25.女王暗殺(後編)
コブは出血しながらも必死に体を動かしてワヌードたちを探していた。
主人の危機を第六感で察知したのか、あるいは血の匂いを嗅ぎとったのか、そう時間もかからずにワヌードの方から姿を現した。カザルスも一緒である。
「コブ、やられたのか!?」
カザルスが駆け寄ってコブの手当をしようとする。カザルスには医療の心得があった。
しかし敵地のまっただ中で、しかもこれほど出血していては手の施しようがない。
応急処置として簡単な止血をするくらいしかカザルスには為す術がなかった。
カザルスは何も言わなかったが、彼の治療の様子を見てコブは自らの死期を悟った。
「ルーミル、も、やられた。女王、の、護衛は、二人、だけ、だ、すぐに、行って、女王を……」
コブの顔面は血の気が引いて蒼白である。
かすれるような声で命令を出したが、カザルスは動かない。
「カザ、ルス?」
「もう無理だ」
「な、に……?」
「ハスケルも死んでたよ。五人いたのが今は三人で、もうすぐ二人になる。このままじゃチームは全滅だ。作戦は失敗したんだよ」
「まだ、まだ、終わって、いない、女王、暗殺すれ、ば」
「あんた手間取りすぎたんだよ。計画なら今頃、女王の首を片手にホテルを脱出していたころだ。早く脱出しないと、迷宮香炉の効果が切れて敵が殺到してくるぜ」
「ま、待て、貴様……」
「俺は作戦通り、今から脱出するぜ。残って女王を殺したいならそうすればいい」
「裏切る、のか」
カザルスは面倒臭いと言わんばかりにため息をついた。
「裏切るも何も、作戦が失敗した以上、脱出するのが最善の策だろう。今から女王を探して殺す? だがそれでどうなる。そんな悠長なことをしていたら俺たちはどうせ脱出できずにここで全員死ぬ。俺たちの組織の目的は何だ? 魔女による正統なる世界の統治だ。俺たちが死んだら誰がそれを達成する? あんた女王を殺すことにこだわりすぎだ。次の機会に賭けよう」
「つ、次……」
「ああ、悪いな。あんたはここでおしまいだったか。だけど俺を巻き込まないでくれよ。そうすりゃ、いつか俺があんたの理想を実現してやるさ」
いつになるか分からないけどな、と冗談混じりに付け加えた。
コブの声が徐々に弱ってきた。
しかし最後の力を振り絞って、死者とは思えぬほど力強く、冷静な声で命令した。
「ワヌード、カザルスを殺せ」
「え――」と、カザルスが問い返す暇もなく。
ワヌードが音もなく抜いた剣は、肋骨と肋骨の隙間から正確に心臓を破壊した。
ひっ、と短く息を吸い込んだ。それがカザルスの最後の呼吸になった。
半開きになった口の中から血がだらだらと溢れて、カザルスはぴくりとも動かなくなった。
一方、ワヌードにカザルスの殺害を命じたコブも、命令を口にするのに残された生命のすべてを使い切ったのだろう、目を閉じて眠るように絶命していた。
ワヌードは、自分が殺した仲間と、自分に殺しをさせた仲間に一瞥をくれて、しかし表情を変えることなく剣を鞘に戻した。
コブが絶命してからしばらく後、迷宮香炉の水晶から徐々に赤い色が抜けてゆき、とうとうその機能を停止した。ホテルを再び迷宮にするには、もう一度香炉に火をくべなければならない。
しかしもはや、それをする人間はここには誰もいないのだ。
◇
ホテルにかけられた魔法の力が消えたすぐ直後、ホテルを取り囲んでいた警備兵と親衛隊が数ヶ所から内部に突入した。
ホテルの中を歩いていた輪廻たちは、最初大勢の足音が迫るのを聞いて敵の大群が来たのかと剣に手をかけて身構えたが、姿を現したのがどうやら味方であると気づいて警戒を解いた。
親衛隊の第一目標は女王の安全確保である。
親衛隊員は輪廻やヴァージニアとろくに言葉をかわすことなく、シャロの腕や服を掴んで四方を囲みながら強引に連れ出した。
「ジニー! リンネさん!」
「シャロ」
「あの――ありがとうございましたっ!」
慌ただしくホテルから連れ出されながら、シャロはそれだけを言い残した。
ホテルのすぐ外には馬車が三台停まっており、親衛隊はそのうちの一台に女王を押し込んだ。
護衛がドアを叩いて合図をすると、馬車が三台とも一斉に走り出した。
