第8話「地方塔の応答」
街道を外れたのは、帝都の城壁が朝靄の向こうに沈んでからすぐだった。
バルトロメウスが先導する獣道は、正規の輸送路を避けて丘陵地帯の裏側を縫うように伸びている。ミレイユは右腕を吊ったまま、老技師の広い背中を追った。
枯れ草を踏む音だけが、二人の間を埋めていた。
「爺さん」
バルトロメウスが足を止めずに言った。
「ジーベルトってのはな、俺より偏屈だ」
唐突な忠告だった。ミレイユは左手で枝を払いながら、半歩遅れてついていく。
「偏屈、ですか」
「四十年前、帝都の第一期中継塔を一緒に建てた。あの頃から他人の話を聞かん男だった。自分の増幅器の調整が終わるまで、飯も食わん」
それは偏屈というより職人だ、とミレイユは思ったが、口には出さなかった。
「あんたの名前を出しても動かんぞ」
「……分かっています」
「エーデルシュタインの名前を出したら、たぶん殴られる」
ミレイユの足が一瞬止まった。
バルトロメウスは振り返らない。枯れ枝を杖代わりにしながら、淡々と続けた。
「あの女の設計仕様書が現場に降りてきた時、ジーベルトは三日間飯を食わなかった。要求スペックが高すぎて、既存の増幅器じゃ物理的に追いつかなかったからだ。結局、中継器の結晶配列を全部組み直した。睡眠四時間を二週間。完成した時には十キロ痩せていた」
「……」
「それを五回やらされた。五つの地方塔で、全部」
ミレイユは黙って聞いた。
右腕の鈍痛が、歩くたびに肩から首へ響く。だが足は止めない。
「じゃあ、なぜ――」
「協力すると思うか?」
バルトロメウスが先回りした。
「するさ。あの爺さんはな、自分が組み直した結晶配列が、設計通りに十年間一度も落ちなかったことを――たぶん、墓まで自慢するつもりでいる」
丘の稜線を越えた。
風が変わった。乾いた土の匂いから、微かに金属と魔力残滓の焦げた匂いが混じる。中継塔の近くに来ている証拠だ。
北から第七中継点。
帝都の主幹回線から独立した、災害用バックアップの中継塔。議会では「辺境の無駄遣い」と叩かれ、予算審議のたびに廃止が議論された設備。
それを設計し、建設を押し通したのが、ヴィオレッタ・エーデルシュタインだった。
*
中継塔は、丘陵の窪地に建っていた。
高さは帝都の主幹塔の三分の一程度。石造りの基部に、風化した魔導刻印が蔦に半ば覆われている。稼働中の気配はない。静かに眠っている、とミレイユは思った。
塔の脇に、掘っ立て小屋がある。屋根の継ぎ目から薄い煙が上がっていた。
バルトロメウスが小屋の戸を三回叩いた。間を空けて、もう二回。
返事はなかった。
「ジーベルト。俺だ」
沈黙。
「バルトロメウスだ。四十年前に第一期の増幅器を――」
戸が内側から開いた。隙間から、白い顎髭と、血走った――いや、充血した片目が覗いた。
「聞こえとる。耳はまだ死んどらん」
声は低く、砂利を踏むような響きだった。
ジーベルトは戸を開けたまま、バルトロメウスの背後に立つミレイユを見た。右腕を吊った小柄な娘。視線が一瞬、懐の膨らみ――防護布に包まれた記録結晶――に触れて、離れた。
「誰だ」
「帝都アーカイブ局の保全技師。名はミレイユ・フォスキーア」
バルトロメウスが答えた。ジーベルトの目が細くなる。
「アーカイブ局。帝都のお上品な連中か」
「下級です」
ミレイユが自分で言った。
「お上品ではないです」
ジーベルトは鼻を鳴らした。それが笑いなのか軽蔑なのかは判別がつかなかった。
「で、何の用だ。まさか保守点検に来たとは言わんだろう」
バルトロメウスがミレイユを見た。ここからはお前の仕事だ、と目が言っている。
ミレイユは左手で懐から一枚の紙片を取り出した。ヴィオレッタからの指令文ではない。第三枝の保全庫から回収したデータの一部――設備投資の設計図面に記された、署名と認証印の写し。
ジーベルトの前に、それを広げた。
「この塔の設計仕様書に署名した人物から、起動命令が出ています」
老技師の視線が紙片に落ちた。
一秒。二秒。三秒。
ジーベルトの充血した目が、署名の筆跡をなぞっていた。指が微かに動いた。記憶と照合しているのだ。四十年間、この塔の保守を続けてきた男の指が。
「……あのクソ女か」
吐き捨てるように、言った。
ミレイユは答えなかった。
ジーベルトが顔を上げた。その目には怒りがあった。ただし、それはミレイユに向けられたものではなかった。
「七年前だ」
老技師は戸口に寄りかかった。
