27.つぶてにはつぶてを
アブリルの退院から一週間後、輪廻とヴァージニアは宿舎に作られた臨時の隊長室に呼び出された。
「女王陛下暗殺未遂事件は帝国の差金と判断して間違いねえだろう」
二人が隊長室のドアを閉めるなり、アブリルはそう切り出した。
「賊の中に王国軍の警備責任者が混ざってただろ? オレの昔の知り合いに、防諜が専門のやつがいてな。そいつに連絡をとって、裏切り者の身辺調査をやらせたんだが――」
「そんな知り合いがいるんですか…」
「まあな。昔、作戦で一緒になったことがあってな」
驚く輪廻に、アブリルは得意げに答えた。
「王国軍にそんな部隊があるなんて知りませんでした」
ヴァージニアも不思議そうに質問する。
「まあ王国はそれほど情報戦に力を入れてるわけじゃないしな。帝国はそれ専門の機関まであるらしいが」
王国軍には独立した情報機関があるわけではなく、前線の各部隊の中で必要に応じてその役割をを担う者を隊長クラスが任じていた。
つまり組織として、法律として、諜報員の存在が明確に規定されているわけではなかった。
「かなり前に、うちの総司令が各部隊の密偵や工作が上手い奴ばかりを集めて実験部隊を作ったんだ。結局うまく運用できなくて、今までほとんど遊ばせてる状態だったんだがな。こっちから仕事を頼みに行ったら張り切って引き受けてくれたぜ」
(だからわたしたちは劣勢なのよ…)
輪廻は内心の呆れを表に出さないようにするのに苦労した。
輪廻は決して用兵に明るいわけではなかったが、物量で勝るはずの王国軍が帝国軍に対して劣勢である理由にはいくつも思い当たる節があった。
豊富な金属資源を抱え、ほぼ無尽蔵に武器を生産でき、人口でも帝国を上回るのだ。
おまけに王国は雷の魔女の力を、ほぼ自由に使うことができる。列車砲がその最たる例である。
普通に戦えば帝国にここまで遅れをとるはずがない。
(なんとまあ…もどかしい話ね)
「女王陛下がリルムウッドの訪問を決めたのがだいたいひと月くらい前だって話だから、黒幕が暗殺計画を立てたのはそれ以降として、そいつはどうにかして実行部隊のハスケルに連絡を取ったはずなんだ。で、ここ最近ハスケル宛てに届いた手紙は一通だけだった。差出人の名前は故郷の両親になってたらしいが、オレが調査を頼んだそいつは何かあると踏んで、その手紙の経路をずっと追いかけたらしい。そしたら――」
「差出人は帝国軍ですか?」
肝心なところをヴァージニアがかっさらって言う。
アブリルは少し勢いを削がれた調子で「ああ」と答えた。
「帝国の情報局の人間らしい。前に話したことがあったと思うが、例の千里眼の男だ」
「えーと、ハルコンネン、でしたっけ」
「ティモ・ハンニカイネンだ馬鹿め」
「なるほど……。それで、今日はそのことを教えるために僕たちを呼んだんですか?」
「もちろんそれもあるが、それ以外もある」
「! 何かの作戦ですか?」
ヴァージニアが勢いづいて言う。
退屈を持て余していたのは輪廻だけではなかった。いやむしろ、真面目で血気盛んなヴァージニアの方が、より退屈を苦痛に感じていたのだ。
アブリルは、静かな調子で作戦を発表した。
「女王陛下暗殺未遂の報復として、ハンニカイネンを拉致する」
しばらく、輪廻もヴァージニアも、何も言わなかった。
「…何だその顔は。言いたいことがあるなら聞いてやるぞ」
「あの、僕には、その情報局のハンニカイネンって人を、前線におびき出す方法がまったく想像できないのですが」
「あのな、情報局の役人が戦場なんかに出てくるわけないだろ」
「僕もそう思います」
「だったらこっちから出向くしかないだろうが」
「つまり…帝国領に侵攻するということですか?」
ヴァージニアが声を上げた。
今の混乱しきったリルムウッド駐屯軍に、黒の森に敷かれた帝国の防御を突破する能力があるとは、まともな戦術眼のある人間なら誰も思わないだろう。
しかし、アブリルはヴァージニアの言葉に首を振った。
「侵攻する、ってのは違うな。正確には潜入する、だ。あいつらがしてきたように、こっちも姿を隠してこっそりと入るぜ。『つぶてにはつぶてを』――ってな」
戦場で英雄が、敵の兵士が投げたつぶてが目に当たり失明した。
英雄はすぐさま片眼の状態でつぶてを投げ返すと、それは相手にも同じように当たり、敵の兵士は英雄と同じく片目を失った。
かつて、ラディ・ダールトンの父が幼い輪廻に話して聞かせたことのある昔話だった。
「実はもう準備は始めてるんだ。スパイに頼んで、ニセの身分はなんとか用立てられそうって話だし。後は、帝国に駐在している王国の大使に手引きしてもらえれば、王国とは無関係な国の貴族にでもなって帝国に堂々と入れる」
