15.影の槍
イールズは特にやることもなく、ふらふらと帝国軍の基地の中を歩き回っていた。
すでに夜が更けており、官舎の周りに焚かれた松明が森の奥をぼんやりと照らしている。
戦場であろうと後方であろうと、影の槍は常にイールズの手元にあった。
イールズは立ち止まり、壁に背中を預けて静かに目を瞑る。
夜ともなれば起きているのは見張りの一部の兵士のみである。
静かな夜だった。
空には満月。雲ひとつない。
しかしイールズは、誰かが自分のことをじっと観察している気配を鋭敏に感じ取っていた。
(……こいつ、カリナの部下じゃねえな)
昼間にイールズを監視していた者とはまるで匂いが違う。
あのときの監視者にはもっと可愛気があった。おそらく諜報のプロではなかったのだろう。
(まあ、諜報のプロでもないやつに、抜け出すところを見られた俺が間抜けだったってことなんだろうが…)
それにしてもまいったな、とイールズは頭をかいた。
今彼を監視している者は、イールズに対して明確な殺意を持っている。
イールズの感覚は他人の殺意に対して敏感であった。
もちろん人には殺意を感じ取る感覚器官などはないのだが、斧原一心だった頃に培った経験と直感が、イールズに警鐘を鳴らしていたのである。
(……来ねえな。しかし無視するわけにもいかねえ)
少し迷った挙句、イールズは一人で帝国軍の基地を出ることにした。
夜勤の兵士たちの見張りをくぐることなど問題ではない。
懸念されるのはまたカリナに迷惑をかけることだったが、今のこれは自分の生命がかかっている。
優先度としてはこちらが高いと判断した。
単身で森の奥に入る。
灯が見えなくなるまで歩き続ける。
森の木々が空を覆い尽くし、月明かりさえも届かなかった。
◇
山道に入ったところで、尾行されているのを確認してイールズは臨戦態勢をとった。
「どうした、出てこい。ここなら人目を気にする必要もねえぜ」
囁くような大きさの声だったが、きっとこの監視者はもらさずにすべて聞き取っているだろう。
この「敵」はそういう人間だ。
イールズは輪廻に対したときよりもさらに強い同類の予感を覚えていた。
木の影からゆっくりと、監視者が姿を現した。
全身を包帯で覆った人物だ。包帯の上からボロボロの黒い上着を着ている。包帯はゆったりと全身を覆っているので体格は不明である。
両手に武器の類は持っていなかったが、包帯や上着の中に何かを仕込んでいるのは明白であった。
「へえ、意外に素直だな」
イールズが口笛を吹いた。
男の目が包帯の間でギョロリと動いた。
「魔導同盟『執行者』十三賢人、"隠し盾"のツァルトリス」
聞きとるのも困難な、しわがれた男の声である。
ツァルトリスは名乗ってから、姿勢を低くして蜘蛛のようにイールズに近づいた。
イールズは槍を上段に構える。
「魔導同盟か。わざわざ槍を奪いに、戦場までご苦労なこった」
命の奪い合いに臨む高揚感は隠し切れない。
ぼやくように言いながらも、血液が沸騰しかけているように体が熱かった。
イールズも前に踏み込むと、ツァルトリスの体の中心を狙い高速の突きを放った。
敵の武器が分からない以上、懐に近づけるのは非常に危険である。
近づける前に殺す。それが槍兵の鉄則である。
相手の前進に合わせたイールズの突きは、たとえ達人であろうと簡単にかわせる速度ではない。
イールズの槍を、ツァルトリスはわずかに半身を傾けただけで体に受けた。
手応えあり――。
しかしそれは人を刺した手応えではない。
金属の表面をこすっただけである。
ツァルトリスの包帯の下には鎧があった。
「ふッ――――!」
瞬きをするほどの間に、二の突き、三の突き、四の突きを放つ。
狙いは眉間心臓首腎臓。
イールズの肉体はこれまでの彼の人生において最高の調子を見せていた。
はたして好敵手と出会えた精神の高揚がもたらした変化か、あるいは満月の魔力か。
月明かりさえ届かない闇の中で、イールズの瞳孔は限界まで拡大し、ツァルトリスの包帯の縫い目のひとつひとつもはっきりと見えている。
しかしイールズの突きは、ツァルトリスに致命傷を与えることなくすべて装甲に弾かれた。
イールズが続いて五度目の突きを放ったところでツァルトリスは横に飛び退いた。
森の中を縫うように移動し、すぐにイールズの死角に隠れる。
敵を追ってイールズは走った。
(なるほどな……面白い戦法もあるもんだ)
ツァルトリスの服装は装甲を隠すためのものであった。
しかし装甲と言っても、それは薄い、小さな金属の板を、全身を覆うように縫い合わせたものに過ぎない。
正面からイールズの槍をまともに受ければたちまち貫かれてしまうだろう。
――であれば、正面から受けなければよい。
金属の板はそのひとつひとつが微妙に違う角度、厚みで縫い合わせてある。
ツァルトリスは体を傾け、反らし、回転させることで、相手の攻撃を浅い角度で受け流すように、微妙な調整を施していたのである。
しかしその事実はイールズを戦慄させた。
すなわちそれは、ツァルトリスがイールズの槍を完全に捕捉していることを意味するからだ。
(俺の槍を完全に見切るなんざ、こいつは思った以上の大物だ――!)
