18.早すぎた到着
昼過ぎ、任務のないヴィセンテは町外れの荒野で影の槍を振るっていた。
訓練兵だったころにも槍を握ったことはあったが、自分の命を預けられるほど熟練しているわけではない。
故郷の友人たちの中ではもっとも腕っぷしが強く、どんなにたくさんの相手と喧嘩しても決して負けなかったヴィセンテだったが、王国軍に入り、今のアブリル班の面々と出会って自分の世界の狭さを痛感した。
空中にある、想像の中の目標に目掛けて槍を突く。
戦略兵器とまで言われた『毒蛇のイールズ』の使っていた槍である。
手にしっかりと馴染み、頑丈で、重心も安定している。
その分槍は重く、振り回していると飛ばされそうになる。
しかし槍を振り回すときは、この重さこそが大きな武器となるのだ。
にしても妙な槍だとヴィセンテは思う。
表面はすべての光を吸い込む暗黒で、前の持ち主がずいぶん使い込んでいるはずなのに引っかき傷ひとつ見当たらない。
一体どんな金属でできているのか見当もつかない。
(魔女が作った槍だって言われたら、信じちまうだろうな)
一心不乱に槍を特訓していると、そばの街道を灰色のコートを着た人物が通りかかった。
その人物は足を止めてヴィセンテの方を向いた。
ヴィセンテはそれに気がついていたが、向こうから声をかけられるまではずっと槍に集中しているふりをしていた。
「あの、すみません」
少女の声だった。
よく観察すると、フードの下に日に焼けた肌と薄い金色の髪が見えた。
「リルムウッドはここですか?」
「ああ。そうだが」
「もしかして軍の人ですか?」
「まあな」
ヴィセンテが汗を拭いながら答えると、少女の声が一気に明るくなった。
「それじゃあ、ラディ・ダールトンがどこにいるか教えてくれませんか?」
「ラディ?」
「はい! ……もしかして、お兄ちゃんの知り合いの人ですか?」
「お、お兄ちゃん!?」
驚愕した。
少女がフードを取ると、なかなかに可愛い、健康的な女の子の顔があらわになった。
◇
「あのぅ…何か面白いものでも?」
輪廻が病院でのんびりと窓の外を眺めていると、消毒液を運んでいたメリーナに話しかけられた。
別に何か面白いものが見えるわけでもなかったが、見舞い人でも来ない限りは怪我人がベッドの上でできることなど窓の外を眺めるか部屋の中を眺めるかくらいしかない。
輪廻は退屈を持てあましていた。
けれど決して、トラブルを求めていたわけではないのである。
「お兄ちゃん!」
「ようラディ! 可愛い女の子を連れてきたぜ」
「ゴホン。加減はどうだ。その、たまたま見かけたから、私もついてきたが」
輪廻の退屈を吹き飛ばすような出来事が一斉にやって来た。
メリーナは「ひぃっ」と悲鳴のような声を上げてそそくさと仕事に戻った。賢明な判断だと輪廻は思った。できれば自分もそそくさとこの場を離れたい。
ヴィセンテとヴァージニアはいい。
いや、先日のメリーナとの一件以来ヴァージニアとは少し気まずくなっていたのは事実だったが。
そしてなぜかメリーナとは気まずくなっていない。
そのことがさらにヴァージニアの機嫌を損ねていた。
問題は、輪廻のことをお兄ちゃんと呼ぶ少女である。
輪廻の記憶が確かならば、ラディ・ダールトンに妹は存在しなかった。
「お兄ちゃん大丈夫なの!? 刺されたって本当!?」
「うん…まあ。ほら、この通り――」
「あたし、お兄ちゃんが病院にいるって聞いてすごく心配したんだから! 家を出てからぜんぜん連絡が来ないし、もしかしたらどこかで死んでるんじゃないかって……」
「あー。それはごめん。この間手紙を書いたんだけど……」
「じゃあ入れ違いになったんだね。お兄ちゃん大丈夫? 痛くない?」
「動かさなければ大丈夫…」
「……お兄ちゃん? どうしたの?」
「えーっと……」
(まさか「忘れた」なんて言えないわよね……)
「もしかして…クリスのこと忘れたの?」
「い、や! そ、そんなわけないじゃない! うん、もちろん覚えてるよクリス」
(今思い出した……)
お兄ちゃん! と言って輪廻の肩に優しく少女が抱きついた。
