10.修羅のごとく
帝国軍を撃退した夜、二番隊と、偵察から戻った四番隊と五番隊とが合流した。
偵察部隊と行動を共にしていた東部方面軍総司令のマイルズは、二番隊の奮戦を聞き、興味のない素振りで頷いた後、日課の入浴のために湯を沸かすよう部下に指示した。
東部方面軍の家を守った二番隊の戦闘の、戦略的な価値を理解できていなかったのである。
よってアブリル・ヒルマンが推薦したラディ・ダールトンの進級についても実現することはなかった。
「何が特進か……新兵をむやみに進級させては秩序が保てぬ。たかが引き分けただけの戦闘の何が功績か」
マイルズは風呂のための専用の小屋(いわゆるスチームサウナ)を建てさせていた。
戦場では貴重な水を使い、風呂に入り、補給部隊に特別に発注したぶどう酒を飲み、自分の地位を噛み締めていた。
◇
着任初日の新兵が、敵襲のさなかにあって軍神のごとく活躍したことは二番隊の話題をさらった。
たった半日でラディ・ダールトンの名を知らない者は二番隊にはいなかった。
ちなみに輪廻の活躍をもっとも喜んでいたのはヴィセンテである。
下級兵用のテントで休んでいるとヴィセンテが輪廻の肩を力強く叩いた。
「強い強いとは思ってたが…ここまでとはさすがに思わなかったぜ」
「かなり、際どいところだったけどね」
輪廻はそう言って、ヴィセンテに自分の右腕の袖をまくって見せる。
包帯に血の赤がにじんでいた。
敵の部隊に突入し乱戦したときの傷である。
いつ致命傷を受けてもおかしくない。決して安全な戦いではなかったのだ。
「しかしまあ、生きてて良かったな」
「そういうヴィセンテはどうだったの?」
「どうすればいいか分からなくて、おろおろしているうちに終わっちまったよ」
そこにゴアーシュがやって来て、二人の隣に腰をおろした。
「大活躍だったそうじゃないか。さすがラディ・ダールトン。僕の親友だ」
「おいお前いつから親友になったんだ?」
「そういえばゴアーシュは? ずっと見なかったけど」
「貴族たる僕の役目は後方から戦場全体を眺めることさ」
「そりゃつまり後ろでブルってたってことじゃないか」
ヴィセンテが冷めた口調で言うと、ゴアーシュは顔を真赤にして声を荒げる。
「ししし失礼な! ぼ、僕はシュトラウス家の人間で、5歳から剣の英才教育を受けた競技剣術のチャンピオンだぞ!」
「じゃあお前一体何してたんだよ」
「だから後方で――」
「剣士が後方にいてどうすんだよ。お前の剣はそんなに長いのかよ」
「まあいいじゃないヴィセンテ。誰だって初めてはうまくいかないよ」
輪廻が何の気なしにそう言うと、ヴィセンテとゴアーシュが同時に振り向いてぎょっとする。
「つーかお前がおかしいんだろ。何でいきなりそうぽんぽんと人が斬れるんだよ」
「そ、そうだよ。君、本当に一体どこで剣を習ったんだい?」
「というかお前、絶対初めてじゃねえだろ」
「そ、そんなことないよ。ほら、ヴァージニアだって、初陣なのにちゃんと前で戦ってたじゃない。ねえ、ヴァージニア!」
輪廻は部屋の隅で足を拭いているヴァージニアに声をかける。
ヴァージニアはちらりと三人の方を向いてから、何も言わずに視線を戻してしまう。
「……ご機嫌斜めなのか、疲れてるのか、俺には分からん」
「本当に――ただの偶然だよ。たまたま軍神が降りてきたんだ」
「ふっ。そういうことにしておいてあげるよ」
ゴアーシュが金色の髪を掻き上げる。
ヴィセンテはその仕草を胡散臭そうに見ていた。
◇
夜中、輪廻は一人で基地の外に出ていた。
空は真っ暗で、駐屯地のあちこちに並んだ松明がぼんやりと森を照らしている。
ときおり見張り番の兵士たちが基地の周囲を巡回しているのが見える。
常に誰かが起きていて、敵の襲来に備えているのだ。
本来ならば昼の任務に備えて夜はすぐに寝るべきであったが、輪廻はなかなか眠れる気分になれない。
木の根元に腰を下ろしてぼんやりとしていた。
輪廻は自分の剣を抜いて刃を月にかざした。
曇った夜を背景にフェルミナ金属の刀身がぬるりと光っている。