「しかし、ただの旅行者がどうやって情報局の幹部に近づけるのですか?」
「その点も考えてあるぜ」
ヴァージニアの疑問を、アブリルはすぐに解決した。
「今度、アンアディール要塞で戦勝パーティをやるらしい。帝国貴族やら、共和国の大使やらを呼んで盛大にやるそうだ。黒の森の土地自体に価値はほとんどないからな、せめて最大限政治的に利用してやろうって腹だろう。ムカつく話だが、そのおかげでオレたちは身分さえ借りれば簡単に中に入れるってことだ」
しかし問題はどうやって外に出るか、ということだ。
輪廻は、前世に更場武術団で活動していたころの経験から、侵入よりも脱出の方がよっぽど難しいことを知っていた。
「細かいところはアドリブでどうにかするしかない。だから、この作戦は少数精鋭で行く。この命令に関してはお前たちに拒否権を与える。どうするか、明日返事を聞かせてもらう」
アブリルはそう言って話を締めくくった。
輪廻もヴァージニアも、翌日を待たずに、任務の承諾をその場でアブリルに伝えた。
◇
輪廻は墓に花を供えていた。
輪廻以外の人間には、それが墓だとはわからないかもしれない。
墓石の表面に無理やり刻みつけた「わぬる」の文字は、輪廻の故郷の文字だった。
輪廻はワヌルの死体を憲兵に明け渡さなかった。
彼のことは、アブリルにも報告していない。
特に口止めをしたわけではなかったが、ヴァージニアも黙っていてくれた。
戦士として死んだ彼を、せめてもの慰めとして、自分の手で葬ってやりたかった。
それが、彼を殺した者として自然な行為だと思ったのだ。
きっと彼が殺す方だったとしても、殺した自分に対して同じ事をしただろうと思う。
哀しみと、同情。
そういう生き方しかできなかった戦士の成れの果て。
自分もいつかはそうなるのだろうか。いや、そうなっていたはずだと、輪廻は墓の前で考えていた。
きっと誰よりも、自分が彼のことを理解していて、彼こそは自分のことを理解してくれたのではないかと、そんな想像があった。
剣を合わせていた瞬間が、今にして思えばどんなに健やかな時間だったか。
斧原一心。
ワヌル。
輪廻の同類たちに花を供える。
死んだ人間に慰めもないだろうと、冷めた心で考えつつ。
「お兄ちゃん!」
誰かの声が聞こえて輪廻は我に返った。
墓石の前でずっと物思いに耽っていたらしい。
輪廻を呼んだのは、クリスティナだった。
「ああ………クリス」
「お兄ちゃん、こんなところで何してるの?」
「まあちょっと、考え事を」
「ふーん」
クリスティナは納得した様子ではなかったが、深く追求はしなかった。
花の供えられた輪廻手製の墓に目をやった。
「……誰かのお墓?」
「まあ、ね」
「大切な人?」
「僕に似た人だよ」
「あたしも祈っていい?」
「もちろん」
死んだワヌルが文句を言うはずもなし。生きていたって、きっと文句は言わないだろう。
クリスティナは輪廻の隣に並ぶと、目を閉じて黙祷した。
輪廻は幼馴染の横顔を盗み見る。
ただ善意によって死者に祈る彼女は、無垢な僧侶のように見えた。
「それで、どうしたの? 僕を探してたんだろ?」
「うん。…………あたし、村に帰ろうと思うの」
その一瞬だけ。
輪廻は、強烈な質量の孤独を感じた。
すぐに平常の心を取り戻す。引き止めたくなるのを我慢した。
「そう…。僕を連れ戻すのは、諦めたんだ?」
「そういうわけじゃないけど……こっちに来てずいぶん経つし、お金だってもうあんまりないし」
「だったら――」
「何?」
「いや、なんでもない。僕の両親によろしく」
「お兄ちゃん、あんまり無茶はしないでね。お兄ちゃんは強いかもしれないけど、お兄ちゃんのまわりの人は強くないんだから」
「うん。肝に銘じる」
「……もう行っちゃうから言うけどね。あたし、お兄ちゃんのこと、いつもよく分からなかったの」
クリスティナは輪廻ではなく、墓石の花を眺めて言った。
「だってお兄ちゃん、いつもあたしたちじゃなくて、遠くを見てる気がしたんだもん。……お兄ちゃんがずっと見てたのは、ここだったんだね」
(どうだろう。分からない。だけどあの村が自分の居場所だと思えなかったのは本当だった)
「……そんなことはないよ。僕の故郷はあの村だ」
「お兄ちゃん。あたしと初めて会ったときのこと、覚えてる?」
覚えているはずがなかった。
他人の人生を生きていた輪廻は、同じ村に住んでいた同じ年頃の子供のことなど、まるで興味がなかった。
「もちろん」
「やっぱりね」
クリスティナは悲しげな表情で答える。
すべてを見透かされていると、輪廻は思った。
――こうしてクリスティナは、リルムウッドから去った。
◇
帝国領への潜入作戦の準備は着々と進められていた。