怪我人を傷めないための配慮が輪廻にはこそばゆかった。
ごほん、とヴァージニアが咳払いした。
「ラディ。妹殿を、私にも紹介して欲しいのだが…」
「そうだぜ。つーかお前ら、似てねえな」
ヴァージニアが輪廻のことを「リンネ」と呼ぶのはふたりきりのときだけだった。
「ああ、そうだね。この子は、僕の妹じゃなくて、幼なじみの……えーと」
(ありゃ…名前なんだっけ。クリスってのは渾名だったはず…)
「クリスティナ・ゾラです。お兄ちゃんとは昔からずっと一緒でした」
「ああ……クリスの家とうちの家は仲が良くてね。小さいころはずっと一緒に遊んでたんだ」
「お兄ちゃん何言ってるの? 今だって一緒に遊んでたじゃない。あ、お兄ちゃんが軍に入るまでの話ですけど」
「そういえばそうだったね」
と曖昧に同意した。
正直言ってクリスティナのことはあまり印象に残っていないのである。
覚えていることといっても、そういえば近所にクリスという愛称の女の子がいてお兄ちゃんと呼んで自分のことを慕っていたなあ、という程度である。
「そうか……妹ではないのか……」
ヴァージニアが冗談ではない雰囲気で呟く。
それに気が付かないのか、あるいは無視して、クリスティナは輪廻の方を向いた。
「お兄ちゃん、軍なんか辞めてすぐ家に帰ろう」
「いきなり何を…」
輪廻ではなくヴァージニアが答えたが、やはりクリスティナの耳には入らないらしい。
「だってお兄ちゃん、あたしに相談せずに勝手に軍に入るんだもん。お兄ちゃんのお父さんとお母さんもひどいよ。お金のためって聞いたけど、それってお兄ちゃんを軍に売ったみたいじゃない」
「そんなことはないよ。僕自身が軍に入りたかったわけだし」
「お兄ちゃんには軍人なんて似合わないよ! だっていつもぼんやりしてるし、流されやすいし」
「そんなことはないぞ。ラディは優秀な戦士だ。勝手に決めるな」
再び輪廻の代わりにヴァージニアが反論して、クリスティナはじろりとヴァージニアを睨む。
「お兄ちゃんとはあたしが一番長く一緒にいるの。だからあたしが一番お兄ちゃんのことを知ってるの」
「私は戦場でラディと命を預け合った。自分がラディのすべてを知っていると思うのは傲慢だ」
「……あなた、いちいちあたしに突っかかってきますね」
「べ、別に、そんなことはない、ぞ?」
「目が泳いでますけどー?」
「ただ私は正しいと思うことを言っただけで、他意はない」
「というか部外者が口を出さないで欲しいんですけど」
「私は部外者じゃない」
「ただの同僚でしょう!?」
「お前だってただの幼なじみじゃないか」
じり、と睨み合って一歩も退かない二人。
ヴィセンテは今にも口笛を吹いて退散しそうな表情だった。それを無言で押しとどめる輪廻。一人だけ逃してたまるか。
「あー、ところでクリス、一体何しにここに来たの?」
「うん? ああそうそう。お兄ちゃんからいつまで経っても連絡が来ないから、心配になったお父さんとお母さんの代わりにお兄ちゃんの様子を見に来たの」
「僕の…両親が?」
「あたしのお父さんとお母さんね」
「人の家の子を心配する前に自分の娘を心配すべきなんじゃ……」
「そんな他人行儀なこと言わないでよ。お兄ちゃんよく家に来て泊まったじゃない」
「泊まった!?」
「泊まっただけだよ」
と、一応ヴィセンテに釘を差しておく。
「とにかく……僕は軍を辞めるつもりはないよ」
「お金の事なら心配しないで。あたしがお兄ちゃんの分も稼ぐから。どうせ家の仕事を継ぐし、もしお兄ちゃんがよければ、一緒に働いて、お兄ちゃんの家にお金を渡せばいいよね」
クリスティナの両親は鍛冶屋だった。もっとも、武器の類は作っていないようだったが。
「ね、お兄ちゃん。一緒に暮らそう?」
「それって結――」
「駄目だ。そんなのは認めない」
ヴァージニアがクリスティナに反論して以下略。
「…まあ、あれだ。とりあえずその話はラディが退院してからだろう。なあ、二人とも」
最後にヴィセンテがそうまとめて、言い合いに疲れた二人は渋々頷いてくれた。
三人が病院から出て行ったのを見て、輪廻は疲れてベッドに倒れる。
