16.生きることすべてを代償に
再び会議室に呼び出されたイールズは、テーブルの奥で腕を組んで座るカリナの表情を見て、恐らく事態は最悪の方向に進展しているのだろうと推察した。
(それにしても、この女も馴染んだもんだな)
最初は掃除もできないこんな小娘に戦争なぞ務まるのだろうかと侮っていたイールズである。
今はもう、会議机の中央にいるカリナがずいぶん様になって見える。
もっとも、片付けができないのは相変わらずで、彼女の個室は第3師団着任直後にはすでに混沌となっていた。
この会議室も、カリナが長く居座っている分、最初の頃よりはずいぶん雑然としてきている。
カリナの驚くべき侵食能力である。
「イールズ、あなたにスパイの疑いがかけられています」
「そうかい」
「……それだけですか?」
「アンタに文句を言ったって始まらねえだろうよ」
イールズは小さく笑った。
カリナの苦しそうな表情を見れば、このことでもっとも心を痛めているのが誰だか簡単に分かる。
「……あなた、この間の晩も、ここを抜け出してどこかに行きましたね?」
「ああ? 今度は誰のタレコミだ?」
「それは…」
「第3師団の人間じゃねェんだろ? だと思ったぜ。俺はここの人間には一切見つかってねえ」
「報告は軍の統合作戦本部のオブザーバーからでした」
イールズは内心驚いていた。
あの晩のイールズの行動を知っている人間がいるとすればそれは魔導同盟の人間に限られるが、まさか彼らにそのようなコネクションがあるとは思わなかった。
(こいつは…。あいつら意外と、この国の根深いところに巣食っていやがるのか)
十三賢者だのツァルトリスだの、彼らは思った以上に底が知れない。
しかしそのことを、何も事情を知らないカリナに話すことは躊躇われた。
今のところ魔導同盟にはイールズを狙う理由はあってもカリナを狙う理由はない。
カリナに余計なことを吹きこんで、妙なことをさせては、それが薮蛇になることもありえる。
「……何が可笑しいんです?」
「いや。蛇槍が薮蛇を恐れるなんざ、こりゃ面白い言葉遊びだと思ってな」
「まったく。笑いごとじゃありませんよ」
「そりゃすまん。で、俺はどうなるんだ? 軍法会議にかけられるのか?」
「まだそこまで事態が進展しているわけではありません。今はまだ外部から非公式な進言をもらっただけで、あくまでそういう疑いがあるという段階ですから」
「そいつは救いのある話だな」
しかし『今はまだ』、である。
今後、イールズの嫌疑は、魔導同盟か、あるいは反エーデル派の者たちによってますます濃厚なものとして扱われるだろう。
「ですから今後は一切、軍法会議で不利な証拠として取り上げられるような行動は謹んでください。基地の無断外出もそうですが、王国軍のご友人に会いに行くのも我慢してください」
「悪いな。迷惑をかける」
「謝らなきゃいけないのは私の方です。…私の部下になったばかりにこんな嫌疑までかけられて……すみません。私にもっと力があれば」
「何言ってやがる。俺がヤバくなったのは俺の自業自得だ。けど――前も言ったが、そのせいでアンタの立場がマズくなるってんなら、そりゃ俺の信念に反する」
「…この先、王国軍のご友人と剣を交える展開になるかもしれません。そのときは――」
「そのときは刺すぜ。この槍でな」
イールズは槍を持ち上げた。
カリナがわずかに驚いた表情を見せる。
「それは駄目です。私の無力のために、あなたが友人を手にかけることがあっては」
「おいおい、まだ俺が勝つと決まったわけじゃないぞ。そういう罪悪感は俺が奴を殺した後にしてくれ」
「……そうですね」
「ああ。安心しな。必ず戦果を届けてやる」
イールズは胸を張って、カリナに虚勢を張った。
◇
王国軍と帝国軍の次の戦闘は双方にとって不本意な形でもたらされた。
最初は小隊単位の衝突だったのが、その報告を受けた両陣営の下士官が独自の判断で次々に増援を戦場に送り、次第に戦場の規模が拡大し、これが最終的には黒の森を狙う両軍の全面衝突へと発展したのである。
一番隊、四番隊が次々に戦線に投入され、後方で待機中だった二番隊にも即座に出撃命令が下された。
