17.遅すぎた手紙
黒の森で偶発的に始まった王国軍と帝国軍の全面衝突であるが、結果として、この戦闘は異論の余地なく帝国軍の勝利で終わった。
当初は両勢力とも互角――というよりは消耗戦の様相を呈していたのだが、この機に乗じてアンアディール要塞の駐屯軍が出撃し、王国軍の後背に回りこもうとしたことで戦況は一変した。
王国軍の司令官マイルズは即座に部隊の一部を要塞方面軍に当てたが、このため王国軍は二正面作戦を強いられ、形勢は徐々に不利になり、夕方には全軍に後退を命じた。
そしてこの後退の際に事件は起きた。
二番隊隊長付補佐官リンドが帝国側に寝返ったのである。
王国軍が置かれている状況をヴァージニアから聞きながら、輪廻はリンドがどんな人物だったのかを思い出そうと務めていた。
「あの人が…。最初からそのつもりで軍に入ったということなのかな?」
「それは分からない。しかし隊長はリンドに斬られて重体だ。リンネよりもずっと深い傷を負って、今も意識が戻らない」
事務的に答えたが、ヴァージニアの声には悲しみが溢れていた。
アブリルが二番隊の頭脳ならばリンドは神経である。
突如神経が反乱し、頭脳を巻き添えにしたのである。二番隊は瓦解し、王国軍の他の部隊を巻き込んで全軍が崩壊した。
ヴァージニアたちはアブリルから輪廻の搬送を命じられ戦場を離脱していたため、この撤退戦には参加していなかった。
「それで、二番隊の残りは?」
「今は待機中だ」
「待機?」
「黒の森が敵に制圧されて、今最前線はリルムウッドの町になっている。敵に攻勢をかけているのはリルムウッドの駐屯軍と、それから黒の森の部隊の生き残り……。二番隊はまともな戦力としては機能していない。部隊を再編する暇もないから、状況が落ち着くまでは、しばらくここで待機ということになるだろう」
輪廻が収容されている病院はリルムウッドのはずれに位置している。
帝国軍が再び王国軍の戦線を突破しない限りここまで敵がやって来ることはない。
もちろん帝国軍が勝利の余勢を駆って一気に進軍してくる可能性もあるが、リルムウッドでは黒の森と違って大部隊の展開も籠城も騎兵の運用も可能だ。
増援を呼ばない限り、黒の森の帝国軍部隊がそれほどまでの脅威になるとは考えにくい。
「それで、戦況は?」
「芳しいとは言えないな。黒の森を奪還するために何度も攻勢をかけているが、勝利はあっても決定的な戦果を上げられないでいる……。どうやら向こうの司令官は優秀な策士らしい」
(アブリル隊長が聞いたら「うちの司令官と交換したいぜ」なんて言うだろうな…)
輪廻が帝国軍の司令官に思いを馳せていると、ヴァージニアがしばらく黙っていることに気づいた。
「ジニー、どうした?」
ヴァージニアは無言のまま、輪廻の腰に優しくしがみついた。
思わず彼女を引き剥がそうとしたが、肩の痛みでそれはかなわない。
「ぅ…ちょっと……!」
「……お前、ひとつ言っておくことがある」
低い、威嚇するような声だった。
しかし相変わらず輪廻の胸に顔を押し付けたままである。
「お前がずっと目を覚まさなくて、私はずっと心配していたんだぞ…!」
「ご、ごめん」
「謝って済むか、馬鹿」
「でも、ちゃんと生きて戻ってきたんだし、結果的に――」
「ああ!?」
「いえ、何でもないです」
輪廻は黙ることにした。
前世では、黙らせることのほうが多かった気がするが。
男としての生き方を少しずつ学んでいるのだった。
「……勝手にいなくなったら承知しないぞ」
「うん。努力するよ」
約束する、と嘘でも答えなかったあたりは、まだまだ修行不足であったが。
ヴァージニアの栗色の髪をゆっくりと撫でる。
ヴァージニアはしばらくの間なされるがままだった。
「分かった。私はお前を許そう」
一方的にそう言ってヴァージニアは輪廻から離れた。
いつもの彼女の顔に戻っている。視線が会うと、彼女のほうが恥ずかしそうに視線を逸した。
「そ、そうだ。お前、腕を動かせなくて不便だろう?」
「まあね。あと二週間はこのままだって言われたよ。剣を持てるようになるのは、もっと先かな。今は着替えすらまともにできない」
「だったら私がお前の体を拭いてやろうか」
「あ、じゃあ頼もうかな」
