私、かわいそうなのは今日限りでやめさせてもらいます!
王宮の晩餐会は、溢れんばかりの光に満ちていた。
天井から吊り下げられた巨大な水晶のシャンデリアが、磨き抜かれた大理石の床に万華鏡のような陰影を落とす。
壁際を飾る金箔の彫刻や、豪奢なベルベットのカーテンが、室内の熱気を孕んで微かに揺れていた。
給仕たちが運ぶ銀の大皿からは、北海産の鮭のポワレに白ワインと数種のハーブを煮詰めた特製ソースの芳醇な香りが漂う。
口に運べば、パリッとした皮目の香ばしい歯ごたえと、舌の上でとろける脂の濃厚な甘みが、贅沢に広がる。
パーティーに参加している人々は、豪華な食事に舌鼓を打ち、味の感想を口々に喋りながら、楽しそうに会話を弾ませている。
その華やかな人々の喧騒から少し離れた壁際で、エルザは静かに佇んでいた。
動きやすさを最優先にした、装飾の乏しい群青色のドレス。
地味な衣装に隠されているが、その手足は小柄ながらすらりと細長く、その瞳には知的な眼差しが宿っている。
今は仕事の邪魔にならぬよう後頭部で手際よく編み込まれた亜麻色の髪も、解けば驚くほど美しい絹髪だ。
エルザの姿は、周囲のきらびやかな衣装をまとった令嬢たちの中で完全に浮いていた。
しかし、エルザの背筋は定規をあてたかのように真っ直ぐに伸び、公爵令嬢としての完璧なふるまいを体現している。
良くも悪くも、エルザは家族のことを大切に想い、その影響を強く受けて生きてきた。
実家の公爵家が困窮しないよう領地の経理処理を裏で支え、へたな男性貴族よりも有能に、自立して立ち回ってきた自負はある。
だが、不遇な扱いゆえに、その能力が表舞台で発揮されることはなかった。
賢く我慢強く優しい彼女は、これまで実家の理不尽な要求にも黙って応えてきた。
少しでも役に立てばと独学で周辺各国の言語と文化をマスターし、実家や婚約者が「自分の手柄」にしていた外交書簡の代筆・翻訳をすべて裏でこなす日々。
それらはエルザ自身の趣味嗜好や欲ではなく、実家の立て直しと、ひいては国民の生存のためだった。
「エルザ、ここへ来なさい」
不意に、厳格な声がエルザを呼んだ。
声の主は、実の父親であるボルドー公爵だった。
その傍らには、第一王子であるレイナルドが、自身の金髪を誇るように顎を上げている。
さらに王子の腕にしがみついているのは、実父の後妻の子。
エルザの二歳年下の異母妹であるセリアだった。
セリアは、最新の流行を取り入れた薔薇色のシルクドレスをまとい、大粒の真珠を首元に輝かせている。
抜けるような白い肌に、夜空を切り取ったような黒髪を美しく巻き上げた、文句のつけようのない公爵家の美姫だった。
歪んだ中身の性格はともかく、外見は誰もが振り返るほどの美人である。
エルザは、一歩ずつ絨毯を踏みしめて彼らの前へと進み出た。
足の裏から伝わる織物の厚みが、微かな緊張を伴って伝わってくる。
「お呼びでしょうか、父上様。レイナルド殿下も、ご機嫌麗しゅう存じます」
完璧な角度の礼を披露するエルザに対し、レイナルドは鼻で笑った。
その冷ややかな視線が、エルザの地味な装いを値踏みするように上下する。
「相変わらず、王宮の夜会にふさわしくない薄汚い格好だな、エルザ。お前のようなきらびやかさの欠片もない役立たずが、私の婚約者として隣に立つなど、やはり間違いだったのだ」
王子の言葉に、周囲の貴族たちの視線が一斉に突き刺さる。
ひそひそという囁き声が、風の音のように会場を回る。
「殿下、それはどういう意味でしょうか」
エルザは声を乱すことなく、静かに問いかけた。
「言葉通りの意味だ。お前との婚約は、本日をもって破棄する。新たな私の婚約者には、真に華やかで、私を支えるにふさわしいセリアを迎えることにした。お前の父も承諾し、我が父も承諾したことだ!」
レイナルドが胸を張り、隣のセリアを引き寄せる。
その視線は、セリアの容姿を注視し、己の権力を誇示する装飾品としての価値を確かめているに過ぎない。
セリアは、勝ち誇った笑みを浮かべながら、エルザを見つめた。
「お姉様、ごめんなさいね。殿下は私を心身ともに愛してくださるの。でも、お姉様より私のほうが魅力的だもの、仕方のないことですわね」
妹の言葉を聞きながら、エルザは憤るよりも先に、すとんと納得がいってしまった。
裏切られたと激昂するのではなく、私より彼女のほうが魅力的なのだから仕方がない、と自責の念が頭をよぎる。
むやみに両親や婚約者に逆らわない教育を受けてきた淑女として、その決定を拒む術をエルザは持たない。
「これからは私が王子の隣で、華やかな外交の主役になるわ。お姉様が夜な夜な書いていた、あの退屈な外交書簡の手柄も、これからは全部私のもの。お姉様の代わりを、私が完璧に務めてあげる」
セリアの言葉には、自尊心だけが肥大化した無知さが透けて見えていた。
彼女は知らないのだ。
政務を代行しているレイナルドが自身の成果として国王や重鎮たちに提出していた各国の外交書簡が、圧倒的な語学力と広範な知識の収拾による完璧な古典作品の引用を交えた文章が、絶賛されていたことを。
「私との婚約が破談となれば、この国に居づらいであろう。お前には新たな役目を与えることになった」
レイノルド皇子の言葉を実父である公爵が、冷酷な声音で言葉を継いだ。
「隣国であるアルカディア帝国の皇帝、ルファード陛下のもとへ嫁ぐがいい。あちらから、我が国との親善のために我が家からの輿入れを打診されてな。我が国としては、気難しい帝国との同盟を維持するために、誰かしらを差し出さねばならん。生贄のようなものだが、役立たずのお前でも、我が家の役に立つ最後の機会だ」
アルカディア帝国のルファード。
世間では『氷血皇帝』と恐れられ、気に入らない者には死の制裁を加えると言われ、冷徹無比で血も涙もない男だと噂されている。
そんな氷血皇帝への輿入れは、事実上の国外追放であり、半ば死を意味するに等しい処置だった。
周囲の貴族たちから、同情と哀れみの視線がエルザに注がれる。可哀想な公爵令嬢。誰もが彼女の絶望を確信していた。
実父と婚約者から突きつけられた不条理な宣告に対し、エルザの胸の奥で、何かが静かに弾けた。
(ああ、もう、いいわ――)
喉の奥が熱くなり、呼吸が一瞬だけ止まる。
視界がかすかに揺れ、頬の温度がすうっと下がっていく。
しかし、それは悲しみによるものではなかった。
身体の芯から湧き上がる、冷徹なほどの解放感だった。
これまで、婚約者のために、家族のために、実家の存続のために、領民のために、国民のために、どんな不条理なことにも耐えてきた。
睡眠時間を削ってパーティーの食事の支度や、領地の経理も必死に処理し、外交書簡を必死に翻訳し、他国との交渉を有利にできるよう陰で支えてきた。
それなのに、彼らはエルザの能力を認めようともせず、最後は生贄として死地に放り出すという。
(私、かわいそうなのは、今日でやめさせてもらいます!)