目的地は郊外に停車中の鉄道であり、女王が乗っていない二台の馬車は囮である。三台がそれぞれ別のルートを走り、三台それぞれに同レベルの警護がつく。
真夜中だというのにリルムウッドは騒然とした雰囲気だった。
本来、女王護衛の権限を与えられていない輪廻とヴァージニアはすぐにホテルを追い出された。
すぐに警備隊によるホテル内の捜索が始まった。二人はそれに参加することもできずに、ホテルの包囲網の外で所在なくその光景を眺めていた。
「リンネ。そういば、どうしてホテルの中にいたんだ?」
「あ……そういえば。ジニーに用があったんだ。すっかり忘れていたけど」
「何の用だ?」
「一言謝りたくて」
「ああ……」
ヴァージニアは頷いた。
「全面的に僕が悪かったよ」
「ふん。別に、気にすることはないだろう。虫の居所が悪いことは、誰にだってある」
「ありがとう」
「私の方こそ、無神経なことを言って悪かった」
たったそれだけでこの話題はお終いだった。
輪廻が思っていたよりも、ずっとあっさりとした会話だった。
ああ――なるほど。
こんなに簡単なことだったんだ――。
ヴァージニアが小さく欠伸をした。
輪廻の視線に気づいて、恥ずかしそうに顔をそむける。
「そういえば、もうすぐ夜が明けるね」
「ああ。…明日は大騒ぎだろうな。早く帰って寝よう」
「うん。そうだね」
輪廻とヴァージニアは宿舎に向かって歩き始めた。
ホテルへ向かう兵士と何度かすれ違ったが、街の中心から離れるとそれすらもなくなった。真夜中である。人気がないのが普通なのだ。
「待て」
背後から短く呼び止める声。
輪廻の体内は自動的に臨戦態勢に移行した。相手がただ者ではないと、尋常ならざる気配が物語っている。
日に焼けた異国風の大男である。身長は2メートルを優に超える。太腿の筋肉が長距離を走る飛脚を連想させた。
――血の匂いをかすかに感じる。
男は返り血を浴びていた。
輪廻はすぐに理解した。ホテルから自分たちを追いかけてきた、暗殺者の一人だ。
「ラディ・ダールトン。私と戦え」
男ははっきりとした発音で輪廻に言った。
無骨な見た目とは裏腹に、透き通った、爽やかな声だった。
「…あんたは?」
「私の名前はワヌル・アバン・ティケーエ・ウード。…私をワヌードと呼ぶ男は死んだ。もはや私を縛る契約の鎖は切れている」
「シャロを狙ったのは何故だ?」
「シャロ? ……女王のことか。それは知らない。私は命じられただけだ。あの男たちが何を企んでいようと興味はない」
「だったら、どうして僕と戦う必要がある? 主人の仇討ちか?」
「違う。強い者と戦うことは、戦士の性だ」
「……そんなことをする必要は、ない。僕とあんたが戦ったら、お互いに手加減はできない。きっとどちらかが死ぬことになる」
「神殿戦士の称号を持つ戦士にとって、強き者との戦いでの死は名誉だ」
「反吐が出るわ」
輪廻は剣を抜いた。慣れない他人の剣。
もとより説得で戦闘を回避できるとは思っていなかった。
距離は10メートルほど。ワヌルは武器を持たぬ両手をだらりと下げたまま、こちらの様子を伺っていた。
「ジニー、下がって」
念のため声をかけた。
ヴァージニアは大人しく後退する。
「助けを呼ぶか?」
「必要ない」
どちらが勝つにしろ、どうせ助けが来る頃には終わっている。
ワヌルが一歩進み始めた。
背中に回した二本の鞘から右手と左手、二つの剣を抜いた。
刀身は錆色、片刃の曲剣である。剣の柄から細い鎖が腰のベルトにつながっていた。
右手を前に突き出しながらワヌルが走る。
距離を詰めるのは一瞬。
突き出した剣を輪廻は受けた。
ワヌルが左手の剣で輪廻の心臓を突こうとした。
輪廻はワヌルの背後に倒れるように剣を避けて、さらに次の一撃を予測して事前に回避の動作に入っていた。
ワヌルの剣が外れる瞬間に合わせて、輪廻は相手の胴を狙った。
が、その一撃はワヌルのもう一方の剣で防がれる。
その返しで輪廻の首を狙う一閃。実はそれはフェイントで、本命は太腿を切りつける左手の剣。
そこまでは読んでいた輪廻だったが、さらにその奥にあった策略までは届かなかった。
外した剣を引き戻さず、最小の距離で輪廻の顔面への肘打ち。