「うええ!?」
何気なく輪廻が答えると、ヴァージニアは狼狽して椅子ごと後ろに下がった。
「……何でジニーが驚くの?」
「何で、って……」
「あ、いや、別に無理にやってくれとは言わないけど」
「……分かった」
ヴァージニアは意を決したように頷くと、輪廻の服を脱がしにかかった。
(う……ものすごく気軽に返事しちゃったけど、これ、もしかしてものすごく恥ずかしいんじゃ)
上半身の服をおそるおそる脱がすと、ヴァージニアは緊張した手つきで濡れたタオルを輪廻の体に当てた。
冷たい感触がゆっくりと輪廻の肌の上を動いた。
季節はもうすぐ冬である。上半身裸は少々寒い。
ヴァージニアの緊張が伝染したのか、輪廻も、だんだんと息苦しくなってきた。
心なしかヴァージニアの顔が赤い。息も荒い。
胸から背中、腕を拭き終わったところで、ヴァージニアが言った。
「そ、それじゃあ、次は下を――」
輪廻はありがたく辞退した。
◇
サントラン王国の王城にあるシャルロット女王の執務室に、軍務大臣と国務大臣が呼ばれていた。
軍務大臣が戦況を報告するのをシャルロットは深刻な面持ちで聞いている。
幼い女王には大きすぎる執務机の横に、年老いた執政官の姿があった。
部屋の入り口の隅には秘書官の机があり、若い女性の秘書官が軍務大臣の報告を書面に記録している。
軍務大臣の報告が終わると、シャルロットは慎重に言葉を選んで発言した。
「それで……結論として、わたしたちは負けているんでしょうか」
「そう、なりますね」
いかつい顔の軍務大臣はそう答えながら、しかし執政官の顔色を伺っている。
「帝国軍の侵攻に対する対処はどうしますか?」
「現在、リルムウッドを要塞化して徹底抗戦の構えです。黒の森では遅れを取りましたが、すぐに巻き返して見せます」
「それは現実的ではありませんね」
軍務大臣の言葉に執政官が冷たく反論した。
そっけない言い方であったが、クレイ・ミラーエ執政官の言葉にはいつも人を萎縮させる何かがこもっている。
「拠点を要塞化して徹底抗戦しているのは帝国軍も同様です。それにあちらには依然としてアンアディール要塞がある。つまり補給はこちらよりも手厚い。一度奪われてしまった領土を取り戻すのはそう簡単なことではありません。軽はずみな約束はしないように」
「…………それは失礼を」
軍務大臣の肩が屈辱で震えるのをミラーエ執政官は無視している。
ミラーエはシャルロットの方を向いた。
「しかし軍務大臣の言うとおり、今日明日中に帝国軍が侵攻してくる、ということはないでしょう。リルムウッド以西では帝国軍といえど自由に行動することはできません。それに、こちらには列車砲がある」
王国の領土中央から南に広がる平野を鉄道が走っている。これは、王国が抱えている「雷の魔女」の力を動力源としていた。
雷の魔女は世界にだた一人であり、その唯一の魔女が王国にいる。
鉄道は帝国に対する大きなアドバンテージであった。
列車砲はその鉄道を使って移動させる巨大な大砲である。
移動にも点火にも魔女の力を用いるため、通常の大砲には出せない、超火力、長射程を実現している。
しかし鉄道は平野の中でしか運用できないため、帝国の領土に直接大砲を撃ちこむということはできない。
列車砲の最大射程はリルムウッドの西側にぎりぎり届くあたりである。
つまり帝国軍がこれ以上の侵攻を続ければ、それは列車砲の射程に入ることを意味する。
「……しかしあまり列車砲を過信なさるのは危険かと。やはり敵の侵略から国土を守るのは兵士の力です」
軍務大臣は小さな声で警告した。
列車砲とは言えしょせんはただの大砲である。小細工を弄されればいくらでも無効化される危険がある。
「国務大臣から言わせていただけるのなら、これ以上の進軍は無益です。王国軍の軍事行動のために王国の国民には非常に大きな負担を強いられています」
「あのー、和平の道はないのでしょうか」
シャルロットが発言すると、三人が一斉に女王を向いた。
執政官が代表して答える。
「難しいでしょうな。フェルミナ鉱山を求めて宣戦布告してきたのは帝国の方です。和平などしては、帝国の威信に関わる。向こうは絶対に飲んではくれないでしょう」