アブリル隊長が直々に、輪廻やヴァージニアたち班員全員を呼んで集めた。
朝食の最中だった輪廻たちは食べかけのシチューをその場に残し、剣と鎧を身につけて戦場へ急ぐ。
「おい、ダールトン」
足を動かしながら、アブリルが輪廻に話しかける。
「その剣はどうした」
「えーと。問題ありますか?」
「別に問題はねーよ。武器を自前で用意してるやつは珍しくもねえ」
「これは僕の新しい剣です」
「そうか。………あの……ダールトン」
「隊長、どうしました?」
「いや何でもねえ。信頼してるぜラディ」
「え? あ……」
何か答えようとしたが、アブリルはそっぽを向いて、直後にチームの一番前に駆け出した。
それっきり輪廻の方に顔を向けなかったので、アブリルがどんな表情であんなことを言ったのか見逃してしまった。
「幸せ者め」
と、ヴィセンテが小さな声で、しかし輪廻の耳にはっきりと聞こえる形でささやいた。
「一体何だよ」
「いんや別に。なあゴアーシュ」
「そうだね。愛され上手~」
「……ふたりとも、うるさい」
ヴァージニアの不機嫌な声を聞いて、ヴィセンテは笑い声を噛み殺していた。
輪廻はわけがわからず、愛想笑いもできなかった。
「まああれだ。お前は安心して戦えばいい。背中は守るぜ」
「いや逆だね。君が僕の背中を守るのさ」
「お前どこまでも自分中心だな」
「野蛮人とは違って、僕は王道を行くための教育を受けているんでね。誰かの背中を守るなんてのは従者の仕事だ」
「もやし貴族」
「……君をこの場で不敬罪で切り捨てたいところだ」
先頭を走っているアブリルが二人の会話を聞いて冗談交じりに口を開く。
「んなことしてみろ。軍事法廷じゃ普段のお前の態度をありのまま仔細違わずオレが報告してやるぜ」
それを聞いて、ゴアーシュは言葉を詰まらせて唸る。
ヴィセンテは今度こそ爆笑した。
「あのー、ゴアーシュ? ヴィセンテ?」
「ラディ」
今日は妙に静かだったヴァージニアが口を開く。
「上手く言えないが……。わたしはここにいる。だからお前も、そこにいろ」
「ありがとう」
あらゆる障壁を、過去を超えて、その感情は、至極当然のように溢れた。
◇
二番隊の先頭はアブリル隊である。
まずは輪廻が踊るように敵の戦列に飛び込むと、超接近の乱戦で一瞬の内に敵を混乱に陥れた。
単身乗り込んだ輪廻を圧殺するように敵の兵士が殺到するが、それをさせまいとヴァージニアたちが必死に輪廻に追いすがる。
未熟な雛鳥を守るのはアブリルの役目であった。
両翼から迫る敵の剣を、獣のように駆け回りながら必死に牽制し続けていた。
敵がヴァージニアたち後続に一切手を触れられぬ間に、輪廻が敵の小隊の陣形を瓦解させ、黒の森に血の海を流していた。
「すげえ――」
自身も戦神の如き活躍を見せながら、しかしアブリルは輪廻の働きに一瞬目を奪われた。
速度が違う。
正確さが違う。
まるで最初からそう決められていたかのように。
運命を味方につけているかのように。
生と死の間を、輪廻は紙一重で生き延びていた。
――その光景を、はるか彼方から、毒蛇も見ていた。
そして決意する。奴をこの場で殺さなければならない。
主君のために。
輪廻は熱病に冒されたように夢中で刀を振るっていた。
丸一日かけての修練の結果、すでにその刀を自分の手足のように扱える。
斧原一心は最適の武器を輪廻に届けてくれたのである。
きっと、斧原一心にとっても、この刀は最適の武器だったに違いない。
輪廻が十数人を短時間の内に切り捨てたのを見て、帝国軍が徐々に後退を始める。
アブリルはその瞬間を見逃さずに大声で指示を飛ばし、輪廻と入れ替わるようにして全軍が突撃すると、王国軍帝国軍が入り乱れる激しい乱戦にもつれ込んだ。
輪廻は刀に付着した血を布で拭き落とすと、再び人を切ろうと足を敵に向けた。
その瞬間――輪廻は戦場のすべての光景が目に入らなくなった。
音も聞こえない。
対手の姿だけを認識していた。きっと、相手も同じだろう。
「団長――」
彼我の距離は三十間ほど。イールズと輪廻との間には兵士たちの無数の怒声、剣の打ち合う音、断末魔のうめき声。
