22.授与式の幕は上がり
マイルズが警備計画の変更を受け入れた日の夜の出来事である。
リルムウッドの警備隊長、マンスフィールドは上機嫌だった。
王国軍の兵士にとって警備の役割は閑職である。
もちろん、黒の森の前線部隊とは違い、命の危険に晒されることのない内地での勤務はそれはそれで同僚たちの羨望を集めるものであったが、その分出世につながる手柄があげにくいのが頭痛の種だった。
マンスフィールドは貧乏貴族の出身である。
彼が隊長の座についたのは手柄をあげたわけではなく、マンスフィールドの上官だった大貴族出身の兵士たちが軒並み軍を去り、最終的にマンスフィールドだけが軍に取り残されたというだけの話だ。
彼は臆病者ではあったが、野心は人一倍持っていた。
今回の女王の来訪は自分の功績を作るまたとないチャンスだった。
というよりは最後のチャンスかもしれない。マンスフィールドはリルムウッドのような田舎町に心底うんざりしていたのだ。
また、女王がリルムウッドに来ることを知らされているのが、自分を含めて東部方面軍の極わずかの人間であるということも彼の自尊心をくすぐっていた。
(…俺は司令官殿に気に入られている! 上手くすれば、王都に戻れるかもしれない)
必要以上に普段よりも厳しく部下をこき使い、その日の任務が終わった帰り、マンスフィールドは町にある唯一の酒場に立ち寄った。
カウンター席に座り、度の強い酒をちびちびと飲む。
酒場では一時間ほど飲んでいただろうか。
コインをカウンターに置いて、ほろ酔いの状態でマンスフィールドは席を立った。
少し歩いたところで、派手な格好をした娼婦の格好をした女とすれ違う。
すれ違うとき、マンスフィールドは大きく開かれた女の胸元に注目していた。
女が顔に笑みを作る。マンスフィールドは仄かな期待を寄せた。
女がピンクの羽の扇子を勢い良く開いた。
――暗い酒場の中では、扇子を開いた本人以外は誰も気づかなかった。
扇子が開かれると同時に、内側から針が四本、放射状の軌道で飛び出した。
飛び出した針のうち、二本はマンスフィールドの服の上に刺さったが、残り二本は首とこめかみの近くに刺さった。
ちくり、と痛みを感じて、マンスフィールドは顔をしかめる。
しかし針は極小で、おまけにマンスフィールドには酒が入っていた。
女の扇子から飛び出した針には極細の糸がつながっている。
たとえ日中であろうとも目を凝らさなければ見つけることのできない特殊な糸だ。
女が自然な動作で扇子を引くと、それに繋がった針がマンスフィールドの体から抵抗なくするりと抜け落ち、女は針と糸を素早く回収した。
女の動きにはまるで気が付かず、マンスフィールドは顔なじみに挨拶して酒場の外に出ようとした。
次の瞬間、ぐにゃりと視界が歪む。
平衡感覚がなくなって体が傾き、大きな音を立ててそのまま床に倒れた。
やがてマンスフィールドは、自分がしばらくまったく呼吸をしていないことに気がついた。
女――ルーミルの仕込針には即効性の毒が塗ってあった。
この毒は人間の神経系に作用し、呼吸と平衡感覚を奪って絶命させる。
すぐに手当をすれば助かるだろうが、突然倒れたマンスフィールドが毒を受けたと気づく者はあるまい。
あと数分も経たずに彼は絶命するだろう。
突然倒れたマンスフィールドに酒場がどよめく。
ルーミルはさり気なく扇子を仕舞うと、倒れたマンスフィールドを心配する演技をしてから目立たないように酒場を出た。
「おい君! どうした!」
客の人ごみをかき分けて、コブがマンスフィールドに駆け寄ったのが見えた。
◇
酒場にいたコブが警備隊長の死体を兵舎まで運び、部下に司令官を呼ぶように指示した。
マイルズが兵舎に到着した時、コブは警備隊長の死体を検分していた。