エルザは心の中で、強くそう決意した。
もう、誰かのために自分を押し殺す必要はない。
理不尽な要求に笑顔で従うだけの操り人形の人生は、今日この瞬間に終わりにする。
自分の能力を、自分のこれからの生存と自立のために使うのだ。
エルザの唇が、ゆっくりと弧を描いた。悲嘆に暮れるどころか、ひまわりが咲くような、晴れやかな笑顔がその美貌に広がる。
突然の変化に、レイナルドも父親も、異母妹も驚きに目を見開いた。
「畏まりました。殿下、そしてお父様。そのお申し出、謹んでお受けいたします」
鈴の鳴るような澄んだ声が、静まり返った夜会会場に響き渡る。
「何だと……? 泣いて許しを乞うのではないのか」
レイナルドが困惑の声を漏らす。
エルザは、淑女としての完璧な所作を保ったまま、ふわりとドレスの裾を持ち上げた。
「いいえ、アルカディア帝国との縁談、喜んで承ります! それとセリア。今まで私がこの実家と王宮のために作り上げてきた、秘伝のレシピノート、各国の外交翻訳辞書、領地経営で培った人脈リストは、すべて自室の机に置いていきますね。殿下のため、父上のため、自由に使ってあげて」
エルザの言葉にセリアが、ふんと鼻を鳴らした。
「そんな古臭いノートなんて、私には必要ないわ。殿下の隣にいれば、それだけで素晴らしい外交ができるもの。お姉様の残したガラクタなんて、すぐに暖炉の燃料にしてあげる」
「そう……。残念ね。では、頑張って。わたくしは帝国の地からあなたのことも応援してるわ」
エルザの瞳には、憐れみすら浮かんでいた。
エルザが残していく翻訳辞書には、高度な外交隠語や他国の文化的な禁忌が、緻密な比喩表現で記されている。
その真意を理解できぬまま使えば、どのような事態を引き起こすか。
無能な妹と、自惚れの強い王子には、想像すらつかないのだろう。
この先に起こることを危惧しつつも、実質的な国外追放される自分ではどうしようもないことを悟った。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。遠方への旅路となりますゆえ、支度がございますので」
エルザは一礼すると、一度も後ろを振り返ることなく、堂々とした足取りで夜会会場を後にした。
背後から聞こえる、家族や婚約者だった男の呆然とした息遣いや、貴族たちのざわめきが、急速に遠ざかっていく。
※ ※ ※
王宮から戻り、鞄一つにまとめた荷物を持ち、慣れ親しんだ屋敷の中庭にまでやってきた。
待機していた馬車は、公爵家の紋章が入っているものの、古びて手入れの行き届いていない廃棄寸前の車体、引く馬も老齢であった。
生贄の旅路にふさわしい、冷遇の証拠と言える。
しかし、エルザの目にはそれが、新しい世界へと繋がる希望の箱に映った。
「エルザ様、本当によろしいのですか? 行き先はあの帝国ですぜ……」
御者の老人が、心配そうに声をかけてくる。
「ええ、構いません。行きましょう」
エルザはそう答えるとボロ馬車に乗り込んだ。
硬い木製の座面に腰を下ろすと、ガタゴトと車輪が回り始める。
(氷血皇帝、ルファード・ヴァン・アルカディア――)
その恐ろしい二つ名を持つ男が、一体どのような人物なのか、エルザにはまだ分からない。
しかし、どのような逆境が待ち受けていようとも、自分の知識と技術で、必ず生き抜いてみせる。
(そういえば、かつてアルカディア帝国との間で交わした公式の書簡の中に、不思議な返信があったはず。古典作品の引用して翻訳が完璧すぎると、激賞してくれた方があの国にはいる。まずはその方の御力を借りてみるのもありなのかも)
そう考えたエルザは、暗闇の中を進む馬車の旅も、決して孤独ではないように思えた。
馬車の窓から、遠ざかっていく祖国の王宮を見つめる。
(あの華やかな檻の中に、今までの過去をすべておいてきた。私はもう、かわいそうな令嬢ではないわ。私の力で、私の人生を切り開いてみせる)
まだ見ぬ隣国を目指して、エルザの馬車は夜の街道を進んでいく。
※ ※ ※
国境の関門を抜けた瞬間から、空気の匂いが変わっていた。
祖国の湿った土の香りと違い、アルカディア帝国の空気は乾燥しており、どこか芳醇な針葉樹の薫香が混ざり合っている。
エルザは、古びた馬車の窓枠にそっと指を触れ、ガタゴトと響く振動を体で受け止めていた。
「私、かわいそうなのは今日限りでやめさせてもらいます!」と夜会で決意し、身一つで始まった旅路もすでに一カ月が過ぎた。
「エルザ様、帝都が見えてまいりましたぞ」
御者の老人の声によって、来るべき時が来たとエルザの喉が鳴るのが聞こえた。
(不安がないと言えば嘘になるけれど……。やるしか、生き残る道はないのだし、自分のために頑張ろう)
近づいてくる帝都の街にエルザの心臓の音が高鳴っていった。
街道を進み、帝都に入った馬車が滑り込んだのは、帝都の一等地を占める、重厚にして壮麗な黒御影石の城館だった。
ルファードの私邸である『黒曜宮』だ。
祖国のこぢんまりとした王宮が霞んでしまうほどの圧倒的な規模と、洗練された建築美がそこにある。
車輪が静かに止まり、細緻な彫刻が施された扉が開かれると、冷涼な風がエルザの頬を優しく撫でた。
出迎えた侍従たちの隙のない完璧なふるまいに導かれ、ドレスに着替えを終えたエルザは豪奢な応接室へと足を踏み入れる。
室内の装飾は、床には深紅の珍しい絨毯が敷き詰められ、一歩歩くたびに足元が深く沈み込む心地よい感触がある。
壁には金糸と銀糸で精緻な神話の光景が刺繍されたタペストリーが掛けられ、空気には最高級の香木が醸し出す、甘く厳かな香りが漂っていた。
エルザは、先導をしてくれた侍従に礼を述べるとソファーの端に控えめに腰を下ろした。
(やはり、このドレスではこの場に合わない気がしてきた……。皇帝陛下の私邸とはいえ相応の服装を求められるのだろうし、咎められるのかしら)
エルザは泣き出したい気持ちを必死に抑え、たった一つだけ持ち出せた装飾の乏しい群青色のドレスの裾を丁寧に撫で、両手を膝の上できちんと重ねる。
そこへ、重厚な木製の扉が静かに開く。