輪廻の視界がぐらりと上下に振れた。
目視ではなく勘で、胴を狙うワヌルの右の剣を捌き、左の剣を、あえて剣の方に体を滑らせることで回避した。
輪廻はかろうじて罠から逃れ、右の肩を斬られながらもなんとか致命傷は避けきった。
輪廻は苦し紛れにワヌルの下半身を狙って剣を振ったが、ワヌルは細かくステップを踏んで後退しており、輪廻の剣先から紙一重で逃れる。
不用意な追撃などできるはずもなく、輪廻もワヌルの動きに合わせて後退し、双方の距離が再び開いた。
短い応酬だったが、互いに命を削り合うぎりぎりの勝負であった。
(あいつ……わたしの剣の間合いを完全に読んでる)
輪廻は自分の肩の傷を気にした。
ワヌルは戦いにくい相手である。身体能力の限界が読めないことに加えて、彼の剣の術理は輪廻にとってはまったく未知のものだった。
ワヌルが腰を低く構えた。
それを見て、輪廻は二度深く呼吸をして体勢を整える。
しかしワヌルは近づいて来なかった。
剣を輪廻に向けて鋭く投擲する。
直線で迫る剣を剣で撃ち落とす。
輪廻はその直後、ワヌルのもう一方の剣が、頭上から山なりに飛来しているのに気がついて、慌てて地面を転がった。
輪廻の立っていた場所に剣が突き刺さる。
その直後、ワヌルは剣につながっていた鎖を引いて剣を取り戻した。
さらに二度、三度と間を開けることなく投擲する。
山なり、直線、カーブと、ワヌルは変幻自在の軌道で双剣を放つ。
輪廻はそれを、剣で弾き、回避し、何度も懐に飛び込もうと試みたが、その都度飛来する双剣の壁に阻まれていた。
双剣の軌道もさることながら、輪廻が驚愕したのは双剣がまったくの無音で飛来する点である。
ワヌルの双剣はただの曲剣ではない。
この剣は、ワヌルの故郷の部族に古くから伝わる狩りのための剣だった。剣の反りと、剣に刻まれた溝、それに剣の根本にある窪みが、この剣が投擲されたときの、空気を切り裂く音を極限まで減衰させているのだ。
消音性だけではない。投擲する際の回転の具合で、剣の空気抵抗が大きく変化する構造にもなっていた。
例えばまったく回転させずに投擲すれば、剣は直線の軌道で最短の時間で標的に突き刺さるし、逆に大きく回転を加えれば、空気抵抗で双剣の飛行速度は大幅に低下し、重力に引かれて山なりの軌道を描く。
さらに、剣を投げる際の地面に対する傾きを変えれば、刀身の左右の空気の流れに不均衡が生じ、その結果剣は一方の側に空中でカーブする。
幾人もの達人の手を伝わり変化し、長い年月をかけて到達した剣技の極地である。
そしてワヌルはまさに、この剣の担い手たる資格を持った戦士であった。
そのような達人が、一体どうして暗殺者の手先と成り果てたのか――。
五度目の投擲を防ぎ、輪廻は勝負に出た。
正眼に構えた剣を、さらに上に持ち上げて、上段の構えとする。
言わずもがな、胴体はがら空きである。
否、それこそが輪廻の狙いであった。
上段に構えれば、山なりの軌道で飛来する剣を簡単に撃ち落とすことができる。
この構えをとった相手へのもっとも有効な攻撃は、隙だらけの胴、あるいは足に最速かつ最短で剣を投擲することである。
――攻撃を誘い、双剣をぎりぎりで避け、相手が剣を引き戻す前に鎖を断ち切る。
真正面からしか来ないことが分かっていれば、最初の一撃を避けること自体は可能である。
問題は、速度だ。
輪廻が鎖を斬る前に引き戻されればそれで終わりだし、また輪廻が鎖を断ち切る瞬間にもう一方の双剣を合わせられても回避する術はない。
しかし、ワヌルは誘いに乗らなかった。
剣を両手に構えて近づいてくる。
それに対応して、輪廻も上段から下段へと構えを変える。
突然、ワヌルが輪廻に剣を投げた。
いや、投げた、という表現は不正確である。
まるで、輪廻にパスするくらいの速度で、しかし剣は正確に輪廻の顔面を狙っていた。
完璧な不意打ちである。
「ふッ――!!」
剣を切り上げた。切り上げてしまった。
輪廻の剣先が、天を指していた。
ワヌルの体が弾丸のように加速した。
一足で輪廻へ接近する。
しかしそれでも、ワヌルが剣の間合いに入るよりも、輪廻が剣を切り返して振り下ろす方が早い――!
