第9話「匿名の予備監査」
翌朝。
牢番の足音は、いつも同じ間隔で近づいてくる。革靴の右足だけが微かに引きずるような不均等なリズム。補修痕のある靴底が、湿った石畳に独特の摩擦音を立てる。
ヴィオレッタはその足音を数えていた。
二十四歩。角を曲がって十二歩。鉄扉の前で二歩分の停止。鍵を探す衣擦れ。
規則正しい。この男は小心者だ。小心者は習慣を変えない。習慣を変えない人間は、予測できる。予測できる人間は──使える。
鉄扉が軋んだ。
薄暗い通路から差す光の中に、牢番の輪郭が浮かんだ。痩せた中年の男。目の下に深い隈。そして──右手の指先に、今日も墨の汚れ。
「朝の検分だ」
声から威圧は消えていた。数日前とは別人のように、牢番は格子の前で足を止めると、鍵束を握ったまま視線を落とした。ヴィオレッタの顔を見ない。もう見られない。あの夜、借金の全てを言い当てられてから、この男は彼女の目を直視できなくなっていた。
ヴィオレッタは壁にもたれたまま、低く言った。
「もう一つ、頼まれてくれるかしら」
牢番の肩が強張った。だが逆らう気配はなかった。逆らえる段階はとうに過ぎている。
完全な沈黙。牢番の革靴が、石畳の上で僅かに軋んだ。
ヴィオレッタは手枷の鎖越しに、懐から一枚の紙片を取り出した。通信用ではない。夜の間に、壁の染みから削り取った石粉と、配膳の粥に混ぜられていた微量の鉄分を指先で練り合わせて作った即席の墨で書いた、手書きの文書。
「これを届けてほしい場所がある」
牢番は紙片を見つめた。
「国家魔導銀行。本館二階の監査部。窓口ではなく、東棟の個人執務室が並ぶ廊下の三番目の部屋。朝の鐘が七つ鳴る前に、扉の下の隙間から差し入れるだけでいい」
「銀行だと……? 馬鹿言うな。あそこには衛兵が──」
「本館の正面からは入らないわ。あなた、賭場に通うとき三番街区の地下水路を使っているでしょう。あの水路は銀行の東棟裏の排水溝と繋がっている。設計したのは私よ」
牢番の目が見開かれた。
「賭場に行くのと同じ道を、途中で一本右に曲がるだけ。衛兵の巡回は四半刻ごと。あなたの足なら十分に間に合う」
ヴィオレッタはもう一枚、紙片を出した。こちらは数字と数式がびっしりと書き込まれている。魔導格子の明滅が照らす僅かな周期光と、通路から漏れる松明の残り火だけを頼りに、手枷の隙間で指先の感覚を研ぎ澄ませて書いた文字だった。所々に滲みがあるが、数式の構造だけは一切の乱れがない。
「封筒を一つ用意して、二枚とも入れなさい。あなたの詰所にある備品で構わない。宛名は書かないで。匿名のまま届ける。それだけ」
「……何が書いてある」
「あなたが知る必要はないわ」
冷たく、しかし明瞭に。
「知らないほうが安全よ、看守さん。あなたはただ、紙を運んだだけ。仮に後から問われても、中身は読んでいない。それで通る」
牢番は紙片を見つめたまま動かない。
ヴィオレッタは何も足さなかった。
飴は最初に渡してある。賭場が消えれば借用書も消える。それは第一夜に伝えた。今さら繰り返す必要はない。この男は覚えている。忘れられるような額ではないのだから。
牢番の手が、鉄格子の隙間から紙片を受け取った。指先が震えていた──が、握る力は強かった。
「……三番目の部屋だな」
「ええ。朝の鐘が七つ鳴る前に」
牢番は紙片を懐に押し込み、背を向けた。足音が遠ざかる。いつもより二歩分速い。
ヴィオレッタは壁にもたれ直した。
手枷が冷たい。石壁が冷たい。この独房の中には、温度と湿度と闇しかない。
だが今、この牢獄から一本の糸が帝都の心臓部へ向かって伸び始めた。
回線は外から。楔は中から。
*
国家魔導銀行。東棟二階。
朝の鐘が六つ鳴り終わった頃、監査部の廊下はまだ薄暗かった。
三番目の執務室の主は、同僚より常に一刻早く出勤する男だった。名をエーリヒ・ヴォルフという。二十代の半ば。監査部に配属されて三年。昇進とは無縁だが、勤務態度だけは部内で誰にも文句をつけられたことがない。
その朝、エーリヒは自分の執務室の扉を開けた瞬間に足を止めた。
扉の下の隙間から差し込まれた、薄い封筒。宛名はない。封蝋もない。