「しかしわたしたちには共存の道が残されているはずです。このまま戦争を続ければ、いずれわたしたちも彼らも、両方が衰退してしまいます」
それに答えたのは軍務大臣だった。
「無論、それは承知しておりますが。そもそも交渉のテーブルにつくためには、こちらにその資格が、つまり力があることを示さねばなりません。その点はどうかご理解ください」
シャルロットは納得できないでいたが、これ以上議論を続けたところで三人の大人を論破できるとは思わなかった。
シャルロットが黙ったのを見て、ミラーエが軍務大臣に指示する。
「とにかく、森を奪われた以上、しばらくこちらは後手に回らざるを得ません」
「……森は必ず奪回する」
「ではその準備を。名誉挽回のチャンスです」
軍務大臣は何か反論しかけたが、言葉をぐっと飲み込んでミラーエの言葉に大人しく従った。
ミラーエはシャルロットの方に向き直る。
「陛下、他に何かございますか?」
「……リルムウッドに行って、戦いで活躍した兵士たちに勲章をあげたいと思うのですが」
「またその話ですか。それは危険だと、何度も申し上げたではありませんか」
「しかし、王国のために命をかけている兵士を労うのは王の務めではありませんか? それにわたしが行けば、兵士たちの士気も上がると思います!」
「しかし、陛下にもしものことがあれば……」
ミラーエに代わって国務大臣が発言した。
シャルロットは優雅に見えるよう、精一杯虚勢を張ってそれを断った。
「わたしの安全は兵士たちが守ってくれますよ。ですよね?」
「も、もちろんですとも! 王国軍は、命に代えても陛下をお守りいたします!」
軍務大臣が張り切って答える。
シャルロットが満足そうに頷くと、執政官と国務大臣がぎろりと軍務大臣を睨みつけた。
「それでは、視察に関する細かな日程の調整は国務大臣にお任せします。それから、わたしの旅の安全は軍務大臣が」
「かしこまりました」
女王が正式に命じた以上、家臣たちにとってそれは絶対であった。
軍務大臣、国務大臣、執政官が執務室を出たのを確認してから、シャルロットはため息をついた。
ため息をつくだけに留まらず、シャルロットはそのままソファにうつぶせに倒れる。
顔を上げると、ソファのすぐそばに秘書官が立っていた。
「うまくやりましたね」
「……がんばりました」
シャルロットは体を起こした。
秘書官のテーゼルは、王城でシャルロットが心を許して話せる数少ない人だった。
「けど、どうしてそんなに戦場を見たいんですか?」
「わたし、戦争を終わらせたいんです。で、戦場を見たら、もっとがんばろうって気になるかなーって」
「なるほど。立派な心がけです」
「それに、あそこにはわたしの大切な友達がいるんです。だからわたしは、ちゃんと見ないといけないって思うんです」
「……お茶をいれましょうか?」
「あ、お菓子もお願いしますー」
「はいはい」
テーゼルは笑いながら一礼して、執務室を後にした。
◇
輪廻は故郷への手紙を書いていた。
故郷と言っても江戸ではない。
この世界の、ラディ・ダールトンの故郷である。
輪廻が軍に入って一年以上経っているが、これまで一度も故郷に報せを送ったことはなかった。
ダールトンの家族に嫌な思い出があるわけではなかったが、しかし故郷と呼ぶには未だに違和感があった。
今、怪我をして動くこともままならず、やることもないので、しばらく棚上げしていたこの問題に取り組むことにしたのである。
だが、輪廻は手紙の書き出しから迷っていた。
こういうとき、戦場にいる息子は家族にどのようなことを伝えるべきなのだろう。
そういえばゴアーシュは頻繁に故郷に手紙を送っていたが、あのとき文面を見せてもらえばよかったかもしれない。
しばらく腕を組んでうんうん唸っていたが、とうとう観念して、当り障りのない、事実だけを簡潔に述べた質素な手紙を書くことに決めた。
自分が安全であること、しばらく王都に戻るつもりはないこと、これからも給料はすべて故郷に送ることをシンプルに書いて、輪廻はペンを置いた。
そのとき、医者の一人がベッドの間を走ってこちらにやって来た。
メリーナという名前の女医である。
よれよれの白衣を着た、高級そうな眼鏡以外は飾り気のない女だった。