窓の外を眺める余力も残されていなかった。
◇
それからクリスティナはリルムウッドの安宿に宿泊し、毎日のように輪廻のもとを訪れては甲斐甲斐しく看病をした。
「はいお兄ちゃん包帯替えてあげるからねー」
「ほらラディお前のために菓子を持ってきたぞ一緒に食べよう」
「わーお兄ちゃん汗いっぱいかいてるねあたしが拭いてあげる」
「何だお前食べるの大変そうだなそうだ私が食べさせてやろう」
「うふふお兄ちゃん前よりもずっとたくましくなったね」
「あははラディそんなにがっついて食べるなまあ美味しいのは分かるが」
「前に一緒にお風呂に入ったときはもっと――」
「おいちょっと待てお前今何と言った一緒に風呂に入っただと?」
「一緒に泊まったこともあるよねーお兄ちゃん?」
「破廉恥だぞ」
「仲のいい男女が裸を見せ合うのは普通だよねーお兄ちゃん」
「そうなのかお兄ちゃん」
「ふぉんあふぉほはいほ……」
口の中に焼き菓子を突っ込まれ、上半身を脱がされた状態で輪廻が答えた。
なぜかヴァージニアも毎日やって来た。
ちなみに二人がやって来るようになってからメリーナはまったく来なくなった。
素晴らしい危機回避能力である。称賛に値する。
「あなたにお兄ちゃんとか呼んで欲しくないんですけどー?」
「……お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん」
「喧嘩売ってますか喧嘩売ってますよね?」
「お前こそただの幼なじみが何だその特権意識は」
「お兄ちゃんと同じ隊ってだけで女房面して欲しくないんですけど?」
「だだだ誰が女房面などっ」
「そもそもあなたお兄ちゃんの何なんですか?」
「私はラディの戦友だ」
「戦友ってことはただのお友達ってことですよねだったら妹のあたしの方がずっとお兄ちゃんと仲が良いってことで」
「お前は妹じゃないだろう」
「精神的には妹も同じです」
「話にならん」
輪廻を無視して今日も言い争う二人。
渦中にいるようで微妙に仲間はずれにされるのもいつものパターンだった。
「おおっ! 何だいこれは。修羅場じゃないか」
そこへやってきたゴアーシュが、言い争う二人を見てすわ色恋沙汰かと目を輝かせた。
輪廻は頭を抱えた。
ゴアーシュは、女の子が好きそうな紳士的な笑顔を作ってクリスティナに自己紹介した。
「やあどうもこんにちはお嬢さん。僕の名前はゴアーシュ・シュトラウス」
「……どうも。クリスティナ・ゾラです。お兄ちゃんの幼なじみ」
胡散臭そうに見ながらクリスティナも名乗る。
ゴアーシュは構わずに、クリスティナの方に体を近づける。
「君、とても綺麗な髪をしているね」
「……それはどうも」
「ラディの幼なじみだと言ったね。幼なじみの看病もいいけど、少しは君も休まないと。そうだ、僕がこの町を案内してあげようか。王都に比べたら辺境の町だけど、見るべきものは意外にたくさんあるんだよ」
「いえ、結構です」
「シュトラウス家って知っているかい? 自分で言うのもなんだけどね、僕の家は王都の一等地にあってね、都会の華やかさが懐かしいよ。そうだ、もしよかったら今度僕の家の晩餐会においでよ」
「……お兄ちゃん、この人何?」
「まあ、その人は、なんていうか、そういう病気なんだ……」
「そう、君を一目見た時から、僕は恋の病だよ」
「何だこいつ……」
クリスティナではなくヴァージニアが漏らした言葉である。
ゴアーシュは、呆気に取られているクリスティナの髪を指で優しく撫でた。
幼なじみを軟派な友人から守るために、輪廻はクリスティナの腕を引いた。
「お兄ちゃん……」
嬉しそうに顔を赤らめたクリスティナを見て、ゴアーシュは見込みなしと早々に口説くのを諦めてしまった。
◇
臨時の兵舎のサロンで、ゴアーシュは午後からのんびりと本を読んでいた。
王国軍と帝国軍は睨み合いを続けており、二番隊は責任者の不在もあって今は任務などない。
ゴアーシュは軍を辞めた後のために異国の言葉を学んでいる最中である。
他の隊からの穀潰しとの悪評もゴアーシュにはどこ吹く風であった。