入ってきたのは、一人の男性。
エルザの視界にまず飛び込んできたのは、仕立ての良い漆黒の夜会服に包まれた、圧倒的な体躯の男性だった。
夜会服は、男性の鍛え上げられた胸板と引き締まった腰のラインを完璧に際立たせていた。
そして切れ長の冷徹な瞳は深いアメジストの輝きを放ち、彫刻のように美しく整った鼻梁、夜の闇をそのまま溶かし込んだような艶やかな黒髪によって作られた顔立ちは圧倒的な存在感を示している。
エルザの前に現れた男性は、世間で『氷血皇帝』と恐れられるルファード・ヴァン・アルカディアその人だった。
視線を合わせるだけで失神しそうなほどの絶世の美貌が、エルザの瞳に鮮烈に焼き付く。
エルザは息を呑み、即座に立ち上がって淑女の礼を取ろうとする。
しかし、その動作が終わるより早く、ルファードは長い歩幅で瞬時に距離を詰め、あろうことかエルザの目の前に片膝を突いてひざまずいた。
「――エルザ。よく、無事に日本へ来てくれた。国境で出迎えたかったが、家臣たちに「皇帝である陛下が小国のしかも公爵家程度の者を出迎えるのは国辱だ」と止められていてな。申し訳なかった」
低く、チェロの重低音のように鼓膜を心地よく震わせる美しいルファードの声が、エルザの緊張を解いていく。
ルファードは、エルザの少し冷えていた右手を、大きな両手で壊れ物を扱うかのように優しく包み込んだ。
彼の掌からは、驚くほど熱い体温が伝わってくる。
エルザの頬の温度が、不意にじわりと上がった。
呼吸が一瞬だけ止まり、視界が彼の端正な顔立ちだけで満たされる。
ルファードの切れ長の瞳には、噂されるような冷酷さは微塵もなかった。
そこにあるのは、極上の、甘く蕩けるような笑顔。
「へ、陛下……? 私は、生贄の婚約者として、こちらへ参ったのですが……。なぜ、謝罪など……されるのですか?」
エルザの困惑が声に滲む。
ルファードは、エルザの質問に答えず小柄ながらすらりと細長い手足や、亜麻色の髪の隙間から覗く知的な眼差しを、ただ愛おしそうに見つめている。
しばらく2人は無言のまま見つめ合う時間が過ぎていた。
「あ、あの……陛下?」
エルザの言葉で我に返ったルファードが、照れくさそうに言葉を発した。
「すまない。私の心を奪った名文を書いた希代の才女がどのような人か幾晩も想像して過ごしてきたのだ。その本人がこのように美しい容姿だとは……。神は奇跡を起こされるのが好きすぎるようだ」
「陛下……。御戯れを……。わたくしなどは、地味で華やかさの欠片も持ちわせぬ者です。このドレスもこの場にはふさわしくないほど華やかさとは無縁の物」
「そのようなことを自ら申すな。私は君の容姿の美しさに心がかき乱され、落ち着くことができずにいる。女性に対し、このような気持ちになることは初めてなのだ。許せ。それに、ドレスもすでに新しいものをあつらえるよう指示を出す。すでにいくつか君の美しさを最大限に引き出せる物を用意しているのだ。出来上がったらすぐに着てみてくれ。気に入らなかったら、いくらでも作り直させるつもりだ」
状況の整理が追いつかないエルザには困惑するしかなかった。
「へ、陛下……。状況が飲み込めません」
ルファードはエルザの困惑に気付いたようで、この婚約の成立に至った経緯を話し始めた。
「私の心を奪った名文を書いた者を我が国に招聘しようと調べさせていたら、君が代筆をしていたという事実に行き当たった。そんな君のことを調べていくうちに、実家の公爵家やあの愚かな婚約者の王子から、どれほど不当に扱われ、その至高の才能を搾取されていたかを私は把握したのだ」
ルファードはそれまでの穏やかさを一変させ、愛するエルザに対して、長年行われていた不当な扱いに対し、静かな怒りを露わにした冷たい表情を浮かべていた。
「私はあの国で不当に扱われている君を救いたかったのだ。ただ、救おうにも軍隊を動かして奪うわけにもいかず悶々としていたところ、婚約者の王太子がエルザとの婚約を破棄し、異母妹を后にしたがっているという話が耳に入ってな。婚約破棄された君が幽閉されないないよう急いで公爵家に輿入れの打診をしたのだ! けして生贄として、君を寄こせなどと言ったつもりはない」
「そ、そうなのですか……」
「そうだ。私は、君という『最高の頭脳』を心から歓迎する。私は出会う前から君の書く文章に心を奪われていたのだ。そして、出会った今はその素晴らしい容姿に片時も目が離せないでいる」
ルファードの熱烈な言葉に、エルザは喉の奥が熱くなるような衝撃に、息を詰める。
「陛下……」
「誰に遠慮することもない。君の望むすべてを、ここで叶えよう」
祖国では「役立たずの雑用係」と見下され、誰一人として気づかなかった自分の価値を、この初対面の異国の主が完全に理解し、評価してくれていることにエルザの心が震えていた。
「まずは長旅の疲れを癒やしてほしい。君のために、特別な部屋を用意した。案内しよう」
ルファードにエスコートされ、エルザは邸内を進む。
案内された自室は、贅を尽くしたシルクの天蓋付きベッドが鎮座する極上の空間だったが、エルザの目を最も釘付けにしたのは、その部屋に隣接された専用の場所だった。
「ここは……」
「君専用のキッチンだ。最新の魔導具をすべて並べさせた」
扉の向こうに広がっていたのは、祖国の王宮の厨房をも遥かに領駕する、白大理石で統一された巨大な調理場。
壁際を拭く必要すらなさそうなほど磨き抜かれた調理台には、温度や湿度を魔法石の力で完全に制御できる最新の魔導オーブンや、食材の鮮度を永久に保つ魔導冷蔵庫が整然と並んでいる。
家事全般の達人であり、料理をすることを喜びとするエルザにとって、これはどんな宝石やドレスよりも魅力的な贈り物だった。
指先が歓喜で微かに震え、胸の高鳴りが抑えきれない。
(これなら祖国では火力が足りずに作れなかったあの料理も、完璧に再現できる)
自分を縛り付けていた不遇の日々から完全に解き放たれ、この素晴らしい空間で思う存分に腕を振るえる。
その確信が、エルザの背筋をさらに真っ直ぐに伸ばした。