走るイールズの横からツァルトリスが飛び込んできた。
イールズの槍を姿勢を低くしてくぐる。
ツァルトリスは手に蟹の爪のような二本の刃のある短剣を持っていた。
目の前で振るわれた短剣を紙一重でかわしながら、手は素早く槍を引き戻すとツァルトリスの体を柄の部分で払った。
常人であれば十メートルは吹っ飛ぶほどの威力で払ったにもかかわらず、ツァルトリスはすぐに着地するとイールズが次の突きを放つ前にすぐさま離脱した。
◇
イールズとツァルトリスの攻防はその後も一進一退で続いた。
ツァルトリスは姿を隠し、死角からイールズの懐へ潜り込む。
イールズはそれを迎撃しつつ、ツァルトリスを追い、あるいは逆に追われ、森の中を疾走した。
「くそっ、ちょこまかと――!」
渾身の突きはツァルトリスの装甲を浅い角度で擦っただけである。
逃げるツァルトリスに槍を横に振るえば、ツァルトリスの短剣に槍を捕らえられる。
剣と槍の間に火花が飛び散った。
二刃の短剣は相手の武器を捕まえるためのものであった。
まるで何もかもを防御に特化させたかのようなツァルトリスだったが、その実力は決して防御だけに特化しているわけではなかった。
イールズの突きをぎりぎりのところで受け流すツァルトリスは少し見切りが狂えば簡単に命を落としてしまうが、ツァルトリスの接近をぎりぎりのところで防いでいるイールズもまた必死であった。
加えて、鬱蒼とした森の中は長槍を振るうのにまったく適していない。
不安定な山道はそれだけで槍の勢いを削いでいた。
平地の半分ほどの実力しか出せないイールズだったが、しかしその分の不利がついても、ツァルトリスと互角に渡り合っていた。
……どちらかの手元が狂えば、それだけであっけなく勝敗は決していただろう。
森の中に、金属のぶつかり合う音が響いていた。
ツァルトリスは急襲する。
もはや何度目の攻撃か。イールズは数えるのをすでに諦めている。
イールズは槍の柄の中ほどを持って、払いや牽制で急襲に対応していた。
真っ暗な森の中で、影の槍は世界に溶けてしまったように不鮮明である。
しかしツァルトリスは槍の狙う先をこれまで一度も間違えることなく正確に読み取っていた。
おそらくこれからも、読み間違えることはないだろう。
(だったら――あの手を使うしかねえ)
ツァルトリスがイールズの槍の石突きを後退して回避した。
その隙を見逃さず、イールズは槍を持って全力で後ろに走る。
そのまま小さな崖を飛び降りた。
下は水位の浅い、幅の広い川が流れていた。
水音を響かせながら、イールズは川の中央まで走る。
ツァルトリスもまた崖を飛び降りてイールズの後を追いかけていた。
イールズとは対照的な、水の上を滑るかのような静かな移動である。
川の中央でイールズが槍を構えているのを見て、ツァルトリスの足が止まる。
「よくぞ鍛えた、ツァルトリス。では俺も、お前の強さに報いるとしよう」
ゆっくりと、槍を上に持ち上げる。
「今夜は良い月だ」
ツァルトリスはじり、とイールズににじり寄った。
両腕で上に持ち上げた槍の穂先は水面を向いている。
あのような奇怪な構えでは、大地を突くことはできても、ツァルトリスに傷ひとつつけられないだろう。
しかし槍を構え、ツァルトリスを待ち受けるイールズの気迫は尋常ではない。
――月が、二人の影を水面に落としていた。
闇を見ることに特化したツァルトリスの目には少しまぶしすぎる。
攻めあぐねていたツァルトリスだったが、先に動いたのはイールズだった。
「影の槍――」
ツァルトリスの任務は魔導具――「影の槍」の回収である。
影の魔女が作ったというその槍に、一体どのような特性があるのか。
それを知るのは以前の持ち主を殺して槍を奪ったこの男のみ。
それゆえ、ツァルトリスは防御に徹していたのだが、もはやその必要もないだろう。
(影の槍――恐るるに足らず!)