どかどかと足音を響かせながら、最近はずっと不機嫌なヴァージニアが兵舎に戻ってきた。
「おいゴアーシュ! あれを何とかしろ!」
「……『あれ』って何だい?」
「あの妹だ!」
大きなあくびをしてゴアーシュは本を畳んだ。
「そう言われてもね、どうしようもないよ。何たって、幼なじみだからね」
「お前がもっとあの子を口説いて落とせば――」
「無理無理。もうひとつおまけに無理。あの目は完全に恋してる目だよ。ラディのことしか見えてないだろうね」
「し、しかし、兄妹だぞ!?」
「幼なじみだって話だったけど」
ヴァージニアは「そうか…妹で幼なじみか…」とぶつぶつとつぶやいていた。
(これは本格的に駄目になっている感じだね…哀れな…)
「もし本当にあの子をどうにかしたいなら、君がラディを口説けばいいじゃないか」
「なっ…! そんな馬鹿なことができるか!」
「そんなことはないと思うがね。ヴァージニアが強引に申しこめば、あっさり落ちると思うけどな」
「…そ、そうか?」
「ラディは押しに弱そうだ」
何気なく答えると、ヴァージニアの嬉しそうな表情がむっとした顔に変わった。
「……ラディもラディだ。あんな可愛い子を侍らせて…」
「別に彼は悪くないのでは? というかだね、ラディはあの子のことを何とも思っていなさそうだ」
「…そうだろうか」
(まあ僕たちのことも何とも思っていなさそうなところが実に罪深いわけだが)
しかしそれは言わぬが花。
代わりに別のことを言った。
「ラディはどうするんだろうね」
「どう、とは?」
「聞くところによると、あの子は故郷にラディを連れ戻しに来たそうじゃないか。もしかしたらこのまま軍を辞めるのかもしれないね」
「まさか」
「そうは言い切れないだろう。ラディの幸せを考えればこのまま軍を辞めて故郷に帰るのが一番じゃないかな? お金の面倒もみてくれるっていうし。僕だって、辞められるのなら喜んで辞めるよ」
「お前が辞めるときは盛大な送別会を開いてやるぞ」
「嘘でも引き止めて欲しかったよ……」
やれやれ、こちらも脈なしか。
と、ゴアーシュは肩をすくめた。
◇
正直言うと、幼少期のラディ・ダールトンの家族や友人に関する記憶は非常に曖昧としていた。
まるで他人の人生を生きているかのような現実感のなさが、身の回りの出来事に対する感動を奪っていたのだ。
事実、輪廻にとってのラディ・ダールトンは他人事であり夢物語であった。
他人の身の上話が退屈であるように。
緒神輪廻はラディ・ダールトンの人間関係に興味がない。
この感覚が薄れ始めたのは戦場に来てからだった。
「……クリスはいつまでいるの?」
「お兄ちゃんが帰るまで!」
たまりかねて聞いてみたら、すぐにそんな答えが帰ってきた。
軍を辞めるつもりはない、故郷に帰るつもりもない――。
自分を無邪気に慕っているクリスティナにそう告げるのは罪悪感を覚えた。
しかしクリスティナは、以前と変わりなく輪廻のそばにいて、今日もずっとつきっきりで話し相手になっていた。
「クリスだって、帰らないとご両親が心配するんじゃない?」
「…やめてよ、そんな他人行儀な言い方」
「……ごめん」
「別にいいけど」
ふん、とそっぽを向いて答える。
いつも明るく騒がしく振舞っていたクリスティナが、少しだけ影のある表情を見せる。
「…お兄ちゃんがあたしのことを覚えてないこと、ちゃんと気づいてるもん。お兄ちゃん、あたしが誰だったか、まだちゃんと思い出せてないでしょ」
「そんなことはないよ。クリスと遊んだことも、クリスの両親のことも――」
「嘘。お兄ちゃんが覚えてるのとあたしが覚えてるのは全然違うもん。…お兄ちゃん、本当のあたしを何も覚えてないもん」
「……ごめん」
「いい。それでもお兄ちゃんはあたしのお兄ちゃんだから」
「ごめんね」
輪廻はクリスティナの横顔に何度も謝った。
もし自分が――緒神輪廻の生まれ変わりではなくて、ただのラディ・ダールトンであったなら。
(わたしは…きっと、この子の兄貴にはなれないんだろうね)
「あたし、負けないもん」
そう答えたとき、クリスティナはいつものクリスティナに戻っていた。