「陛下、お部屋のご配慮、心より感謝いたします。もしよろしければ、長旅を支えてくださった皆様と、何より私を歓迎してくださった陛下への感謝を込めて、私に一品、お料理を作らせていただけないでしょうか」
その提案に、ルファードは驚いたように目をみはり、すぐに弾んだ声を紡いだ。
「君の手料理を、私が最初に味わえるのか? 最高の贅沢だ。ぜひ頼む。楽しみに待っているよ」
ルファードの返事を聞いたエルザはすぐに動き出した。
地味なドレスの袖をたくし上げ、清潔な純白のエプロンを身につける。
手際よく亜麻色の髪を後頭部で三つ編みにまとめると、その瞳には輝きが宿る。
調理台に並べられたのは、帝国の豊かな大地が育んだ最高級の食材たち。
その中でエルザが目を留めたのは、美しい霜降りが躍る帝国産黒毛豚のロース肉だった。
まず、肉の表面に軽く塩と、挽きたての黒胡椒を振る。魔導コンロに火をつけ、熱した銅製のフライパンに自家製のハーブオイルを注ぐ。オイルが温まると、爽やかなローリエとローズマリーの香りが厨房全体に広がり、鼻腔を心地よく刺激する。
そこへ、厚切りのロース肉を投入。
じゅわあ、というジューシーな脂が弾ける小気味よい音が室内に響き渡り、肉の焼ける芳醇な香りが一気に立ち上る。
強火で表面を素早く焼き固め、肉汁を一切逃がさない。
完璧なタイミングで肉を裏返し、さらに完熟のトマトを丁寧に潰して作った特製のトマトソースと、隠し味に帝国特産の深紅の赤ワインを惜しみなく注ぎ入れる。
コトコトとソースが煮詰まるにつれ、トマトの爽やかな酸味と肉汁が混ざり合った、濃厚で官能的な香りが周囲を満たしていく。
エルザの手際は一切の無駄がなく、ナイフでパセリを刻むトントンという規則正しい音が響いていた。
最後に、じっくりと火を通した肉を温められた白磁のお皿に盛り付け、鮮やかな緑のパセリを散らす。
出来立ての料理が、エルザの料理する姿を背後でジッと見つめ続けていたルファードの前へと運ばれる。
銀のカバーが外された瞬間、白い湯気とともに立ち上る圧倒的な香りに、ルファードの鼻腔がピクリと動いた。
彼は大の美食家でもあるが、この料理が放つ「本物」のオーラを瞬時に察知し、その目が微かに見開かれる。
「帝国産黒毛豚のハーブトマト煮込みです。陛下のお口に合うかは分かりませんが……」
「君の手料理なら、私の方が口を合わせるようにする」
席に付いたルファードはナイフとフォークを手に取り、肉を切り分ける。
刃先から伝わる肉の驚異的な柔らかさに、彼の美しい眉がわずかに上がる。
一切れを口に運ぶ。
その瞬間、ルファードの動きが完全に止まった。
エルザは静かにその様子を見守る。
ルファードの口内で、カリッと香ばしく焼かれた表面から、じゅわっと溢れ出た濃厚な肉汁が、トマトソースの爽やかな酸味と赤ワインの深いコクに包まれて大波のように押し寄せる。
ハーブの香りが豚肉の旨味を最大限に引き出し、噛むほどに贅沢な味わいが広がる。
そのあまりの美味さに、表情の隙間から驚愕が覗く。
ルファードは目を見開き、一切れを飲み込むと、まるで取り憑かれたかのように次々と肉を口へと運んでいった。
その洗練された、しかし貪欲な食べっぷりには、完璧に胃袋を掴まれた男の姿がそこにあった。
ルファードはシルクのナプキンで口元を拭うと、勢いよく立ち上がり、エルザの元へと歩み寄った。
その瞳には、先ほど以上の、いや、これまでにないほどの熱烈な光が灯っている。
彼はエルザの両肩をそっと掴み、至近距離からその美貌を見つめた。
「……素晴らしい。これほどの美味、生涯で初めてだ。でも、君の料理だけではない。君がこれまで紡いできた言葉、君の持つ知性、そしてこの可憐な姿のすべてが、私の心を支配している。やはり、私が夢に見た通りの、いや、それ以上の女性だ。私は生涯をかけ君を守り、愛することを誓わせてもらいたい。誓わせてもらっていいだろうか?」
冷血皇帝として世間に知られているルファードがまるで、一人ぼっちになって不安げな子供のように、小さく震えながらエルザに愛の誓いを囁いた。
エルザは、その圧倒的な愛の熱量を語りながらも心細げなルファードの姿を見て、胸の奥から湧き上がる確かな充足感に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「そ、そうだ! 明日からは、我が国の全権大使として、私の隣でその力を奮ってほしい。家臣たちも君の知性や料理を食べれば私の意見に賛同してくれるはずだ。もちろん、妻としての準備も進めさせてもらう。どうだろうか? 私の決意を受け取ってくれぬか……。頼む。エルザ」
熱い台詞が、ルファードの唇から次々と溢れ出る。
彼はエルザのために動き、喋り、生きているかのように、その存在のすべてを肯定し、賛美する。
ルファードの愛のこもった言葉の数々に、祖国での冷遇や、妹たちの勝ち誇った顔が、まるで遠い前世の出来事のようにエルザの中で薄れていった。
だが、その時、ルファードの側近が慌てた様子でエルザの部屋の台所へと駆け込んできた。
「陛下、失礼いたします! エルザ様の祖国より、緊急の公文書が届いております。……どうやら、エルザ様が残されたノートを巡り、あちらの宮廷で重大な国際問題が発生している模様です」
その部下の言葉に、ルファードは冷ややかな声で答えた。
「わが妻とは関係ないことだ。向こうが、我が国まで来て、はいつくばってエルザへの謝罪をしたいと言うまで放っておけ。つまらん話を我が妻の耳に入れるな」
「も、申し訳ございません! 失礼いたしました!」
側近の部下は敬礼を返すと、部屋から退室していった。
その様子を固唾を飲んで見ていたエルザに、ルファードは安心するように手を握る。
「いちおう助けるつもりはある。私はエルザに嫌われたくないのだ。君のことだから、きっと助けたいと言い出すことは分かっている。そういう人だから私はぞっこんに惚れているのだ」
「へ、陛下……。そこまでわたくしのことを……ありがとうございます」
「ああ、でも、まだ知らないことだらけだ。私は君のことを全て知りたい。何から何まで全てだ。こう見ても独占欲は強い方だと思う」