彼女が走るたびにはだけた白衣の間から豊満な胸が前後左右に激しく揺れているのが見えた。
「……メリーナ、どうしたの?」
「あ、あの、えっと、ダールトンさん」
メリーナが気弱そうに視線を彷徨わせる。
慌てていたせいで、薄茶色の巻き毛が両肩にまとまりなく広がっていた。
「ついさっき、隊長さんが目を覚ましました」
「意識が戻ったの!?」
「はい。今はもうお話もできますよ」
「今からすぐに行く」
「あ、ちょっと!」
ベッドから降りようとしたところ、体に力が入らずに転げ落ちそうになった。
それをメリーナが慌てて捕まえる。
「あ、あの、わ、わたし、さ、支えてますから、えと、はい、こうして、あの」
「ありがとう。ほら、急いで」
「ははははいっ」
輪廻がメリーナの肩に腕を回すと、彼女は真っ赤にして何度も何度も頷いた。
◇
ベッドの上に、包帯だらけのアブリル・ヒルマンが横たわっていた。
輪廻がそばに寄ると、気配を感じたのか、アブリルがゆっくりと目を開いた。
「誰だ」
「隊長。ご無事で何よりです」
「……どこが…無事だ。これ見て無事だ、なんて…よく言えるな…え?」
ゆっくりと、弱々しい声で、アブリルが答える。
「けど……お前、生きてたんだな。よかった……」
「みんなが待っていましたから。隊長も」
そうか、とアブリルは頷いた。
一言一言を発するだけでも大儀であった。
「リンドが…裏切った」
「聞きました」
「あの野郎……いきなりオレの…腹……刺しやがって……代わりに…野郎の肩……蹴って…粉々に…してやったが……」
アブリルは咳をするみたいに笑った。
まったく情けない、と言葉を続ける。
「ところで……戦況はどうなってる……?」
「……今は、戦争のことは忘れて、ゆっくり休んでください」
「なあ…ラディ……ひとつ頼みてえんだが……」
「何なりと」
「手……握ってくれ」
輪廻は、毛布の下にあった、アブリルの手を握った。
真っ白な小さな手は普段の彼女からは想像もできないほど冷たかった。
輪廻が優しく握ると、アブリルも弱々しく握り返してくる。
しばらく手を握ったまま、輪廻たちは無言で過ごしていた。
ときどき、アブリルのすすり泣く声が響いていた。
「……もういいや。ありがとよ」
やがて投げやりにそう答えてから、アブリルは目を閉じて静かな寝息を立てた。
「……メリーナ。戻ろう」
「はい」
輪廻はメリーナに声をかけた。
輪廻がアブリルと話している間、ずっと隣で待っていてくれたのだ。
輪廻が腕を伸ばすと、黙って肩を貸してくれる。
ベッドに戻るとき、輪廻は改めてメリーナに礼を言った。
治療や、肩を貸してくれたことだけではなくて、彼女がくれた様々な心遣いに対して。
「ありがとう。メリーナ」
「どぅえ!? い、いえいえいえ、わ、わたしなんかが、そんな、め、滅相もございません、というか、えーと、医者ですし、こうするのは仕事だからなんともないかなーなんて言ったりして」
「きゃっ!」
「うおっ!」
輪廻とメリーナはバランスを崩して二人で廊下に倒れた。
女のような悲鳴を上げた輪廻と、予想外に低い声を漏らしたメリーナ。
輪廻をかばおうとしてメリーナが下になり、結果として、メリーナの胸に輪廻が顔をうずめる形になった。
おかげで衝撃は免れた。
しかし輪廻は改めてメリーナの胸が羨ましかった。
「メリーナ、大丈夫?」
「いたたたた…。す、すみません。失敗しちゃいました。今起き上がりますか――」
メリーナの顔が半笑いのままで固まった。
ただならぬ気配を感じて輪廻が首だけで振り返ると、そこには花瓶を持ったヴァージニアの姿があった。
メリーナを押し倒した状態の輪廻である。
ヴァージニアの手には凶器となりうる花瓶。
輪廻は慌てて起き上がろうとして、メリーナの胸に手をついてしまった。
その拍子に「やんっ」と艶っぽい声を上げるメリーナ。
起き上がろうとして、予想外に力が入らず、再びメリーナの胸の上に倒れる輪廻。
泥沼だった。
ヴァージニアはしばらく無言と無表情のまま二人の様子を見て、やがて深く険しいため息をつくと。
「……うっ」
涙目になって、花瓶を持ったまま病院の外に走って行った。
今週の後書きは作者取材のため休載させていただきます。