世辞にも名刀とは言いがたい。
魔女の力で大量に加工されるフェルミナの剣は、切れ味を犠牲に、奇跡的な軽量化と大量生産を実現した。
生まれ変わる前に使っていた懐かしき愛刀とは比べるまでもないが、しかしこうして夜月に照らすとそれなりに美しく見えるものである。
異世界の月は、一見して故郷の月と何も変わらないように見える。
(……月だけじゃない。わたしがここでやっていることだって、前と何も変わっちゃいない。ただの人斬りだ)
気配がして輪廻は剣を鞘に収める。
振り向くとヴァージニアの姿があった。
「ここで何をしている?」
「別に何も」
ずいぶん深く心の奥に沈んでいたので、輪廻の声色は意外なほどにそっけなくなった。
ヴァージニアは輪廻のそばに立ち、視線をしばらく輪廻と森の間でうろうろと彷徨わせてから切り出した。
「ゴホン……ここ、いいか?」
「何が?」
「隣に座ってもいいかと訊いたのだ!」
「ど、どうぞ」
そうか、と満足そうに頷いて、ヴァージニアは輪廻の隣に腰を降ろした。
しばらく無言の二人。
「あの……」
「な、何だ?」
輪廻が話しかけるとヴァージニアはびくりと反応する。
暗かったが、輪廻の目はヴァージニアの顔の細かな部分まで鮮明に捉えている。
「お前、ずいぶん活躍したな」
「…そうかな」
「古参兵たちもみなお前の話をしているぞ。初陣でああも活躍できる奴はいないだろう」
「ヴァージニアだって」
「私は……何もしていない」
搾り出すような声である。
「初めて敵と剣を合わせたとき手が震えた。恐怖で逃げ出しそうになった。……結局私は、一人も殺せなかった」
「そう…」
「だがお前は違った。何故だ?」
「何故、って」
「どうしてためらいもなく人を斬られる?」
「僕だって、人を斬るのは怖いよ」
輪廻は嘘を吐いた。
人を殺して感傷に浸ったことはない。
しかしヴァージニアはそれ以上の追求はしなかった。
(見透かされてるのかしら…)
「ラディ。私は、人を斬るのが怖い。今までずっと軍人になるための努力をしてきた。剣の腕も、誰にも負けないつもりだった。お前に会うまではな。だが今、私はたまらなく怖い。どうすればいい? どうすればこの恐怖はなくなる?」
「…無理に人を斬る必要はない。その時が来れば、斬らなきゃいけなくなる。だから今は――」
「ラディ! 私はお前と一緒に戦いたいんだ。私はお前の背中を守れる戦士になりたいんだ……だから……」
輪廻はヴァージニアの手を握った。
彼女はハッとして輪廻を見る。
もはや輪廻は、自分が今は男の体であることを忘れていた。
「…たとえヴァージニアが人を斬らなくても、君は僕の仲間だよ。だから」
(どうせだから、あんたはそのままでいなさい)
輪廻はヴァージニアの手を離して立ち上がる。
「それじゃ、おやすみ。ヴァージニアも早く寝た方が良いよ」
あくびをかみ殺しながら輪廻はテントに戻った。
◇
翌朝輪廻は隊長のテントに呼び出された。
アブリルは立派な木の机に行儀悪く尻を乗せて足を組んでいる。
すらりと伸びる長い足は陸戦の兵士としては不思議なほどに色が白い。
一年中太陽が陰る、黒の森で戦う兵士の特徴である。
隣には補佐官のリンドが控えていた。
「リンド。下がっていろ」
リンドは黙って一礼するとテントを出た。
アブリルとは不釣合いなほどに寡黙である。
すれ違うとき、リンドが輪廻の横顔をちらりと見たのが分かった。
リンドが出ていったのを確認して、アブリルは口を開いた。
「さてラディ・ダールトン。何はともあれ、まずはお前を褒めてやる。昨日はよく戦ったな」
「それは何度も聞きました」
「人が褒めてやってるのにもうちょっと嬉しそうにしたらどうだ」
「……恐縮です」
「くふふふ。オレは嬉しいぞ。お前は雛鳥なんてショボい鳥じゃないな。巨鳥グイードかドルホルノか。どちらも伝説の鳥だ。お前はお前を何にたとえられたい?」
アブリルは嬉しそうに笑っているが、輪廻はどんな表情をすべきか分からない。
愛想笑いでもすればいいのか?