廊下を見回した。誰もいない。清掃係すらまだ来ていない時間帯だ。
封筒を拾い上げた。軽い。中に紙が二枚。
一枚目は、短い文章だった。
『祝福貨基金・第七特別口座群の四半期残高報告に、以下の照合式を適用されたし。全出納を正規仕様のカテゴリ別に再集計すれば、公表残高との間に無視できない乖離が出るはずである。二枚目に照合用の基準値を添付する。なお、本書の送り主について詮索する必要はない』
エーリヒは二枚目を見た。数式と数列が、見たこともない密度で紙面を埋め尽くしていた。
いたずらか。あるいは内部告発の類いか。
匿名の通報は、監査官という職業の宿命のようなものだ。大抵は私怨や逆恨みに基づく出鱈目で、検証する価値もない。
だが、エーリヒはこの二枚目の数式を一目見て、その考えを捨てた。
これは出鱈目を書ける人間の筆致ではなかった。
祝福貨の決済カテゴリを律する仕様体系──その根幹にある分類規則を完全に理解した上で、そこから逆算的に「正規仕様に基づく残高」を導出する計算式が組まれている。監査部の誰にも書けない。エーリヒ自身にも書けない。
これを書けるのは、仕様そのものを設計した人間だけだ。
エーリヒは封筒を机に置いた。
椅子に座り、端末を起動した。指は動いているが、思考は別のところにあった。第七特別口座群。皇太子殿下の名を冠する慈善基金の管理口座。帝国中の「善政配信」で集められた祝福貨が流入し、公表されている残高は常に潤沢で、会計報告も形式上は完璧に整えられている。
だが、形式上の完璧さこそが、監査官の勘を最も刺激するものだ。
エーリヒは数式を端末に入力し始めた。
一行目。基金全体の受入総額を、赤色(娯楽カテゴリ)と青色(公的カテゴリ)に正規仕様で再分離する。
二行目。各カテゴリの出納を時系列で再集計し、公表残高と照合する。
三行目。照合基準値を適用し、誤差を抽出。
端末の表示盤に、数字が並んでいく。
エーリヒの指が止まった。
照合結果の誤差欄に表示された数字を、彼は三度読み直した。桁を数え直した。端末の計算精度を確認し、もう一度最初から入力し直した。
結果は変わらなかった。
九桁。
公表残高と正規仕様に基づく再計算値の間に、九桁の乖離。
億の単位。
エーリヒは椅子の背にもたれた。天井を見上げた。東棟の執務室は天井が低く、朝日はまだ届かない。薄暗い部屋の中で、端末の表示盤だけが青白く光っている。
その光に照らされた彼の顔は、紙のように白かった。
「……嘘だろう」
声は、自分の耳にだけ届く音量だった。
もう一度、計算した。別の角度から。別の四半期のデータを引き出して。
結果は悪化した。乖離は九桁では収まらなかった。四半期を三期分遡ると、累積の不整合はさらに膨らんだ。
これは帳簿の転記ミスではない。端末の丸め誤差でもない。
カテゴリ間の資金が、仕様上ありえない経路で移動している。赤色で受け入れた祝福貨が、帳簿上は青色として処理され、その青色がさらに別の口座へ流れ、最終的に──消えている。
エーリヒは端末の表示を消した。
封筒を引き出しの奥に押し込み、鍵をかけた。
立ち上がった。廊下に出た。足早に、しかし走らずに。
監査部長の執務室は、東棟の突き当たりにある。まだ出勤していない時間だが、部長は隣接する仮眠室に泊まり込むことが多い。
扉を叩いた。三度。
「……誰だ。まだ鐘が七つ前──」
「ヴォルフです。至急の件で」
扉が開いた。監査部長──恰幅の良い中年の男が、寝起きの不機嫌を隠さずにエーリヒを見た。
「第七特別口座群の四半期報告に、重大な不整合を発見しました」
部長の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「第七……皇太子殿下の慈善基金か」
「はい。正規仕様のカテゴリ分類で再集計すると、公表残高との間に九桁以上の──」
「やめろ」
短い。静かな。しかし有無を言わせない声だった。
エーリヒは口を閉じた。
部長は仮眠室の扉を閉め、廊下を見回した。誰もいないことを確認してから、低い声で言った。
「ヴォルフ。お前、あの基金の管理責任者が誰だか知っているな」
「存じています。ですが、監査規程の第三条には──」