輪廻の小さなつぶやきは誰にも届かなかった。
しかしイールズの口がわずかに動いたのを見て、彼もまた輪廻の名を呼んだのだと確信した。
そのわずかな間に、輪廻はイールズがまとわせた尋常ではない殺気を読み取った。
かつての同胞に対する容赦などもはや微塵もない。
イールズの壮絶な気迫に、輪廻の全身から冷や汗が吹き出した。
いったいどのような事情があってあれほどの覚悟を決めたのか。
それを知るすべはないし、知ろうとも思わない。
ただ分かっていることは、今日この場で、輪廻は彼を殺さなければならないということである。
イールズが駆け出す。
輪廻もそれに並行する。
「ラディ!」
自分を呼び止める声を無視した。
すべての神経を相手に向けている。
互いの陣営の内を、互いを強く意識しながら、二人は疾風のように木々の間を走る。
やがて二人は戦線から離れ、木のない拓けた場所に出る。
もはや邪魔も入らない。
イールズは一呼吸の後、二度、三度大きく歩幅をとると、四度目に力強く踏み込んで跳躍した。一つ跳びで輪廻に肉薄する。
距離にして三十五歩。それを一瞬で詰めた恐るべき蛇の脚力。
しかし真に恐るるべきは、そのような跳躍を行いながらも、輪廻の眉間を正確に狙う槍の精度である。
輪廻は後退はせず、蛇の槍を刀で受けた。
高速で互いにぶつかった刀身と穂先に火花が散る。
中空から全身の質量を乗せる槍の一撃は脅威である。
しかし輪廻はその圧力に臆することなく、イールズの槍を一歩も下がることなく弾き返した。
ここで受けきれなければ自分の命ごと貫かれる――そんな覚悟の上の不退である。
「化け物……」
そう漏らしたイールズの表情は引き攣っていた。
◇
刀と槍のぶつかる音が森に響く。
イールズの超高速の突きを輪廻はかろうじて防いでいた。
槍の穂先はもはや肉眼で捉えられる速度にはなく、その突きを防ぐのはまさに奇跡が必要であった。
――しかし。その奇跡も9回を超えた。
輪廻がイールズの槍を防ぎ続けているのは、輪廻自身の幸運はもちろん、イールズならば間違いなく致命傷を狙うだろうという確信があったからである。
それ故に槍の狙いは人体の急所に限定される。その予測に輪廻はすべてを賭けた。
無論、それは攻撃する側のイールズも承知していたことであった。
しかし承知しつつも輪廻の急所を狙い続けなければならない。
もし牽制など放てば、自分が二の槍を放つ前に、輪廻は一瞬で槍の距離を詰め、自分の首を落とすだろう――イールズはそう確信していた。
故にイールズは攻め、輪廻は守る。
奇跡を重ねて生きている輪廻は、しかしいつその幸運が終わるとも限らない身だ。
次の槍か、その次の槍か、そのまた次の槍か――いずれで絶命しても不思議はない。
そもそも輪廻とイールズでは地力に差があるのだ。
しかし、こうしてイールズの槍を捌き続けることが、輪廻にとっての唯一の勝機であった。
か細い可能性を信じて、自分の命をチップに当てのない綱渡りを続けるのだ。
かつての緒神輪廻が殺せなかった人間は、江戸に三人しか存在しなかった。
そのうちの一人と、今こうして、異世界の森で斬り合っている。
イールズの槍が奔った。
輪廻の胴を両断せんと迫った稲妻の如き一撃を太刀で必死に受け流す。
受け流した次の瞬間には輪廻の心臓を狙った直線の一撃が迫っていた。
迫っていた、と認識したときには、すでにその突きを弾いている。
次の一撃は喉を狙うと勘が告げていた。その真偽を問う暇などない。
喉を守った太刀が反動で弾かれる。その衝撃で、輪廻は自分が生きていることを確認するのだ。
「――チッ」
イールズが舌を鳴らした。
次の瞬間に、彼は一跳びで大きく後退する。
輪廻が追撃などしようものならイールズは空中でも槍を振るっただろう。
自分がここまで生き延びている奇跡に、他ならぬ輪廻自身が驚愕している。
イールズとて、輪廻を御しやすい相手とは思っていなかった。
殺せぬはずがない相手である。
一の槍か、二の槍か、遅くとも三の槍で殺せているはずだった。
しかし実際は、輪廻はイールズの槍をすべて防ぎ、こうして生きている。
(どうすればいい。どうすればこいつを殺せる?)