隣には無口な護衛の姿もある。ワヌードは部屋に入ったマイルズのことをぎろりと見たが、かしこまることも媚びへつらうこともしなかった。
「ずいぶん早いな」
「私も酒場にいたもので」
「何だと?」
「偶然ですよ。それよりこれを見てください」
床の上に服を脱がされた警備隊長の死体があり、周囲に蝋燭が立てられている。
コブが死体の首と顔を順に指さした。
紫色の小さな斑点が見て取れる。
「何かが刺さった跡…。皮膚の色が変わっています。つまりこれは、この男が生きている間に刺さったものです」
「……君は医学の心得があるのか?」
「父から教わりました。話を戻しますが、もし彼が何かの病気や発作で倒れたのだとしたら、体にこのような跡は残りません。これは、毒の塗った針のようなもので刺した跡だと考えられます。刺客があの酒場にいたのです」
「…すぐに手配して、酒場にいた人間を全員捕まえよう」
「いえ、無駄でしょう。それにそんなことをしては、女王陛下の命を狙う者がいることが明るみになり、軍の中にいる裏切り者の話もきっと漏れてしまいます。…これが暗殺であるということは伏せておいた方がいいでしょう。あくまで持病による発作だと発表するのです」
「ううむ…そうだな…」
「敵は思っていた以上にやり手のようです。この町にいるすべての人間が容疑者です。……閣下、先日捕えた敵のスパイを、より警備の厳重な場所へ移しましょう。消されたり、ひょっとすると奪い返されるかもしれない。現に警備隊長が暗殺されたのですからね。奴は私たちが掴んだ唯一の証拠です。ここで失うわけにはいかない」
「分かった。取り計らう」
「ホテルに移すのはいかがでしょう?」
「それは無理だ。女王陛下がお泊りになられる場所だぞ」
「だからこそ、警備は厳重でしょう? 部屋をひとつ借りて、そこに閉じ込めておくだけでいいのです。どうせあの男のことは報告しないのですから、問題にもなりませんよ。それに、女王陛下を守りながら同時にあの男を警備する余裕などありません」
「…なるほど。君の言うとおりだな」
マイルズは即座に応じた。
コブは内心ほくそ笑みながら、深刻な表情を続けている。
(――これでカザルスをホテルの中に送り込める)
「ところで、後任の警備隊長は誰になるんです? 人事は誰が?」
「任命するのはおれだ。まだ決めていないが…」
「ハスケルはどうですか? この町に始めて来たとき彼が案内をしてくれたのですが、信用できる男だと思います」
「考えておく」
マイルズは少し嫌な顔をして答えた。
露骨に口を出し過ぎたかと思い、コブはあまりしつこくせずにすぐに引き下がる。
「警備計画の方はどうです?」
「無論完璧だよ。ネズミが入る隙間もない」
「特に、外の警備は厳重にお願いしますよ。あの大工みたいに、外側に何か工作をされてはかないませんからね」
「そんなことより早く裏切り者を捕まえたまえ。おれが君の忠告に従っているのは、君に権力を与えるためではなくて、君が裏切り者を捕まえられると断言したからだ」
「わかっていますよ…閣下」
にこやかに答えた。
人を安心させる笑顔の仕方は心得ている。
すべては父から学んだことだった。
(父上……。あなたが望んだ世界は、俺が実現させる)
コブ・サザートンの父、トール・サザートンは戦場で、帝国との戦闘中に命を落としていた。
しかしコブはその死を王国の陰謀と疑ってやまなかった。
トールが王国の社交界から疎まれていたのは、彼が熱心な改革主義者で平等主義者だったからだ。
その意志は息子のコブに、「魔女による王国の支配」という理想として受け継がれた。
やがてコブは王国内の「魔女派」に接触し、利権と汚職のために魔女に擦り寄る薄っぺらな連中を追い出し、命を投げ売って理想に殉教する戦士たちの組織を作り上げた。