「規程の話をしているんじゃない」
部長の声は怒気を含んでいなかった。むしろ、それは──忠告だった。
「殿下の案件に首を突っ込む監査官が、過去に何人いたか知っているか」
沈黙。
「知らないなら教えてやる。三人だ。一人は地方の末端支局に飛ばされた。一人は自主退職した。もう一人は──いなくなった」
部長は眼鏡を直した。
「いいか、ヴォルフ。お前はまだ若い。出世がしたいわけじゃなくても、消えたくもないだろう。その照合結果がどこから来たものだろうと、なかったことにしろ。それがお前のためだ」
エーリヒは何も言わなかった。
部長はそれを同意と受け取ったのか、頷いて仮眠室に戻った。
廊下に一人残されたエーリヒは、しばらく動かなかった。
やがて、自分の執務室に戻った。椅子に座り、端末を見つめた。
表示は消してある。だが、先ほど入力した照合式のログは──端末のシステム内に残っている。
監査端末の仕様上、一度実行された照合計算は、操作者が手動で削除しない限り、「照合履歴」として九十日間保持される。これは不正防止のための基本仕様だ。
エーリヒはそのログを、消さなかった。
消す理由がなかった。彼はただ、匿名の通報に基づいて通常業務の範囲内で照合を実施しただけだ。それは監査官の職務である。職務の記録を抹消する理由など、ない。
ログは端末の中で静かに呼吸を始めた。
国家魔導銀行のシステムにおいて、照合履歴に一定以上の乖離が検出されたまま未解決で放置されると、七十二時間後に自動で「要再精査」のフラグが内部処理に上がる。
エーリヒはそれを知っていた。
知っていて、ログを消さなかった。
*
日が沈み、また昇った。
それが何度か繰り返された。
地下牢には昼も夜もない。だがヴィオレッタは、魔導格子の明滅周期の微細な変動から、外の時刻をおおよそ逆算していた。
3──2──3──4──2。
基本パターンは変わらない。だが、ここ数日、4と2の間に極めて短い──通常の周期には存在しない瞬きが混じるようになった。
通信負荷の変化。
帝都の決済トラフィックに、何かが起きている。目に見える変化ではない。嵐の前に気圧が僅かに下がるような、数値上の揺らぎ。
ヴィオレッタはそれを読んだ。
銀行のシステムが、どこかで引っかかっている。照合履歴の異常検知か、あるいはそれに近い何かが、決済処理の負荷パターンを変えた。
楔は刺さった。
まだ浅い。指先ほどの深さでしかない。だが、一度システムに打ち込まれた楔は、人間の手で抜くことはできても、抜いた痕跡までは消せない。それが、仕様というものだ。
ヴィオレッタは紙片を確認した。帯域はこの数日でさらに回復している。ミレイユから新たな受信はない。それでいい。今は沈黙が正しい。余計な通信は不要だ。
懐に紙片を戻し、目を閉じた。
残り時間を計算する。格子の周期と配膳の回数。あと二度寝れば──
足音。
ヴィオレッタは目を開けた。
牢番ではなかった。靴音が違う。硬い革底。規則正しい、訓練された歩幅。二人分。
独房の前で止まった。
鉄扉が開く音ではなく、鍵穴に差し込まれる重い金属音。正規の手続きで開けられる扉。
光が差し込んだ。松明ではない。魔導灯。白く、冷たい光。
二人の衛兵が立っていた。その背後に、法衣を纏った書記官が一人。手に羊皮紙の巻物を持っている。
書記官が巻物を開き、読み上げた。抑揚のない, 儀礼的な声。
「国家重犯罪被告人、ヴィオレッタ・エーデルシュタイン。帝国最高法務院の命により、明朝第一刻をもって最終公開審理への出廷を命ずる。なお、本審理は公開処刑に先立つ最終弁論の機会として──」
言葉が続いていたが、ヴィオレッタの耳にはもう届いていなかった。
最終公開審理。明朝。
予定通りだった。
ヴィオレッタは衛兵と書記官を見上げた。手枷の鎖が床に垂れ、魔導灯の白い光が彼女のアメジストの瞳に反射した。
その瞳に、恐怖はなかった。
「さあ──」
声は低く、独房の壁に染み入るほど静かだった。
「公開処刑の予行演習と行きましょうか」
書記官のペンが止まった。衛兵が互いを見た。
独房の闇の中で、ヴィオレッタの口元だけが、薄く弧を描いていた。




