26.長い長い夜が明けて
夜が明けると、リルムウッドは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
正体不明の暗殺者集団が、あろうことか軍隊の駐屯している街のまっただ中で女王の命を狙ったのである。
しかも、総司令官のマイルズは死亡し、女王の護衛をしていた親衛隊も全滅してしまった。
総司令官の死亡が確認されたことでリルムウッド駐屯軍の混乱は決定的なものとなった。
序列としては、東部方面軍のナンバー2である副司令官が全軍の指揮を執るのが妥当と思われた。
しかし副司令官というポストはもともと武門の人間が務める役職ではなく、総司令官の補佐、特に補給や法務に関わる意思決定を行うのが役割であり、軍事的な裁量を与えるのは不適当だとする意見もあった。
では軍事的な役職で総司令官に次ぐ者となると、そこからはもう横並びで、さらにそこに政治や指揮官同士の個人的な確執などが加わると、もはやリルムウッドの一般市民は言うに及ばず、兵士たちにすら誰に命令を仰げばいいのか分からない事態になっていた。
そして政府の方でも、軍務大臣は女王と一緒に鉄道でリルムウッドから離脱している最中であり、また本国の方は女王暗殺未遂事件のインパクトが強すぎたため、リルムウッドの指揮系統にまで気を回す者はいなかった。
そんな事情から、かつてマイルズの指揮下にあった5つの部隊は、それぞれの隊長の下で独自の行動を始めていた。
輪廻は事件の翌日、警備隊に呼び出され丸一日を事情聴取に費やした。
しかし部隊の混乱の影響が警備隊にも及ぶと、もはや事後調査などやっている余裕はないのか、再び輪廻が呼び出されることもなく、輪廻の行為に対する軍の評価は宙ぶらりんのまま、保留される形になった。
ただでさえリルムウッドでは任務もなく時間を持て余していた輪廻である。
事態の混乱が進むにつれ、世界に置き去りにされたかのような居心地の悪さを感じていた。
◇
女王暗殺未遂事件から数日後、輪廻はアブリルの退院祝いのために病院を訪れた。
リンドに斬られた傷によって一時は生死の境をさまよっていたが、幸運と、アブリル自身の持つ生命力によって、すでに戦場に復帰できるまでに回復していた。
「医者が驚いてたぜ。こんなに早く治るとは思わなかったってな」
「でも退院してからが大変ですよ。僕なんて、剣の勘を取り戻すのに半月はかかってますからね」
「問題ねえよ。指揮官は指揮するのが仕事だ。剣の腕なんて部下に舐められねえための飾りでしかねえ。…ま、飾りが効かない奴もたまにいるけどな」
ベッドの荷物を片付ける手を止めて、アブリルは輪廻を見た。
一体何のことを言っているのだろうとたじろぐ輪廻に、アブリルは肩を軽く叩いた。
「聞いてるぜ。女王陛下を守ったんだってな。勲章どころか、爵位がもらえるぜ」
「警備隊の感じだと、あんまり褒められてる感じじゃなかったですけどね…」
むしろ罪人のような処遇だった。取調官の横柄な態度を思い出して、輪廻は胸がムカつくのを感じた。
アブリルは輪廻の顔を見て笑い出す。
「そりゃそうだ。本当ならあいつらが女王陛下を守らなきゃいけなかったんだ。それが、横から来た部外者に手柄をかっさらわれりゃ腹だって立つさ。…こんな混乱期じゃなきゃなあ。お前も勲章と爵位をもらって、オレの隊にも箔がつくんだが。時期が悪かったな。まあ、ホテルの中を警備してた奴らは全滅だって話だから、同情くらいはしてやらないと可哀想だが…」
「今日僕を呼び出したのも、それに関係した話ですか?」
輪廻は昨日の夜に、メリーナから明日ひとりで病院に来るようにというアブリルの伝言を受け取っていた。
「まあメインの目的は快気祝いなんだけどな…。よっと」
アブリルはベッドに腰掛けて脚を組んだ。
ベッドのそばには見舞い客用の椅子が置いてあり、アブリルは輪廻にその椅子に座るように言った。
「この間の事件のことを詳しく聞きたい。概略はいろんなツテで耳に入ってるが、オレはお前から直接聞きてえんだ」
それからしばらく、アブリルの質問に答える形で事件当夜とその前に起きた出来事を輪廻が分かっている範囲で話した。
すでに何度も警備隊の取り調べで話していたことだが、相手が違うだけでずいぶんとやりやすさが違うものである。
「…なるほどな」
アブリルはそう言って頷くと、顎に手を当てて考え事を始めた。
「そういえば、調査はどこまで進んでるんですか? そういう話、僕のところまで来なくて」
「まだ何も分かってねーんじゃないかなあ。あいつらが帝国軍の刺客だって証拠もないみてーだし」
輪廻は最後に戦った男のことを思い出した。
「まあそこはおいおい分かることだろう…オレもオレで調べてみるしな。そうだ、面白い話を聞かせてもらった礼をしてやる」
アブリルは立ち上がり、ベッドの下から何かを取り出した。
それはあの夜、ホテルに入ったときに、警備に預けたままになっていた輪廻の刀だった。
「これ、お前のだろ?」
「何で隊長がこれを…」
「いろんなツテを使ってホテルの事件を調べてたら、これを見つけてね。部下にここまで届けさせた」
輪廻は礼を言う時間も惜しんで刀を受け取った。
手が触れた瞬間、自分の体の一部のようにその感触がしっくりと馴染んだ。
「……ありがとうございます」
「お前のそういう顔が見たかった」
アブリルは冗談を言った。
病み上がりには見えない豪快な笑い方をする。