「この塔の増幅結晶が劣化した時、仕様書通りの交換部品を帝都に発注した。届いたのは三ヶ月後。しかも規格が二世代古い。動かねえ。報告書を出したら、返ってきたのは『予算超過のため現行品で対応せよ』だ」
「……」
「俺は自分で結晶を削った。二週間かけて。仕様書の要求値を満たすために、手持ちの素材から逆算して」
ジーベルトの指が、紙片の署名を叩いた。
「この女の仕様書は、いつもそうだ。要求だけは一流。現場の都合なんぞ知ったことじゃない。こっちが血を吐こうが、数字が合うまで許さん」
バルトロメウスが小さく頷いた。同じ経験をした者の、無言の共感だった。
「だがな」
ジーベルトの声が、わずかに変わった。
「三年前の大氾濫。帝都の主幹回線が全部落ちた夜に、この塔だけが動いた」
ミレイユの呼吸が、一拍だけ浅くなった。
「俺が二週間かけて削った結晶が、仕様書通りの出力を叩き出した。この塔から出した救難信号が、北部三村の避難誘導に間に合った。二百十七人」
数字を、老技師は正確に覚えていた。
「あの女の仕様書は、血を吐くほど厳しい。だが――仕様通りに動いた時、死人は出ない」
沈黙が落ちた。
丘を渡る風が、蔦に覆われた中継塔の魔導刻印を揺らした。
ジーベルトが紙片をミレイユに突き返した。
「で、何をしろと言っている。あのクソ女は」
*
ミレイユは、手短に説明した。
帝都の主幹回線は使えない。皇太子派の検閲が敷かれている。証拠を全国に届けるためには、帝都の外に独立した配信経路を確保する必要がある。
この塔を含む地方中継塔のネットワークを、災害用バックアップとして設計された本来の仕様で起動する。
「……保守鍵が要るな」
ジーベルトが言った。
「はい。それと、各塔の障害記録を」
「障害記録?」
「皇太子派が過去に行った回線の不正操作――帯域の流用や優先度の書き換え――が、各塔の障害ログに残っているはずです。それ自体が証拠になります」
ジーベルトの目が、初めてミレイユを正面から見た。
技師の目だった。言葉の意味を、仕様レベルで理解した者の目。
「……なるほどな。帝都で消しても、末端の障害ログまでは手が回らん、か」
「はい。地方塔の障害記録は、帝都のアーカイブ局を経由せず、各塔のローカルストレージに直接書き込まれる設計です。これも――」
「あのクソ女の仕様だろう。知っとる」
ジーベルトは掘っ立て小屋の奥に消えた。
がさごそと何かを探る音。木箱を開ける音。金属が触れ合う、乾いた音。
戻ってきた老技師の手には、革紐で束ねられた小さな結晶棒があった。保守鍵だ。
「第七中継点の保守鍵。ただし、起動には俺の生体認証がいる。鍵だけ持っていっても無駄だ」
ジーベルトはそう言って、自ら塔の方へ歩き出した。
「……来るんですか」
「塔の中に入らんと、障害ログの抽出もできん。お前さん、この塔の保守パネルの配置を知っとるのか」
ミレイユは首を横に振った。
「なら俺が要る。行くぞ」
バルトロメウスが後ろから声をかけた。
「ジーベルト。他の塔にも連絡を取れるか。東部バイパスの増幅塔、それから――」
「分かっとる」
ジーベルトは振り返らなかった。
「この回線で繋がる保守技師は、俺を含めて六人いる。全員、あのクソ女に血を吐かされた連中だ」
*
第七中継塔の内部は、埃と魔力残滓の匂いが積み重なっていた。
ジーベルトが保守鍵を基部の認証盤に差し込み、左手を添えた。生体認証の魔力波が淡く光る。
重い起動音。石壁の内側に埋め込まれた魔導刻印が、下から順に青白く灯っていく。
十年間の沈黙を破って、塔が息を吹き返していた。
ミレイユは左手で保守パネルを操作し、ジーベルトの指示に従って障害ログの抽出を始めた。右腕は吊ったまま、体を斜めにしてパネルに向かう。指先は慣れた動きで結晶記録盤を走査していく。
「……ある」
画面に並ぶ障害ログの列。その中に、不自然な帯域占有の記録が混じっていた。日付は三年前。ちょうど、皇太子派の「善政配信」が始まった時期と一致する。
「帝都からの優先度書き換え命令。正規の保守プロトコルを経由していない。権限コードは――」
「皇室儀礼系の暫定コードだな」
ジーベルトが画面を覗き込んだ。
「こいつは保守の現場じゃ見たことがない。帝都の連中が勝手にぶち込んだやつだ」
「記録しました」
ミレイユは結晶記録盤にログを転写した。手が震えそうになるのを、パネルの縁を握ることで抑えた。
一つ一つは小さなログだ。だが積み上がれば、帝都の主幹回線が「誰に」「どう」不正利用されていたかの地図になる。
ジーベルトは障害ログの抽出を見届けると、塔の通信パネルに向かった。
