が要塞の異変に気づいたのは、カリナ・エーデルに誘われて要塞の最上階に向かったときである。
輪廻は断ったのだが、さりとてあまりムキになって拒否しても理由を詮索される恐れがあった。
結局、カリナにやんわりと流されて、少しの間だけという条件付きで彼女の部屋を訪れることになった。
要塞の最上階に来たところで、廊下に倒れている兵士の死体を見つけた。
「これは……」
カリナは兵士に駆け寄って手首の脈を取ったが、輪廻はそれがすでに死んでいることを見ただけで悟った。
真っ先にアブリルとヴァージニアのことを考えたが、あの二人の仕業ではない。
兵士たちはいずれも急所を一撃で貫かれている。全員、ろくに剣を合わせることもなく殺されたのだろう。
帝国軍兵士は無能の集まりではない。あの二人の技量ではとても無理だろう。
(つまり、わたしたち以外の誰かがこの要塞に侵入している――)
「カリナ、部屋に隠れていて」
「……あなたは?」
「様子を見て来るわ」
「危険です。すぐに衛兵を呼んで――」
「いいから、部屋でじっとしていて。絶対に外に出ないこと。いいわね?」
近くの部屋にカリナを強引に押し込んで、輪廻は死体の道標を辿って廊下の先へ駆けた。
道すがら、殺された兵士から剣を一振り拝借する。
一番奥の部屋のドアが開いていた。
中に剣を持った人物と、その奥にもう一人。
考える前に体が動く。
輪廻は部屋に飛び込んでその人物と剣を合わせた。
「お前は――!?」
「…………」
対手は素早く輪廻の剣の射程外へと逃れた。
この薄暗い部屋の中で、一度剣をかち合わせただけで間合いを完全に見切っていた。
まるで針のような細い刀身の剣を持つ女。
輪廻は苦戦を予感する。
「お前こそ誰だ! おい、どうなってる!」
襲われていた方の男が怒鳴るように言ったが、輪廻には返事をする余裕も、男のことを見る余裕もなかった。
隙を見せれば刺される――!
「……ティモ・ハンニカイネンか?」
「お前は?」
「死にたくなければ僕の後ろに――」
床の軋みを聞いた。
体重移動。
敵の踏み込み。
剣を頭の横で軽く握る構え。
刺突の姿勢。
刹那、輪廻の眉間を正確に狙った一撃が来る。
全身を使って前へ伸ばす刺突は、輪廻の想像以上に素早かった。
刺突を予想していた輪廻は、先んじて動いていた。
対手の剣を払いのけ、飛び込み、一撃で斬り伏せる――そのつもりだった。
完璧な位置で、完璧なタイミングで合わせたはずの輪廻の剣は……対手の剣を受けることなく空振った。
(剣が、曲る――!)
上半身を倒し足を動かし稼働できるすべての関節を駆使し、その一撃だけをなんとか避け切った。
関節が、筋肉が、神経が悲鳴を上げる。
しかしそれらが気にならないほどに、輪廻はその光景が目に焼き付いていた。
刺突の瞬間、相手の剣が曲がったのである。
レイピアと呼ばれる刺突剣の術理。まっすぐに斬るのではなく、剣をしならせて敵を掠め切る。刀の思想とはまるで異なる方向性に発展させた技術。
いやそれにしても、今の一撃は「しなる」というレベルではなかった。
(あれじゃあまるで鞭じゃないの――!)
動作としては刺突であったが、剣の動きは猛獣を払う鞭そのものであった。
不安定な姿勢ながら、輪廻が反撃の兆しを見せると、対手は深追いせずに後ろに下がる。
ハッタリであった。今の輪廻にまともな反撃はできない。
暗闇の中で、対手の表情がわずかに揺らいだのが分かった。
「――"釘付け"のミルグラン」
ミルグランは名乗る。それはまったく合理的ではない行動だった。
彼女が唯一見せた非合理に輪廻も応える。
「ラディ・ダールトン」
それだけだった。
名乗り合った二人には、もはや殺し合うことしか残されていないのである。
悲鳴のような声を漏らしながら、ハンニカイネンが輪廻の後ろ側に回った。
輪廻は後ろ手で背中から離れないように指示する。
対手と睨み合ったまま、輪廻は少しずつドアの方へ移動する。
足音。廊下から。
音だけで、誰が来たのか分かった。
「リンネ!」
ヴァージニアが息を切らして部屋の外に立っていた。
無論、輪廻はそちらを見ていない。
「ジニー、その男がハンニカイネンだ」
「リンネ、私も――」
「そいつを頼む」
輪廻は前に出た。この一歩を踏み出すのにどれだけ勇気が必要だったか。
ミルグランの踏み込み。剣がたわむ。しなる。揺れる。まがる。
切っ先を受け止めることは、最初から期待していなかった。
初撃が耳元を掠める。
輪廻は伸びきったレイピアに剣を合わせ、後退するミルグランにぴたりと肉薄した。
鍔迫のまま、壁際まで押しこむ。
あれほどのしなりを見せていた剣が、伸びきったときにはただの直線であった。
輪廻の力を横に流そうとしたミルグランを、彼女の脇に腕を差し込んで体をロックする。
「やっと捕まえたわ」
至近距離。彼女の、狂おしいほどの殺気を嗅ぐ。
輪廻はミルグランの体を捕まえたまま、背後にある机を蹴って反動を得る。
二人の体はもつれ合ったまま、窓を突き破って下に落ちた。
◇
曲が終わり、アブリルとリンドは繋いでいた手を離した。
「踊りは下手だな。剣はもっと下手だが」
アブリルが皮肉を込めて言っても、リンドの表情はピクリとも動かない。
彼女はとうとう最後までリンドの裏切りの理由を訊かなかった。
リンド・シルブラードの一族は、かつては貴族であった。彼が生まれる前の、遥か昔のことである。
しかし王家との対立によって、シルブラード家の領地は没収され、一族は身分を剥奪された。
リンドは生まれたときから、一族の栄光の歴史を聞かされて育ってきた。
まるで呪いのように。
リンドの魂の奥深くに、その執念は刻み込まれていた。
それまでリンドは王家への復讐など考えたこともなかったのだ。
しかし彼の精神の急所を、ハンニカイネンは確実に見抜いていた。
ハンニカイネンの使者が、彼にシルブラード家の再興を持ちかけた。悩んだ末に、彼は王家への忠誠と仲間たちを売り払うことにした。
アブリルに感謝こそすれ、恨みや敵意など抱いたこともない。
彼女を斬ったのは、それがハンニカイネンに提示された裏切りの条件であったからだ。
彼は諦めていたのだ。
いくら自分がアブリルを好こうとも、家の再興のために斬らなければならないのなら、自分は必ず彼女を斬るだろう、と。
それが抗うことのできない宿命である。
先祖から代々続いてきた呪縛。
「家」という概念が、自らの生き残りのために、その家に生まれた人間の魂を操って動かしている。
それではまるで化物ではないかと、リンドはいつも感じていた。
会場の隅で、警備の兵士たちが慌ただしくしているのが見えた。
何かあったのだな、とリンドは思った。アブリルは一人でここに来たのではないだろうし、ましてや自分とダンスをするために来たのではないだろう。
「オレに言いたいことはないか?」
唐突にアブリルが言った。
リンドは表情を変えずに、すぐに答える。
「何も」
「そうか。俺は行くぜ」
たとえアブリルが帝国で何をしようと、それはリンドには与り知らぬことである。
そう思うことにした。
「お前は格好悪く生き延びろ。オレは格好良く死んでやる」
彼女の捨て台詞は、思いのほかリンドの心を揺さぶった。