(理想の成就…そのために…そのために)
父から受け継いだ理想は、コブの中で犯さざるべき神聖なものとなり、まるで怪物のような巨大な何かに変貌を遂げている。今、この瞬間も。
◇
女王陛下がリルムウッドを訪問することが正式に発表され、王国軍だけではなくリルムウッドの一般市民も大いに沸き立った。
輪廻は一見して平常心を保ちながらも、内心は尋常ならざるものを抱え込んでいた。
女王から輪廻に勲章が与えられることが知らされたためである。
ヴァージニアたち二番隊の仲間は素直にそれを祝福した。
もちろん、輪廻自身は勲章のことをやたらと吹聴したりするようなことはしなかったが。
「すごいじゃないか。女王手ずから勲章を受けるんだ。誇っていいぞ」
「ああ…」
輪廻は剣を振りながら上の空で答える。
輪廻は未だにリハビリ中だったが、徐々に元の動きを取り戻しつつある。
元が凡人である輪廻は、修練と継続によって人並みを超えた剣の技を手に入れたのである。
それは、数日の怠惰と休息によってたやすく失われてしまうものなのだ。
場所はリルムウッドの郊外。
ヴァージニアだけではなく、訓練に付き合っていたヴィセンテと、ついでにクリスティナも一緒にいた。
「…その割にはあまり嬉しそうではないな」
「そうだよお兄ちゃん! 勲章だよ! お父さんとお母さんに教えてあげたら絶対に喜ぶよ。うん、絶対喜ぶ! えへへ、もしかしたら村にお兄ちゃんの銅像が建つかも」
「それは一体どんな辱めだ……」
「戦場で強敵を討ち取ったのだから褒賞は当然だ。…と、思うのだがな」
「別に、勲章をもらうのが嫌ってわけじゃないんだよ」
「だが嬉しいわけでもない、って感じだな、オイ」
ヴィセンテが槍をくるりと回しながら言う。
図星だけに、何も言い返せない。
ヴァージニアが顔色を変えて詰め寄った。
「どうした。何が不満なんだ? 森から撤退したことか? 隊長が傷ついたことか?」
「別に…。人殺しの技術を褒められるのには慣れてるし。つまり、女王は僕にもっと殺せと言ってるんだろう? 分かってるよ」
「おい、リンネ」
ヴァージニアが耳元に顔を寄せて、小さな声で言う。
「どうした? お前、おかしいぞ。シャロに腹を立てているのか? でもシャロは女王なんだ。国のために働いた兵士に報いるのは義務だ。シャロはお前に人を殺すように頼んでいるわけじゃない」
「分かってる」
「いや分かってない。シャロはお前が戦場に出るのを引き止めたんだぞ。それを咎めたのは私だが、お前だって、軍人になったのは戦うためだったはずだ。自分で選んだ道なのに、そんな言い方はないだろう」
「ジニーは――」
言いかけて、輪廻は口を閉ざした。
怪訝そうにヴァージニアは挑発的な目を向ける。
「どうした?」
「…修練の邪魔だから、下がっててくれ」
ヴァージニアが輪廻から離れると、輪廻は素早く剣を振り下ろすたびにくるりと振り向いて前後を交互に切った。
まるでヴァージニアを遠ざけるような剣筋だった。
ヴァージニアは不快感を顔に出したが、輪廻に取り付く島もないのを見て「勝手にしろ」と言い残して兵舎に戻っていった。
意外なことに、クリスティナも、不安そうな視線を輪廻に向けてから、ヴァージニアの後を追って行ってしまった。
「後で謝っておけよ」
「ごめん」
「俺に謝ってどうする」
ヴィセンテは肩をすくめる。
「理由を聞いてもいいか?」
「んー。あんまり話したくはないかも」
「じゃあいい。自分一人で解決しな」
「うん…」
八つ当たりだとわかっていた。
しかし輪廻は、師であり友であった斧原一心との決闘について未だに消化しきれていない思いがあった。
ましてやそこに、他人に土足で踏み込まれるような真似はされたくなかった。
なぜ自分は斧原一心を殺さなければならなかったのか?