綱渡りをしていたのはイールズも同じである。
必殺できなければ輪廻相手に次の一手はない。
ただ必死に、自分の身を守るためだけに、イールズは輪廻を殺し続けたのだ。
(そもそも――こいつは死ぬのか)
間合いをとったイールズに、輪廻は迷うことなく向かって歩いていた。
刀でイールズを討つには刀の間合いまで近づかねばならない。
だから近づく。たったそれだけの単純な理屈である。
勝つことを微塵も諦めない輪廻の在り方が、イールズは前世の頃から恐ろしかった。
しかし恐れると同時に、イールズは心の中で輪廻に喝采を送っていた。
この剣を手に入れるために一体どれほどのものを犠牲にしてきたのか。
生きることのすべてを注ぎ込んだ剣が軽いはずがなかったのだ。イールズの槍を退けたのは、緒神輪廻の人生そのものの重さだったのだ。
――だとしたら、覚悟が足りなかったのは俺の方か。
(こいつを……殺せる……魔法……)
槍を握るイールズの手に力がこもった。
イールズとて、人生のすべてを人を殺す技術に費やしたのだ。
剣のために犠牲にしてきたものの重さを、今ここで比べ合う。
◇
イールズの槍の構えが変わり、輪廻の足は影の槍の間合いぎりぎりで停止した。
槍の長さはすでに見切っている。
ましてやあの構えからは、輪廻を突くことはまず不可能である。
しかし――。
(あいつは……わたしを殺すつもりでいる)
その殺意はまったく揺ぎがない。
次に放たれる一撃は、確実に輪廻を殺すものになるだろう。
上段から槍の先を大地に向けた不恰好な構え。
上から振り下ろすにしては角度が深すぎるし、下から切り上げるにしては槍自体を持ち上げすぎている。ましてや突くなどもってのほかだ。
あれでは、せいぜい輪廻の足元、影を突き刺すことしかできまい。
じり、とイールズがほんのわずか、前に出た。
輪廻は下がる気など毛頭ない。
ましてや対手のこの構え。飛び込めば勝つのは輪廻である。
しかしだからこそ、輪廻は軽々に飛び込むことなどできなかった。
自分よりはるかに技量に優れた彼が、みすみす輪廻に殺されるはずがない。
何か理由がある――必殺できる理由が。
イールズが一歩、踏み込んだ。それに合わせて輪廻も腰を落とす。
もはや衝突は避けられない。
イールズが刺す直前。輪廻が斬り込む寸前。
その瞬間、輪廻は解に至る。
影を突くだけの構えに、必殺の意味があるのなら。
影を突くことが、必殺の手段であるなら――。
「っ!!」
その答えにすべてを賭けて、輪廻は横に飛び退いた。
直後、イールズが槍の真の名を告げる。
「■■■■■」
それに応えて、影の槍の能力が発動する。
そして、虚と実は入れ替わった。
影の槍は影となり、槍の真の姿が現れる。
「ぐっ………!」
輪廻の影を突いた槍は、しかし輪廻の心臓を貫くことはなく、輪廻の肩を中空に縫いつけただけである。
輪廻は肩に出現した白い槍に激痛と驚愕を覚えながらも、足に力を込めてイールズの方に前進した。
イールズは輪廻の姿を真正面から見ていた。
「ぁぁぁあああああああ!」
獣のような輪廻の叫び。
輪廻の肩にはさらに深く槍が刺さり、輪廻の背中と胸を血で真っ赤に染めていた。
スブリ、メキリと、嫌な音がする。
そしてそのまま刀の届く距離まで近づくと、輪廻はイールズを斜めに斬った。
斬られたイールズは、一言も漏らすことなくその場に崩れ落ちる。
死ぬ間際にあってなお、イールズは槍を手放そうとしなかった。
◇
イールズは自分の倒れる音を聞いた。
斬られた傷が致命傷であることは確認するまでもない。心臓が脈打つたびに体から出血し、体温が下がっていくのが分かった。
しばらくもしないうちに自分は死ぬだろう。
輪廻に、影の槍は通じなかった。
それは賞賛すべきことではあっても驚くべきことではない。
何故なら他ならぬイールズ自身が、輪廻と同じ考えからその結論に至り、以前の槍の持ち主を倒していたからだ。
(なるほど…さすが、俺の弟子だな)
誇らしさと嫉妬が入り交じっていた。