「これから一緒に生活すれば、いろいろと分かることは増えていくかと思います。それにわたくしも陛下のことが全て知りたくなってまいりました」
エルザの返答に、ルファードの顔があからさまに赤く染まるのが見えた。
愛する人に自分を知りたいと言われ、彼はとても嬉しい様子だった。
「そ、そうか。皇帝としての政務の時間もあるが、それ以外はここですごさせてもらう。そ、それでよいか?」
「ええ、わたくしも陛下の妻となれるよう精いっぱい頑張らさせてもらいます」
「が、頑張らなくてもよいのだぞ。辛いことはしなくてもいい。エルザが楽しんでくれたら私はそれで幸せなのだ」
「陛下のために頑張るのが、わたくしの幸せだと思います。なので、頑張らさせてもらいますね」
その言葉を聞いたルファードは、エルザの身体をグッと抱きしめていた。
エルザはルファードに抱きしめられた感覚が、生まれて初めて感じる心地よさとなり、自分がこの抱きしめてくれている人の力になりたいと思っているということをさらに自覚した。
エルザがルファードの私邸に住むようになり数週間が経った。
ルファードが政務を行っている黒曜宮の広大な大広間には、張り詰めた沈黙が満ちていた。
高い天井に設置された魔導灯が白銀の冷たい光を放ち、磨き上げられた黒御影石の床に万華鏡のような陰影を落とす。
室内の空気は北方の冬を思わせるほどに冷え込み、微かに漂う針葉樹の香油の匂いが、その緊張感をいっそう引き締めさせていた。
「ルファード陛下、我が『ガルダニア王国』の親書に対する返答がこれでは、あまりに誠意が足りないのではないか」
大広間に据えられた長机の向こうで、ガルダニア王国の特使であるボロディン伯爵が声を荒らげる。
威厳を湛えた灰髪の老貴族は、分厚い毛皮の外套を揺らし、不快感を露わにしながら青磁の杯を机に叩きつけた。
ガシャン、と硬質な音が室内に響き渡る。
ガルダニア王国は、険しい山脈の奥深くに位置する閉鎖的な大国である。
彼らは独自の古い格式と文化を重んじ、他国との交渉においては極めて気難しいことで知られていた。
今回、帝国の国境画定に関する重要な同盟交渉のために黒曜宮へと来訪したのだが、言葉の細かなニュアンスや文化的な禁忌を巡り、先ほどから一触即発の空気が漂っているのだ。
場の空気の冷たさに帝国の通訳官が冷や汗を流しながら平伏する。
「も、申し訳ございません。我が方の言葉の翻訳において、非礼を働く意図は決して……」
「言い訳は不要だ! 我が国の伝統的な敬称を軽んじ、あまつさえ歓迎の宴でこのような、我が国の禁忌たる火を通しすぎた乾いた肉を出すとは、アルカディア帝国は我が国を見下しているとしか思えん!!」
ボロディン伯爵の背後に控える屈強な山岳騎士たちが、一斉に腰の剣の柄に手をかけた。
大広間の空気が、凍りつくような殺気に支配される。
帝国の近衛騎士たちもまた、主君を守るべく一歩前に出た。
成り行きを見守っているルファードの美しい紫水晶の瞳が、冷徹な光を帯びて細められる。
その圧倒的な存在感と威圧感だけで、並の人間なら気絶してしまいそうなほどの重圧がその場に満ちていく。
しかし、ここで剣を交えれば、両国の全面戦争は避けられない。
玉座に座るルファードの斜め後ろに控えていたエルザは、危機的状況を察し静かに拳を握りしめた。
祖国で孤独に各国の古典や文化を学び、暗号のような外交書簡を解読し続けてきた日々が、彼女の脳裏に鮮明に蘇る。
エルザは令嬢らしいたおやかな足取りで、様子を見守っているルファードと怒りを露わにしているボロディン伯爵の前に進み出た。
「無礼を承知で、発言の許しを求めます、ボロディン伯爵」
鈴の鳴るような、それでいて凛とした澄んだ声が、緊張に満ちた大広間に響く。
エルザの口から滑り出たのは、現在のガルダニア語ではない。
数百年前に失われたとされる、ガルダニア王国の『聖山古典宮廷語』だった。
完璧な発音と、最高位の王族に対してのみ使われる極めて洗練された抑揚が、老伯爵の鼓膜を叩く。
ボロディン伯爵は目を見開き、驚愕に息を呑んだ。
「な……、それは、我が国の聖なる言葉……! なぜ、帝国の令嬢がそれを操るのか」
エルザは優雅にドレスの裾を持ち上げ、完璧な礼を披露する。
小柄ながらすらりと細長い手足が、地味だけれど高級な布で仕立てられた群青色のドレスの陰から美しい軌跡を描いた。
「我が夫、ルファード陛下は、ガルダニア王国との同盟を何よりも重んじておいでです。先ほどの通訳の言葉は、我が国の現代語への翻訳の過程で生じた、未熟な語彙の選択によるもの。陛下の真意は、ガルダニアの気高い誇りを『聖山のごとき不変の友』として称えることにございます」
古典語による、淀みのない、臨機応変な弁明。
相手の自尊心を最大限に満たす完璧な表現に、ボロディン伯爵の顔から、みるみるうちに険しさが消えていく。
「お、おお……。我が国の古き言葉を、これほど美しく、正確に操る者が他国にいるとは。帝国に才人ありであるな!」
ボロディン伯爵の表情から険しさが消えたと悟ったエルザが次なる手を打つ。
「お褒め頂きましてありがとうございます。才人などと言われるほどではありません。まだまだ知らぬことばかりです。これからもボロディン伯爵にはいろいろとご教示を受けねばと思う次第でございます」
「ルファード陛下のご夫人がこのように賢婦だとは露知らず、文章の行き違いから無礼な物言いをしたことは恥じ入ることであった。陛下、申し訳ない謝罪をさせてもらう」
「食事の手配や通詞に不手際があったことはこちらの責任だ。ボロディン殿に非はないので謝罪は無用。その代わりと言ってはなんだが、口直しに我が妻が自ずから作った料理を食してみぬか? 貴殿も名の知れた美食家であろう?」
「ご夫人が自ずから作られたものですか?」
エルザの機転で、すっかりと落ち着いた様子を見せたボロディン伯爵にルファードが食事を勧めていた。
「わたくし、料理の歴史の方にも興味がありまして、美食家としても知られているホロディン伯爵に食して頂きたく、自ら食事を作らせてもらいました」