偽造の身分証の用意に、要塞周辺の地図入手と警備状況の調査などである。
これらの準備には帝国に駐在している大使の強力があった。帝国領内にスパイ網を持たない王国では、大使にその役割を期待するしかないのである(もちろん帝国側の大使もそういった側面をまったく持たないわけではないが)。
数日後、輪廻とヴァージニアは再び宿舎の隊長室に呼び出された。
アブリルは、潜入のための準備が整ったことを簡潔に二人に伝える。
「それじゃあ僕たちは、パーティに招待された公国のとある貴族のふりをして、要塞に入るわけですね」
「あー、そのー、それなんだが、ちょっと問題があってだな…」
腕を組んだアブリルの眉間には珍しく皺が寄っていた。
輪廻とヴァージニアは、机の上に広げられた潜入用の様々な書類の中に、アンアディール要塞から発送された招待状を見つけた。
最初に気づいたのはヴァージニアだった。
「隊長。これ、招待状には、"リップフェルトの三姉妹を招待"となっているのですが」
「ああ、……オレたちが化けるのは、公国の三人姉妹の貴族だ」
ヴァージニアが絶句した。
輪廻は、何が問題なのかすぐにはピンと来なかった。
「それの何が――ああ、そう、確かに問題ですね」
すぐに気づいて、慌てて言い繕った。
つまり、輪廻は男なのである。
ヴァージニアがアブリルに異議を唱えた。
「他の人間を探すわけにはいきませんか」
「時間がかかる。ぐずぐずしてたら戦勝パーティが終わっちまう。それに三人組で、帝国軍に顔が割れてなくて、かつパーティを欠席してるやつなんざ、そうそう簡単には見つからねえだろう」
「では……」
「ああ。ダールトン、お前女装しろ」
アブリルはやや捨て鉢に言った。
「女物の貴族の服と、化粧道具は用意した。……つらいだろうが、これも任務のためだ。我慢してくれ」
「はあ。まあ、僕は一向に構いませんが」
「リンネ……ごめん」
なぜかヴァージニアも謝っていた。
それからアブリルとヴァージニアは輪廻を別室に連れて行き、三面鏡の前に座らせた。
女装のための予行演習。
試しに輪廻に化粧をしてみよう、ということになったのだ。
が、アブリルは幼い頃から剣の道で生きてきた人間である。
上手な化粧の仕方など分からない。
最初から指揮を放棄して、この件(女装)に関してはヴァージニアに全権を委ねてしまった。
しかしヴァージニアの方も、化粧をした経験がまったくないというわけではなかったが、彼女ほどの身分の貴族は自分で化粧などするはずもなく、化粧をするときはすべてメイド任せである。
ヴァージニアは少し迷ってから、白い粉状の化粧品をパフにつけて、いきなり輪廻の頬に塗りたくろうとした。
「あ、ちょっと待って。その前に、下地を作ってからの方が…」
「下地?」
「ほら、この瓶の、クリームのやつ」
輪廻は手を伸ばして、白い瓶の化粧品をヴァージニアに渡した。
「これを塗るのか?」
「そう。薄く、ムラがないようにね。そのあとに、こっちの粉のやつを付けるんだよ。ただし、目とか口の周りは薄くね」
「なぜだ?」
「このあたりはよく動くから、化粧が崩れやすいんだよ」
「ダールトン、こっちの紅はどうするんだ?」
「まずは輪郭をとってから、次に中を塗ってください。あ、口紅は最後ですよ」
「……お前、なぜ化粧に詳しい?」
「え、と。ほ、本で読んだから…」
輪廻は苦し紛れに答えた。
女性二人の冷たい視線が痛かった。
数十分後。
ヴァージニアとアブリルは、輪廻の化粧の出来栄えにため息を漏らした。
「うむ……これは………」
「すげえ……どう見ても女だ………っていうかお前……」
「こんな感じですか?」
輪廻は鏡に向かって微笑んだ。
後ろにいる二人が「はうっ」と悩ましげな声を上げた。
「な、何ですか、その反応……」
「……ダールトンお前、なぜそんなに女装に慣れている?」
「え、っと……慣れてないですよ。別に」
実際、輪廻は化粧には慣れていた。
江戸で盗賊をやっていたころ、色目を使って標的の屋敷に忍び込むのには必須の技術だった。
化粧の匂いで輪廻が思い出すのは、血の色と殺戮の手応えである。
それは決して色っぽい思い出ではない。
「……おいリンネ。お前、なぜ女の化粧に詳しい。一体誰の化粧を見て覚えたんだ? 答えてもらおうか」
そしてなぜか今にも爆発寸前のヴァージニアである。
助けを求めてアブリルに視線をやったが、こちらも同様の調子だった。
(まったく……なんて言い訳したものかな)
いまひとつ化粧の乗りの悪い、ラディ・ダールトンの顔をもう一度見た。
江戸にいたころの輪廻には数段劣るが、これなら男のひとりやふたりは引っ掛けられそうではある。