イールズが一歩踏み込んだ。これでツァルトリスは蛇の間合いに入った。
ツァルトリスは弾丸のような速度で突進した。
姿勢は低く。進路は直線に。
どのような一撃が来ようと致命傷を回避する自信があった。
あの構えから放つことができる一撃は非常に限られる。
イールズが槍を突いた。
上段に構えた槍を、接近するツァルトリス目掛けて突き下ろす。
しかしその槍はツァルトリスの体をかすめ、虚しく水面の影を突いただけである。
神速の槍が川底に突き刺さる。
ツァルトリスは勝利を確信した。
イールズが槍を抜くまでの一瞬で密着して短剣を突き立てる。
イールズを五回は殺してありあまるほどの致命的な隙。
しかし――。
「■■■■■」
イールズが、影の槍の本当の名を告げる。
――そのとき感じた悪寒を、どう言い表せばいいだろうか。
すべての違和感。疑問。不信感。
それが、その瞬間に氷解した。
次の瞬間、イールズの手にしていた槍は影となり、それと入れ替わるようにして影の槍の「実体」がツァルトリスの胸を貫いていた。
「ぬ――うっ」
気道に血があふれる。
自分の胸を貫いたのは、真っ白な槍。
刺さる瞬間を見ていない。まるで最初から刺さっていたかのように、そこに存在したのだ。
ツァルトリスは絶命する手前、わずかに唇を動かした。
しかし口からは血が吹き出るばかりで、結局は何事も漏らさずにツァルトリスの意識は闇の中に連れ去られた。
◇
影の槍――。
それは虚と実を入れ替える魔法の槍である。
通常の槍は、相手の肉体を貫いた結果として、「槍が相手を貫いた」影を大地に映しだす。
すなわち影は、実体を映し出すだけの残滓でしかない。
しかし影の槍は、その因果関係を真逆にする。
すなわち、槍の影が相手の影を貫いた結果として――否、その原因として、実体の相手の肉体を、実体の槍が貫くのである。
影の槍は、真実、影そのものだったのである。
影を用いた実体の召喚。それこそが槍に施された影の魔女の仕掛けであった。
影を貫くこの槍は、硬軟に関係なく相手を突き刺す。
条件は単純であり、相手の影を突き刺し、影の槍の本当の名前を告げるだけで良い。
その瞬間、槍の影と実体とが反転し、現実が即座に塗り替えられる。
影の魔女の魔法を具現化したかのような武器であったが、しかし実際は万能には程遠いものである。
実際、イールズは前の持ち主と対決した際、初見でこの槍の魔法を破っていた。
今回イールズが苦心したのはいかにして相手の影を引き出すか――つまり明かりのある場所へ誘い込むかということである。
――満月が、二人の姿を煌々と照らしている。
イールズが槍を引き抜くと、実体の槍も同時に消失し、ツァルトリスの体は支えを失って川に倒れる。
飛沫が跳ね上がり、ツァルトリスの体から流れたおびただしい量の血液が下流に帯を作っていた。
月の光に照らされた血は、どす黒い色をしていた。
◇
ツァルトリスが敗北した光景を、遥か彼方の山頂から眺める者がいた。
長い体躯を折り曲げて木の上に座っている。腕も、足も、骨そのもののように細かった。
体には木の模様を模した布をかけていた。動かなければ滅多なことでは見つからないだろう。
魔導同盟「執行者」十三賢人、"鷹の目"のユート。
イールズが獣の如き気配探知の能力を持っていたところで、数十キロメートルは離れた岩山の人影を見つけることは不可能であった。
しかしイールズにはできなかったことを、"鷹の目"のユートは実現する。
ユートはイールズとツァルトリスの決着をすべて見通していた。
もちろん、影の槍の特性も。
槍に心臓を貫かれ、絶命する間際、震えるように動いたツァルトリスの唇をユートの鷹の目は鮮明に捉えていた。
唇の動きから彼の言っていることを読み取るのは、ユートには容易いことである。
「……ナ…リア……推薦……賢人……」
ツァルトリスの唇はそう動いていた。
ナリアは魔導同盟に所属する若い「執行者」である。
ツァルトリスは自らが死んだ後の十三賢人の空席に、ナリアを推薦したのである。
おそらく、ユートが自分の死に際を見ているのを確信して。
「"隠し盾"……あなたの遺言は、私が確かに受け取った」
ユートは布を畳むと体を伸ばして静かに木の上から降りた。
かれこれ五時間はずっと木の上で監視をしていた。
その間、ユートの呼吸は死者のように静かであり、身動ぎひとつしなかった。
執行者――それは魔導同盟が持つ唯一の直接的な武力、諜報組織である。
十三賢人はその中でも最高の権限を与えられた異能者集団だった。
それゆえ、十三賢人を初見で破ることは非常に困難である。
それを成し遂げたイールズの実力が窺い知れるというものだ。ましてや彼は、影の槍をも破っているのである。
ユートは体を通常の状態に戻すのにたっぷり三十分は使い、闇の中を明かりも持たずに下山した。
イールズ「刺し穿つ――」
ツァルトリス「それ以上いけない」