思考が鈍くなる。指先にはもはや感触が残っていない。死の感覚をイールズは初めて味わっていた。
人生を代償に手に入れた剣技だった。
もはや意味など残されていないのに、ただそれを守るためだけに、イールズは戦い続けた。
目的などない。強いて言えば、手段を続けることだけが目的だった。犠牲の供養のために生き続けていた。
しかしそれも、もはやこれまで。
不思議と後悔や恐怖は感じなかった。むしろ安堵すら感じる。
長い長い旅の終わり、それまで背負っていた荷物を初めて肩から降ろしたかのような開放感。
目はまだ生きている。耳も聞こえた。
輪廻の足音が聞こえて、輪廻の姿が見えた。
(なあ、おい輪廻よ。気づいてるか)
喋ろうとして、舌がゆっくりと動いたが、声の代わりに掠れた吐息が溢れただけだった。
これ以上続けそうになると咳が出そうなので諦めた。今咳き込んだらそれだけで命が吹き飛びかねない。
(お前、泣いてるぜ――)
自分を覗き込む輪廻の目を見た。
もはや輪廻はかつて自分が知っていた女ではないことを知る。
自分と輪廻が同類だなどと、思い違いも甚だしい。
イールズが同じ場所をぐるぐると回っている間に、輪廻は新しい場所へ飛び出していた。
剣のために剣を握っていた輪廻はもはやそこにはいなかった。
道理で勝てないはずだ。殺せないはずだ。
(まったく、最期の最期に、なんてものを見せてくれる)
目を閉じたつもりはなかったが、ゆっくりと何も見えなくなった。
泥のように鈍くなる意識の最後にイールズが思い出したことは、あの不器用な女用兵家のことだった。
勝利の約束は果たせなかったが、スパイ容疑などかけられて裁判にかけられるよりはマシな終わり方だっただろう。
彼女の重荷にならなかったことを、心から喜んだ。
(……ははっ。なんてことだ)
愉快だった。
長くて不毛な人生の最期に、心から誰かのことを思うことができた。
自分でも気づかないうちに、自分はあの女のために生きていたらしい。
(こういうのも悪くない――)
満足に包まれながら、イールズの意識は闇に落ちた。
◇
輪廻が目を覚ましたとき、なぜ自分がこんな場所にいるのかとっさに思い出せなかった。
古い木の建物である。首を動かすと、自分と同じようにベッドの上で寝かされている兵士たちの姿が見える。
ベッドの間を忙しく歩き回る医者たちの姿を見て、どうやらこの建物は病院として使われているらしいと分かった。
「ラディ、目が覚めたか?」
洗面器とタオルを持ってきたヴァージニアが言った。
ベッドの脇に椅子を持ってきて、輪廻の方を向いて座る。
「僕は……どうなった?」
「あの後、私たちはずっとお前を追いかけていたんだ。敵に阻まれたせいで遅くなったがな。私たちが見つけたときは、お前は敵の一人と相討って倒れていた。聞くと、あれが蛇槍イールズらしいな。すごい手柄だ」
「イールズは、どうなった?」
「死んだよ。ラディも危なかったんだ。出血がひどくて。覚えていないのか?」
「ああ……」
「そうか。こちらの問いかけにもちゃんと答えていたんだが。意識が朦朧としていたのか。それじゃあ槍のことも?」
「槍?」
「ああ。イールズが持っていた槍を持ち帰るように。それから……イールズの死体を埋葬するようにと」
ヴァージニアは屈んで、ベッドの下から白い布に包まれた長いものを取り出した。
影の槍が、そこにあった。
「ついさっきイールズの死体を埋葬してきたところだ。敵の死体を埋葬するのは色々と面倒だから、勝手にやったが。悪かったか?」
「いや。十分だよ。ありがとう」
痛みと出血に意識を失いかけながら、我ながらよくそんなことを言えたものだ。
輪廻は自分を褒めてやりたくなった。
これからはもう少し、ラディ・ダールトンの肉体を労ってやるべきかもしれない。
ヴァージニアはタオルで輪廻の腕や首のまわりを拭いた。
冷たい水が体を濡らしていく感触が心地よかった。
「ともかく……お前が無事で良かった」