「なあ、ダールトン」
「はい」
「これからも、オレと一緒に剣を握ってくれるか」
「はい」
なおも冗談めかしたアブリルに、輪廻は真面目くさった表情で答えた。
◇
一方、帝国側のカリナ・エーデルの耳にも女王暗殺未遂事件の噂は流れていた。
カリナはすぐに部下のオーベルを部屋に呼ぶと、暗殺未遂事件について大至急調査を行うように命じた。
管轄外の調査のため、カリナ自身がアンアディール要塞から動くことは憚られた。また、ハンニカイネンに対する重しとしても、カリナ自身が軽々に行動することは控えるべきだった。
現状、カリナ率いる東部方面軍第3師団に対して、ハンニカイネンが司令官を人質に取っている状況に等しかったが、逆を考えれば、カリナがハンニカイネンの手中にいる以上は不必要にカリナの部下に累が及ぶことはないとも言えた。
カリナはハンニカイネンを嫌悪する一方で、ただ残虐で下劣なだけの男だとも思っていなかった。
ハンニカイネンは手段と目的を混同しない人間だ。
問題は、ハンニカイネンが第3師団をカリナに対する切り札として使う可能性だった。
カリナは、いずれ自分とハンニカイネンの衝突は避けられないと考えていたが、問題はそのための布石を今どれだけ打っておけるか、ということである。
これまでのように事態が起きてから対処をしていたのでは必ずあの男に詰まされてしまう。
カリナが女王暗殺未遂事件の噂を耳にしたのはそんな折であった。
王国での暗殺事件、ひょっとするとハンニカイネンにも関わりがあることかもしれない。
カリナは藁にもすがる思いで、要塞の自室でひたすらオーベルの調査が終わるのを待っていた。
オーベルが再びカリナの部屋を訪れたのは、調査を命じてから二週間後のことだった。
「……しばらく留守にしていたら、また一段とすごいことになりましたね」
「何です?」
カリナはソファの書類と服と毛布と食べかけのパンとその他色々なゴミを、そのままどさっと床に落とした。
「調査、ご苦労様でした。どうぞ、かけてください」
「ソファの前に片付ける場所があるでしょうよ」
オーベルは床の上に散らばったゴミや本を踏まないよう、ジグザグに足を伸ばしながら何とかソファのもとまでたどり着いた。
一方、カリナは普通に床の上のものを踏んづけて歩いていた。
勝手知ったる自分の部屋である。何を遠慮することがあろうか。地の利はカリナ・エーデルにあった。
「それで、どの程度まで掴めましたか?」
「先日、王国のシャルロット女王がリルムウッドを訪問した際、女王の命を狙って帝国軍の暗殺者が宿に侵入したそうです。暗殺は失敗して、女王は今王都に戻っているところだそうですが」
「帝国軍の暗殺者だというのは本当ですか?」
「王国軍はそう判断しているようですが、何せ刺客は全員死亡したそうですからね。暗殺者が身分証明書なんか持ち歩いているわけないでしょうし、確実な証拠を掴んでいるわけではないと思います」
「私も、調査を待っている間、あちこちに問い合わせてみたいのですが、情報局の正式な作戦ではなさそうです」
「少なくとも実行部隊は全員、正規の兵士ではなかったみたいですが」
しかしそれだけで帝国軍の関与がなかったとは断言できないのが難しいところである。
情報局の正式な作戦にも、しばしば不正規の(軍人でない)人間が使われることがある。
例えば正規の軍人を暗殺に送り込んで、万が一敵に捕まった場合は、政治的にも軍事的にもマイナスの効果が非常に大きい。
しかしこれが不正規戦闘員であれば、何か問題があってもすぐに切り捨てられるし、情報局の作戦行動を探られるリスクも少ない。
「……ハンニカイネンの差し金でしょうか。許可を得ていない作戦行動ならば、軍法廷に起訴できます」
黙って考え込んでいるカリナに、オーベルが言った。
言われるまでもなく、カリナはその可能性を検討していたのである。
カリナは慎重に口を開いた。
「問題は二つあります。ひとつ、ハンニカイネンが暗殺を指示した証拠が必要ですが、そんなものが残っているとも思えません。ふたつ、ハンニカイネンが有罪になるより先に、私たちがスパイ容疑で処刑されます」
「なるほど……」
「しかしそれ以前に、本当にハンニカイネンが指示を出したのかどうかも確実じゃありませんし。案外彼はまったくの無関係で、別の組織が指示を出したのかもしれません」
(何かが咬み合わない。だけど何かが起きているのは事実だわ)
それならむしろ好都合。このまま座して詰みを待つよりも、読み合いの泥仕合になればまだ勝ちの目はある。
「あなた、しばらく要塞を離れて隠れていてください」
「――は?」
オーベルは、上官の命令の意味が分からなかったらしい。しかしカリナがそれ以上の説明をしなかったので、オーベルは恐る恐る問い返した。
「あの、それはどういう意味でしょうか」
「ここのところ、色々調査をしてもらったせいで、あなたは少し動きすぎました。多分そろそろ、ハンニカイネンがあなたをマークするころだと思います。だからほとぼりが冷めるまで、しばらく姿を消していてください」
「ですが、そうなると中将は……」
「護衛が100人いても、今回の戦いには何の意味もありませんよ。むしろ命を盾に取られて邪魔になるだけです。それなら私ひとりでここに残る方がマシです」
「それが命令であれば、従いますが………」
「命令です。従ってください」
カリナは笑顔で答えた。
――波乱の気配を、感じていた。