エルザはパチンと優雅に指を鳴らした。
大広間の重厚な扉が開き、純白の衣服をまとった給仕たちが、銀の大皿を恭しく運び込んでくる。
交渉が難航し、長丁場になった時に備え、エルザが事前に準備していたものだ
「美食家の伯爵のお口に合うよう、わたくしが黒曜宮の厨房にて、ガルダニアの伝統的な調理法を再現いたしました。どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」
銀のカバーが外された瞬間、大広間を一気に芳醇な香りが満たした。
運ばれたのは、雪解角鹿の背肉を、針葉樹の薪の煙でじっくりと燻し焼きにした逸品である。
表面は香ばしく燻り、肉の内部には濃厚な肉汁がたっぷりと閉じ込められている。
周囲を飾るのは、山岳地帯に自生する野草を模した、帝国特産の爽やかなハーブソース。
鼻腔を抜ける濃厚な燻煙の香りが、ボロディン伯爵の郷愁を激しく刺激する。
「おおぉ、これは我が国の伝統料理。昨今では我が国でも作れる者が減って滅多に口にすることができなくなりつつあったが……。まさか、帝国でこのような料理に出会えるとは!」
伯爵は震える手でナイフを入れ、肉を切り分けた。
咀嚼した瞬間、老貴族の目が驚愕に丸くなる。
舌の上でほどける肉の力強い弾力と、噛むたびに溢れ出す野性の芳醇な脂の甘み。
「こ、これは……! 我が故郷の、それも最高位の祭事でしか食すことのできない、失われた聖山焼きの味付けではないか! まさか、この味まで再現していたとは……!」
ボロディン伯爵は歓喜の声を上げ、取り憑かれたかのように肉を次々と口へ運んでいく。
先ほどまでの刺々しい空気は霧散し、大広間には美食への賛辞だけが満ちていた。
「素晴らしい! 翻訳の才、我が国の文化への深い理解、臨機応変な才覚、そしてこの至高の料理での歓待! ルファード陛下、貴殿はとんでもない至宝を妻に娶られた。このエルザ殿がおいでになるならば、我が国と帝国の同盟は、未来永劫、岩盤のごとく揺るぎないものと約束しよう! エルザ殿、今度はルファード陛下と我が国に参られよ! 新王にもこの伝統料理の食事を食べさせてやりたい!」
ボロディン伯爵は勢いよく立ち上がり、エルザに向かって深く頭を下げた。
これ以上ないほどの大絶賛である。
「我が夫であるルファード陛下がお許しして頂けるなら、ガルダニア王国に来訪し、新王陛下に料理を振る舞わせてもらい、聖山参りにも行きたいところですが……」
「ルファード陛下、どうだろうか?」
「エルザとの結婚式を挙げたら、聖山参りに行くのもよかろう。ボロディン伯爵、それでいいか?」
「承知した。親王陛下には新婚の夫婦が近いうちに聖山参りにやってくると伝えておこう」
「ああ、妻を連れ、必ず参る」
ルファードとボロディン伯爵のやり取りを見ていたエルザは静かに微笑み、知的な眼差しを和らげた。
※ ※ ※
国賓たちとの会談が完全に大成功で終わり、彼らが満足げに黒曜宮の客室へと引き上げていった後。
静まり返った大広間に、エルザとルファードの二人だけが残された。
「エルザ――!」
緊張の糸が切れた瞬間、背後から力強い腕がエルザの身体を強く抱きしめた。
ルファードの熱い体温が、ドレス越しに肌へと直接伝わってくる。
エルザの心臓が激しく跳ね上がり、呼吸が一瞬だけ浅くなった。
視界が、ルファードの漆黒の髪と、情熱に濡れた紫水晶の瞳だけで満たされていく。
「陛下……? ここは政務の場所ですよ……。名前で呼ぶのは私邸の方でと決めたではないですか」
「いいや、ルファードと呼んでくれ、私の愛しい妻よ」
ルファードはエルザの肩に顔を埋め、歓喜に震える声を漏らす。
その大きな手が、エルザの細い腰を愛おしげに包み込み、決して離さないという強い意志を示していた。
「君は本当に、最高の妻であり、我が国に必要な唯一無二の外交官だ。あの気難しいボロディンを、言葉と料理だけで完全に平伏させ、戦争の危機を回避するだけでなく、完璧な同盟まで勝ち取るなど……。私の想像を遥かに超える、希代の天才だ。私は神だけでなく、君という存在を生み出してくれた世界に感謝をせねばならない!」
「陛下、いつも言っておりますが、褒めすぎです」
「いいや、足りない。足りなさすぎる。君をほめたたえる言葉をもっと集めねばならない」
激賞するルファードは、エルザの身体を少し離し、その美しい顔立ちをじっと見つめる。
彼の瞳にあるのは、冷酷な皇帝の姿ではない。
ただ一人、愛する女性を崇拝し、溺愛する男の熱烈な光だった。
「君のその輝かしい知性、誰もが聞き惚れる美しい声、そして完璧な所作。そのすべてが愛おしくてたまらない。君が私の隣にいてくれることこそが、私の生涯で最大の幸福だ。エルザ、私は君を心身ともに愛している。君のその素晴らしい頭脳も、この小柄で可憐な身体も、すべてが私の宝物だ」
「ルファード、様……」
「やっと名前で呼んでくれた……。エルザが名前で! 明日は国民に休みを取らせるよう急いで高札を出さねばならぬな!」
「ルファード様、そのようなことをされては民が迷惑です。それに私邸の方ではちゃんと呼んでおりますよ」
「分かっているが、この場でも呼んで欲しいのだ。今日の一件で家臣たちもエルザの見る目を変えるであろうしな。エルザのことは私と同格、いやそれ以上だと認識させるには名を呼んでもらう方がいいのだ」
「それでは妻の領分を超えてしまいます。わたくしは陛下が居ればこその存在」
「陛下ではないと申したはず」
「ル、ルファード様が居ればこその存在です」
「私の方こそ、エルザが居ればこそ、存在を許されるのだ。エルザが居なければ、この世界に居る意味はない」
真っ直ぐに向けられる全肯定の言葉と、圧倒的な愛の熱量。
エルザの頬の温度が、不意に、沸騰しそうなほどに跳ね上がる。
祖国では、どんなに努力しても無能な雑用係として蔑まれ、その成果を搾取されるだけだった。
しかし、目の前の男性は、彼女の能力を正当に見出し、心から愛し、評価してくれている。
自分の能力を正当に愛してくれる彼に、エルザは確実に心を許し始めていた。