「あの、話が見えないのですが」
「ああ? お前人の話聞いてるのか? 喩え話だよ。お前は少なくとも雛鳥じゃあない。じゃあ何なのかということを、オレはお前に聞いているんだ」
「何なのかと言われても、ただの兵士ですよ」
「はっ。つまんねー男だ。でもまあそういう簡潔なところは嫌いじゃないな。軍司令部の貴族共に比べれば」
「……あまり軍を批判するようなことを言うと、反逆罪で捕まりますよ」
「ここにはオレとお前しかいねえじゃねえか」
「いえ、僕がいるから、言っているんです」
なははは、とアブリルは爆笑した。
「ねーよ。お前はオレを売らない。それとも、オレを売って、二番隊の隊長になりたいか?」
「なりたいと言ったらどうします?」
「お前を殺す。…というのは冗談にしても、お前に隊長としての能力があれば、お前が望もうと、嫌がろうと、お前を隊長にするさ。軍ってのはそういうところだ。オレだって、なりたかったから隊長になったわけじゃねえしな。たまたまオレが最強だっただけだ」
「そうですか……。では隊長は、どうして軍人になったのですか?」
「借金取りから逃げてきた」
(ああ…なるほど)
思わず納得する。
何がどう「なるほど」なのか、輪廻自身うまく説明できなかったのだが。
「隊長なら軍人でなくとも何でもできそうですね」
「そりゃどういう意味だ?」
「才能に溢れている、ということですよ」
「褒めてるんなら不要だぜ。強いってのは聞き飽きたし、当たり前すぎて何の意味もない。お前、『あなたは人間ですね』って言われて嬉しいか?」
「強いだけじゃなくて、隊長はすごく可愛いですよ」
ズテン!と隊長は盛大に机の後ろに倒れた。
頭から床に落ちて、足だけが見えていた。
やがて立ち上がると真っ赤な顔をして輪廻の方を見た。
「な…な…な……か…う………ぐ……」
パクパクとアブリルの口だけが動いて言葉が出ていない。
驚いたのは輪廻である。
まさかここまで過剰に反応されるとは予想外すぎた。
(この女に言いくるめられるのが嫌で反撃してみたっていう軽い気持ちだったんだけど…こ、効果覿面ね)
輪廻は自分が、客観的に見て女たらしそのものであることを自覚し始めていた。
(昨日のヴァージニアといい、今日のこの女といい、わたしは一体何をやっているのかしら)
とはいえ、アブリルの外見が可愛いことは事実である。
輪廻がいささか嫉妬を覚えるくらいには。
せめて剣の腕だけでは勝りたいものだと輪廻は思った。
それから長い時間をかけて、アブリルは普段の自分を取り戻した。
「ん。悪かったな。さて、何の話だ?」
「いえ。本題にはまだ……」
「そうだった。本題だな」
アブリルはじっと輪廻の顔を見つめる。
「喜べ。今日からお前はオレとチームだ」
◇
黒の森のずっと北の平原で、帝国軍中将カリナ・エーデルとイールズが話していた。
二人はそれぞれの馬に乗り、イールズは荷物を載せたもう一頭の馬を手綱と逆の手で握っていた。
カリナはずっと地図を睨みつけている。
ときおり顔を上げては地平線の方を見つめる。
「…………オイ」
イールズが低い声で話しかける。
カリナはイーデルの方を向いて彼の疑問に答えた。
「道に迷いました」
「三日も馬で歩き続けて未だに草原しか見えないことを考えれば子供でも分かる事実だな」
「おかしいですねえ…この道で良かったはずなんですが」
「どこがだよ! ていうか道ねえよ! 見渡すかぎりの草原だよ! 森どこだよ!」
びゅうと冷たい風が吹くと、二人のいる草原が波打った。
正しい道のりであれば通るはずのない草原である。
あはは、とカリナは乾いた笑い声を上げる。
イールズは頭を抱える。
「……つーかなんで二人だけなんだよ」
「ただの交代人事なんですから仕方ありません。それに私の護衛はあなたがやってくれます」
「あんたがふらふら変な道を進むから、もう何回も盗賊に襲われたしな」
「あなたの活躍はしっかりと見せてもらいましたよ。戦略兵器の名に恥じぬ腕です」
「お前はただ立ってただけだったな」
「自慢ではありませんが私は剣で鶏肉を切ることもできません。ちなみに教練では剣の成績は最下位でした」
「ほら、地図を寄越せ。ここからは俺がガイドをやる」
「あ、だめですよ。進路を決めるのは私の仕事ですから。戦闘も先導も部下に任せてしまっては上官としての立場が――」
「いいから寄越せ!」
帝国軍の新しい士官は、未だ黒の森に到着していなかった。
輪廻「また、つまらぬ者を斬ってしまった」