ワヌルは、輪廻との距離を完全に埋めきる前に、輪廻の胴を狙って剣を横に振った。
足りない部分は剣を伸ばして補う。
ワヌルが掴んでいたのは、剣の柄ではなく、そこから伸びる鎖の部分である。鎖を掴んだ分、普通に剣を持つよりも遠くへ届く。
輪廻が剣を振り下ろす時間の差を、代わりに距離で埋めたのだ。
輪廻は咄嗟の判断で、剣を振り下ろすのではなく、上段に構えた剣をそのまま下ろし、剣の柄でワヌルの刃を受けた。
――そのときワヌルは、最初に投擲した剣をすでに引き戻していた。
輪廻がワヌルを斬るのと、ワヌルが輪廻を斬るのが、遠くから戦いを見ていたヴァージニアにはほぼ同時に見えた。
互いの一撃が交差し、二人の立ち位置がぐるりと入れ替わった。
相手に背中を向けたまま立ち止まる。どちらも、振り向いて相手を斬る余力はなかった。
「…うっ、ぐ」
輪廻が呻く。
脇腹から出血があった。たまらず膝をつく。
しかし致命傷は避けていた。ワヌルの短剣は輪廻の肋骨に阻まれて、内臓を傷つけるには至らなかった。
そのとき、ワヌルの右腕が落ちた。
文字通り、切り落とされた、のである。
切り口から輪廻の比ではない出血があった。
二の腕から吹き出す血液を、ワヌルは冷静に観察して、双剣の一つから器用に鎖を外すと、腕の根本に巻きつけて止血した。
ワヌルは振り返って再び輪廻と対峙した。
輪廻もワヌルを正面に捉える。
片腕を切り落とされなお、ワヌルの目の闘志は一切衰えることがない。
「待て、ワヌル、これ以上は――」
ワヌルが走った。しかし、片腕を失った、重心の変わった体に慣れていないらしく、その速度は先程とは比べるまでもない。
ワヌルの左手の剣が奔る。
輪廻はそれを軽くいなし、今度こそ止めを刺す気だったが、ワヌルは片腕でも数度、輪廻の攻撃を防いだ。
結局輪廻はワヌルを殺しきれず、鍔迫の末にワヌルの左腕も切り落とした。
両腕を落とされて、ワヌルがふらつきながら後ろに下がる。
腰の鎖につながれた剣が、ワヌルの左腕ごと地面の上を引きずられて血の線を引いた。
ワヌルは先ほどと同じように、足と口で切り離された自分の左手から剣を奪い、脇と口を器用に使って左腕の出血も止めてしまった。
しかし失われた血液はもはや致命傷に等しかった。
ワヌルの顔面は蒼白で、唇が凍えたように震えているのが分かった。おそらく、平衡感覚は乱れ、視界は朦朧とし、耐え難い不快感が意識を蝕んでいるだろう。
だが、戦士の矜持は敗退を許さなかった。
「待て! ……死ぬぞ」
「……死を恐れてはいない」
「そこまでして僕と戦うことに何の意味がある?」
「矜持のために」
ワヌルは大地に接吻するかのような姿勢をとった。
地面に落ちた短剣を口に咥える。
「矜持にかけて私を殺す、か――。死ぬために生きてるのね、アンタ」
ワヌルが走った。
最後の力を振り絞って。
獣のような速度。
狙いは輪廻の喉元。
その迫力と気迫に、さすがの輪廻も気圧される。
バキン! と大きな音が響いた。
双剣ごと、ワヌルの頭を半分に切り飛ばした。
絶命したワヌルの体は、執念に突き動かされるように数歩か歩くと、恨めしげに輪廻の体へ倒れかかった。
輪廻はワヌルの体を両腕で受け止めた。
こぼれ出た脳髄が体にかかるのも構わない。
いたわるように、ただ輪廻はワヌルの体を抱きしめていた。