「わたくし、は……、ただ、自分の持てる力で、ルファード様のお役に立ちたかったのです」
エルザは少しだけはにかみながら、ルファードの胸元にそっと手を添えた。
「君のその優しさと芯の強さに、私は完全にぞっこんだ。これからも、君の望むすべての環境を用意しよう。君のためになら私はなんでもするつもりだ」
ルファードはエルザの亜麻色の髪に優しく口づけを落とし、蕩けるような笑顔を浮かべた。
エ ルザもまた、彼に対する絶対的な信頼と、深まる恋心を自覚し、静かに頷く。
その時、大広間の重厚な扉が慌ただしく開かれた。
「陛下、エルザ様! 緊急の報告がございます!」
側近の騎士が、顔を青白くさせて駆け込んでくる。
「以前報告させてもらったエルザ様の祖国が周辺諸国との間で致命的な国際摩擦が発生いたしました! さらに、困窮した王太子と実父が、エルザ様の外交能力を再び搾取せんとして、不穏な動きを見せております!」
緊迫した報告が室内に響き、エルザの喉が小さく鳴った。
※※※
執務室を兼ねたルファードの私邸には、緊迫した空気が満ちていた。
磨き上げられた黒檀の机の上には、何通もの赤い封蝋が押された報告書が乱雑に積み重なっている。
窓の外からは、初夏の瑞々しい青葉を揺らす風の音が微かに聞こえ、室内の重苦しさと鮮やかな対比を描き出していた。
エルザは、側近の騎士が大広間に持参していた羊皮紙の報告書を受け取り、その緻密な知性で内容を素早く精査していく。
指先が、文字を追うごとに僅かに強張る。
報告書には、彼女を無能と罵って追い出した祖国と実家である公爵家とエドワード王太子の凄惨な現状が克明に記されていた。
事の発端は、一月前に行われた周辺諸国との大規模な国際会議の場である。
エルザから外交辞書とレシピノートを奪い取った異母妹のセリアは、得意満面で王太子の隣に座り、通訳の座に就いた。
しかし、彼らはエルザが外交文章で使っていた高度な『外交隠語』の意味を、何一つ理解していなかったのだ。
会議の席上、同盟国である大国の王から提示された書簡には、エルザが過去に用いた『初冬の枯れ葉を愛でる』という格調高い比喩表現が含まれていた。
この言葉の真意は、先方が過去に乗り越えてきた数々の苦難に最上級の敬意を表し、これからの実りを共に待つという、極めて洗練された外交辞令に他ならない。
しかし、語学の表面だけをなぞったセリアは、これを直訳して叫んでしまう。
『落ちぶれた老兵には、我が国に差し出す価値のある財産など残されていない』
エドワード王太子もまた、その誤訳を真に受け、傲慢な態度で相手の王へ向けて暴言に近い言葉を言い放った。
そのせいで王の顔は一瞬で怒りに染まり、席を蹴って退室してしまったそうだ。
信奉する者が多かった大国の王への致命的な侮辱を受けたと判断した周辺諸国は、その日のうちに一斉に国交断絶を宣言した。
祖国へ向かう物資が凍結され、経済制裁という名の鋭い刃が、傲慢な王宮へと突き立てられた。
通貨の価値はまたたく間に暴落し、街には食料を求める民衆の怒号が響き渡っているそうだ。
完全なる国際孤立。
それが、エルザという唯一無二の外交の要を失った祖国の自業自得たる結末だった。
「エルザ、顔色が優れないな。見るなと言いたいところだったが、実家が絡んでいる以上、君の耳に入れないわけにはいかなかった」
「ご配慮ありがとうございます。何をどうしたら、このような事態に陥るのか不思議でなりません……。辞書にはきちんと但し書きを付けておいたのに……」
セリアの性格を危ぶみ、せめてもの助けとなればとやっておいたことすら、まともに利用されなかった事実を知り、エルザの心は張り裂けそうであった。
「兵を率いてあの馬鹿者どもを駆逐してよいか? あの者どもがいる限り、大事な大事なエルザの心に平静を与えてやれぬ気がしてきた。私はそのように暗く沈み込んだエルザの顔を見続けられるほど心臓は強くないのだ」
机の向こうから、ルファードが音もなく立ち上がる。
彼はエルザの細い肩に手を置き、そっと引き寄せる。
その手の圧倒的な熱量と、すべてを肯定してくれる紫水晶の瞳の輝きに、エルザの浅くなっていた呼吸が自然と落ち着きを取り戻していく。
「ご心配はご無用に。祖国はもう捨てたも同然ですので……。実家も父と妹がなんとか……乗り切ってくれるはずです」
エルザは姿勢を正し、淑女としての毅然とした微笑みを浮かべた。
「エルザは嘘を吐く時は私の目を見ないようだな……。最近、それが分かるようになってきたぞ」
「そ、そのようなことは……」
「いいや、私には分かる。ずっと一緒に居るからな。分かるようになってきた。ただ、実家を祖国を助けたいというわけではなく、巻き込まれた領民や国民がかわいそうだと感じているのだろう?」
追求するようなルファードの視線を受けたエルザは、その目を直視できずに視線を逸らしてしまった。
実家や祖国に対し、エルザの中でもう未練はない。
ただ、面倒ごとを押し付けてきてしまったという罪悪感があり、領民や国民たちには申し訳ないという気持ちがあって、いたたまれない状態だったのだ。
その自分の気持ちをルファードに見抜かれたことが、エルザにとって嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。
「ルファード様の目は誤魔化せませんね……。その通りです。わたくしは自分の幸せのため領民と国民を犠牲にしてしまった気がしております……」
「はぁー……。我が妻はなんと広い心を持った聖女なのだ……。このように気高き精神を持った者がこの世に存在しても許されるのであろうか……。いや、私が許す! 許そう! 許させてくれ!」
「ルファード様、落ち着いてください」
「おお、すまぬ。エルザがあまりにも尊いので、つい言葉が走ってしまった。だが、現実問題として私たちが勝手に手を貸すわけにはいかぬ」
「ええ、分かっております。わたくしはすでにアルカディア帝国皇帝の妻です。そのことは自覚しておりますのでご安心くださいませ」