「うん。ヴァージニアが待っていたからね。……きっと、みんなが待っていなかったら、僕は帰って来なかったと思う」
「そうか。お前の力になれたか」
ヴァージニアはゆっくりと深く頷いた。
その顔はどこか誇らしげに見える。
「なあ、ひとつ頼みがあるんだが」
ごほん、と咳払いをしてから、ヴァージニアはしばらくもじもじと体をよじらせていた。
やがて意を決して、少し顔を赤くしながら小さな声で言った。
「私のことはジニーと呼んでくれ。親愛を込めて」
「……ははっ」
思わず笑みがこぼれた。
ヴァージニアは怒ったように輪廻を睨みつける。
違う違う、と手を振りたかったが、傷のせいで腕が動かない。
「分かったよ、ジニー。じゃあ僕のことは輪廻と呼んでくれ」
「リンネ?」
「まあ、僕の古いニックネームみたいなものかな」
「うん。分かった……リンネ」
恥じらいながら輪廻のことを呼ぶヴァージニアは、たまらなく魅力的だった。
◇
次の日にはヴィセンテが来た。
見舞いのつもりなのか、手には果物をいくつか抱えていた。
「よう、景気はどうだ?」
「まだ傷が痛むよ。剣が握れるようになるのはまだまだ先だね」
「まあ生きてたんだ。得したと思わなきゃあな。ほら、食うか?」
ヴィセンテは無神経に果物を輪廻の枕元に並べる。
「食べさせてよ」
「ヴァージニアに頼め」
「ヴァージニアはいつ来るの?」
何気なくした質問だったが、ヴィセンテは呆気に取られた様子だった。
「……どうしたの?」
「いや別に。ヴァージニアと何かあったのか?」
「何もないよ。いつも通り、仲良し」
「そうか。仲が良いのは良い事だ」
そう言って、見舞いの果物を自分で食べ始めるヴィセンテだった。
「ねえヴィセンテ。槍は使える?」
「まあ、剣と同じくらいにはな。つまりそこそこ半人前ってところだな」
「ベッドの下に、槍があるんだけど。良かったら使ってみない?」
「……いいのか? これ、毒蛇イールズの槍だろ? お前が持って帰れって言った」
「うん……でも僕は槍なんて使えないし。せっかく良い槍なんだから、誰かが使った方が、その人の命を守れると思って」
「まあ、使っていいというのなら使ってみたいが」
ヴィセンテは槍を持ち上げると、医者や他の傷病兵たちの目もはばからずに槍をむき出しにした。
「……改めて見ると、妙な槍だな」
「影の槍、っていうんだ」
「なるほど。確かにこれは影みたいだ」
「でも影の槍っていうのはただの通り名で、その槍の本当の名前は――」
そこで輪廻の言葉が止まる。
しばらく固まったままの輪廻の顔をヴィセンテが覗き込んだ。
「本当の名前は、何だ?」
「忘れた」
「はあ?」
「うーん、確かに聞いたはずなんだけど……何だったかな」
「まあ名前なんてどうでもいいさ。槍は槍だ。せいぜい練習させてもらうぜ」
「そうだね」
ヴィセンテに答えてから、輪廻は大きなあくびをひとつ漏らした。
【登場人物紹介】
□アブリル・ヒルマン
王国軍東部方面軍二番隊隊長。輪廻の上官。
□イールズ
通称「毒蛇のイールズ」。カリナ・エーデルの補佐官。
□ヴァージニア・キャスカート
王国軍東部方面軍二番隊所属。輪廻の戦友。
□ヴィセンテ
王国軍東部方面軍二番隊所属。輪廻の戦友。
□エピナ・ユート
魔導同盟の執行者。十三賢人、"鷹の目"のユート。
□斧原一心
更場武術団の団長。江戸にいたころの輪廻の仲間。
□緒神輪廻
更場武術団の女盗賊。剣術の名手。
□カリナ・エーデル
帝国軍中将。東部方面軍第3師団の司令官。
□九条愛型
通称「五本差し」。魔導同盟の執行者。
□グレン・コールナー
王国軍東部方面軍三番隊隊長。
□ゴアーシュ・シュトラウス
王国軍東部方面軍二番隊所属。輪廻の戦友。
□シャルロット王女
サントラン王国の王女。
□ジョーン・グレイス
帝国軍軍務省長官。
□ツァルトリス
魔導同盟の執行者。十三賢人、"隠し盾"のツァルトリス。
□ディオル・バールトン
王国軍の訓練教官。
□マイルズ
王国軍東部方面軍総司令。
□リンド
王国軍東部方面軍二番隊隊長付補佐官。