彼が敵の側にいたから?
それだけのことで彼を殺した?
いや、斧原一心は輪廻と戦うことを望んでいた。輪廻は自分の身を守るために奴を殺したのだ。
自分は間違っていない。
勲章? くれるというのなら受けてやろう。英雄だというのなら、そうなのだろう。さあわたしを祭り上げろ。幻想を被せてしまえ。敗北の記憶を塗りつぶせ。
――お前だって、軍人になったのは戦うためだったはずだ。
(どうしてわたしは軍に入ったんだろう)
そんなこと、決まっている。
緒神輪廻は人を斬ることしか能のない人間だったからだ。
江戸にいたころ、ただ生きるために人を斬る生活は、地獄ではあったが、楽だった。
――ただ、目の前の を斬るだけだ。
団長が命じればどんな死地にだって飛び込んだ。
人を斬るだけの道具でありたかった。
何かのためではなくて、理想のためではなくて、ただ生きて死ぬだけの存在でありたかった。
けれど輪廻は、何かのために、斧原一心を殺したのだ。
名誉のため? 仲間の命のため? 自分の命のため? 意地?
そんなはずがない。
ただ輪廻は、自分の居場所にしがみついただけ。
過去の自分への供養を諦めただけ。
だから、輪廻は。
この想いを――勝利という言葉で、踏みにじられたくないだけだ。
◇
夜、マイルズが馬車でホテルに戻る途中、一人の女性が馬車の前に飛び出した。
馬車は急停止し、女性は轢き殺される寸前でかろうじて一命を取り留めた。
御者が女性に対して罵声を浴びせると、女性は道にうずくまって怯えたように身を縮こませた。
マイルズは馬車の窓から顔を出して女性の姿を見た。
上等なドレスを来た若い女性で、大きな目とふくよかな腰のラインが魅力的だった。
馬と御者に怯える姿が、まるで男を誘っているかのように扇情的に見えた。
マイルズは湧き上がる下心にごくりと喉を鳴らした。
御者に命じた後、マイルズは馬車を降りて女性の方へ近寄った。
「お嬢さん、大丈夫かね?」
女性はマイルズの手を取るとゆっくりと立ち上がって謝罪の言葉を口にした。
ドレスの胸元がわずかにはだけて、中から透き通った白い肌が覗いていた。
「いや、気にしないでくれたまえ」
「ごめんなさい。あの…道に迷ってしまって。この町には来たばかりなんです」
「よければ、馬車でお送りしよう」
「あの…よろしいんですの?」
上目遣いに尋ねる女性に、マイルズは心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
一連のやり取りの最中、女性はずっとマイルズの腕を掴んだままだった。
貴婦人に化けたルーミルがマイルズに取り入る様子を、通りの影からコブが観察していた。
ルーミルが化けているのは実在の人物である。本物の方は、縄で縛られ口枷を嵌められ屋敷の倉庫に使用人もろとも閉じ込められている。
どちらかといえば暗殺よりも変装の方がルーミルの専門分野である。
駒は、すべて配置についた。
残りは王手をかけるだけ――。
◇
数日後、女王陛下がリルムウッドに到着し、町の広場で勲章の授与式が行われた。
勲章を受け取るのは輪廻を含めて六名の兵士たち。
厳重な警備の中、輪廻は式典の最初から最後まで、無言と無表情を貫いた。
一見すると、大勢の前に立つことに緊張しているように見える。
勲章を受け取るとき、輪廻は女王の顔を間近に見た。
輪廻以上に表情のない、人形のようなシャロを見た。
輪廻と目が合うと、人形の仮面が一瞬だけ溶けて、中から友人との再会を喜ぶ無邪気な少女の顔を覗かせた。
――司令官のマイルズの予想に反して、勲章の授与式は滞りなく執り行われた。