「ただ、かの国へ支援物資くらいは送ってやれる。それでなんとか耐えてくれぬか?」
「そのようなことをしたら、各国からルファード様に非難が……」
「各国からの評判よりも、私は妻の里くらい護れる男でありたいのだ」
「ルファード様……ありがとうございます……」
ルファードの優しさに触れ、祖国の危機によって痛み出していた古傷の痛みは一気に和らいでいくのをエルザは感じていた。
そこへ、別の側近が更なる手紙を手にして入室してくる。
「陛下! エルザ様への手紙が届きました! こちらです!」
手紙の差出人は、エドワード王太子と、エルザの実父である公爵だった。
手紙を受け取ったルファードが、長い指先でその手紙を開き、視線を落とす。
手紙には、あろうことか、未だに上から目線の傲慢な命令が書き連ねられていた。
『無能なエルザ、お前のせいで外交に不手際が生じた。今すぐ我が国へ戻り、誤訳を修正して事態を収拾しろ。お前のこれまでの不手際を免じ、王太子の側室の末席に加えてやる。実家の危機を救うのは娘の義務だ。ゆめゆめ自分の立場を違えるなよ』
ドブのような醜悪な欲望が透けて見える文面。
それを読んだ瞬間、ルファードの美しい輪郭が、氷の彫刻のごとく冷酷に引き締まる。
彼の全身から放たれた凄まじい威圧感が、室内の空気を一瞬で希薄にさせた。
ルファードは、手にした手紙を容赦なく握りつぶす。
バリバリと不快な音を立てて、傲慢な親書は一瞬にしてただの肉片ならぬ、紙屑の塊へと成り果てた。
彼はそれを床へと容赦なく投げ捨てる。
「ふざけた真似を。我が妻であり、このアルカディア帝国の皇帝夫人であり、首席外交特使たる女性を、どこの馬の骨とも知れぬ無能どもが連れ戻せると思っているのか! 知性がないのにも程がある!」
ルファードの低い声には、絶対的な支配者としての威厳と、エルザを害する者への底知れない冷徹さが宿っていた。
彼はエルザの身体を再び抱きしめ、その亜麻色の髪に何度も熱い口づけを落とす。
「エルザ、安心するといい。私は決めた。民は必ず助ける。だが、王族や貴族の連中は彼らがどれほど困窮しようとも、我が国での謁見を許すつもりは毛頭ない。君を蔑み、その知性を搾取しようとした報いだ。一生、暗闇の中で泥水をすすらせておけばいい」
ルファードの全肯定の言葉が、エルザの耳元を心地よく震わせる。
「ルファード様、ありがとうございます。その言葉を聞けて安堵いたしました。これよりは帝国皇帝夫人としてより一層、仕事に精励いたします」
エルザは、彼の広い胸に身を預けながら、静かに目を伏せた。
家族を一番大切に思って搾取に甘んじていた過去の自分は、もうここにはいない。
搾取し、虐げてきた人たちのために流す涙など、エルザの中に一滴たりとも残されてはいなかった。
※ ※ ※
実父からの手紙が来て一か月後、王宮の南側に位置する、陽光が燦々と降り注ぐ大テラスに二人はいた。
大理石の欄干には、大輪の紅薔薇が咲き乱れ、甘やかな香りが初夏の風に乗って鼻腔を満たしている。
遠くには、美しく整備された白亜の庭園と、輝く噴水が見渡せた。
エルザは、テラスに置かれた白磁のテーブルの上に、自ら厨房で腕を振るった極上のデザートを並べていく。
ガラスの器の中で黄金色に輝くのは、帝国特産の蜜桃を高級な白ワインと数種のスパイスでじっくりと煮込んだコンポート。
その上には、冷たく冷やした濃厚な山羊乳のバニラアイスクリームが添えられ、仕上げに極上の蜂蜜が美しく回し掛けられている。
ひんやりとした銀のスプーンが、太陽の光を反射してきらきらと輝く。
「ルファード様、公務の方、お疲れ様でした。お口に合うと良いのですが」
エルザは、スプーンを添えてデザートをルファードの前へと差し出した。
公務を終えたばかりのルファードは、エルザの姿を見た瞬間、それまでの皇帝としての冷徹な仮面を完全に脱ぎ捨てた。
蕩けるような、極上の笑みがその美貌に浮かぶ。
「君が私のために作ってくれたデザートか。これ以上の贅沢はこの世にないな」
ルファードはスプーンを手に取り、桃とアイスクリームを静かに口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、彼の紫水晶の瞳が驚嘆にみずみずしく見開かれる。
爽やかな白ワインの酸味と、桃の圧倒的な甘み、そして濃厚なアイスクリームのコクが、口の中で完璧な調和を奏でて溶けていく。
「美味しい……。外の暑さを一瞬で忘れさせるほど、瑞々しくて奥深い味わいだ。君の料理は、私の胃袋だけでなく、魂まで完全に支配してしまう」
ルファードはスプーンを置くと、立ち上がり、エルザの手をそっと包み込んだ。
手袋越しでも伝わる彼の温もりに、エルザの心臓が甘く弾む。
「エルザ、君は本当に素晴らしい。あの無能な祖国の王族と貴族どもが完全に破滅し、国際社会からの要請で我が国の属国となったことで、君の偉大さは歴史に刻まれるだろう。だが、私にとっては、君がこうして私の隣で微笑んでくれていることこそが、何よりも尊いということは忘れないでいて欲しい」
ルファードはエルザの腰を引き寄せ、その可憐な身体を完全に腕の中へと収めた。
彼の瞳には、狂おしいほどの一途さと、深い愛の光だけが宿っている。
エルザは、その圧倒的な溺愛を受け止めながら、ルファードの胸元にそっと顔を寄せた。
かつて地味でかわいそうな雑用係としてすべてを奪われた令嬢は、今、世界で最も気高く、最も愛される女性としてここに存在している。
胸の奥を満たす確かな幸福感が、彼女の知的な眼差しをいっそう美しく輝かせた。
「はい、ルファード様。私、もうかわいそうなのをやめさせてもらいましたので。これからは貴方と共に、この素晴らしい国で、どこまでも幸せに暮らしますわ!」
エルザの唇から、小気味よい宣言と、極上の微笑みがこぼれ出た。
咲き誇る薔薇の香りに包まれながら、二人は互いの存在を確かめ合うように、いつまでも強く抱き合い続けるのだった。
楽しんでもらえましたでしょうか? もう少し書き込めるところはあるかなと思いつつも、公開させてもらいました。