「繋ぐぞ。保守回線だから帝都の検閲は通らん。ただし帯域は細い。音声は無理だ。符号通信のみ」
保守回線の符号が、塔から放射された。
最初の応答は、三分後に来た。
東部バイパスの増幅塔。保守技師の名はグレーテ。ジーベルトが符号を読み上げる。
「『何事だ。定期保守は来月だろう。ジーベルト、まさかボケたか』」
バルトロメウスが渋い顔をした。
ジーベルトは構わず返信を打った。内容は簡潔だった。エーデルシュタインの設計者署名。起動命令。障害ログの抽出と保守鍵の共有要請。
応答は、今度は二十秒で返ってきた。
「『エーデルシュタイン。あの理不尽女がまだ生きていたのか。増幅塔の仕様書に"想定される劣化パターン47種"とか書いてあったせいで、うちの後輩が三人辞めた。二度と仕様書を送ってくるな――障害ログは出す。十分待て』」
ミレイユは、何と言えばいいか分からなかった。
二番目の応答。南西第三分岐点。保守技師ヴェルナー。
「『了解。保守鍵を共有する。ただし条件がある。この件が終わったら、あの女に"現場の技師は消耗品じゃない"と伝えろ。以上』」
三番目。北東連絡塔。応答者名なし。
「『保守鍵送信する。障害ログ、五年分ある。重い。分割送信になる。――あと一つ。うちの塔が動いたのは、六年前の冬の嵐の時だけだ。あの時、隣村への避難経路を中継できたのは、この塔だけだった。あの女に借りがある。嫌だが、ある。返す』」
四番目の応答は、遅かった。
七分間、保守回線は沈黙した。ジーベルトが再送を打とうとした時、符号が届いた。
西方第二中継点。保守技師カスパル。
ジーベルト의指が、符号を読み取る途中で止まった。
「……何と」
ミレイユが訊いた。
老技師は、一度目を閉じた。開いて、読み上げた。
「『塔の状態を確認した。起動可能。だが、俺は家族がいる。皇太子派に目をつけられたら終わりだ。――保守鍵は出す。障害ログも出す。ただし、俺の名前は記録に残すな。それが条件だ』」
掘っ立て小屋の中が、一瞬しんと静まった。
ミレイユは頷いた。声には出さず、符号で返した。
『了解。匿名処理する。感謝する』
五番目。最後の応答。
それは増幅塔グレーテからの追加通信だった。
『言い忘れた。東部バイパスの障害ログを見直したら、消し損ないの送金ルーティングが出てきた。帝都経由の祝福貨トラフィックが、うちの増幅塔を迂回路に使っていた痕跡がある。日付は善政配信の前後に集中している。――正規の保守では絶対にこんな経路は通らん。追加で送る』
ミレイユの左手が、結晶記録盤の上で止まった。
送金ルーティング。祝福貨のトラフィック。善政配信の前後。
それは、波形照合で確定させた映像捏造の証拠と、同じ時期に同じ回線上で起きていた異常だった。映像と金の流れが、同時に不正操作されていた。
パズルの一片が、想定より大きかった。
「……受信します。全部」
ミレイユの声は低く、硬かった。
データが流れ込んでくる。五つの塔から、それぞれの保守鍵と障害ログが、細い保守回線を通じて第七中継点に集約されていく。
ジーベルトは通信パネルの前に座ったまま、流れ込む符号を無言で見つめていた。
「……あの女は」
老技師が、誰にともなく呟いた。
「この塔を建てた時、地元の議員どもに何と言われたか知っとるか」
ミレイユは首を振った。
「『辺境に金を捨てるのか。その予算があれば帝都にもう一つ噴水が建つ』だと」
バルトロメウスが、喉の奥で笑った。
「噴水か」
「噴水だ。――で、あの女は何と返したと思う」
「……想像がつきます」
「『噴水は人を助けません。通信塔は助けます。以上です』。それだけ言って、会議室から出ていった。反論も説得もなし。翌週には建設の認可を別ルートで通していた」
ジーベルトは通信パネルを叩いた。苛立ちなのか、愛着なのか、区別のつかない力加減で。
「あの女の性格は最悪だ。現場を消耗品扱いする。感謝の一言もない。口を開けば仕様書の数字。人間じゃなくて回路図と話しているような女だ」
保守回線に、まだデータが流れている。五つの塔、六人の技師。全員が、応答した。
「――だが、仕様書通りに動いた時、死人は出ない。それだけは本当だ」
ジーベルトは、それ以上何も言わなかった。
*
全てのデータ受信が完了したのは、日が傾き始めた頃だった。
ミレイユは受信した保守鍵と障害ログの整合性を左手で確認し、結晶記録盤に統合した。記録結晶は二つになった。一つは波形照合の物理ログ。もう一つは、五つの地方塔から集まった保守鍵群と障害記録。
どちらも防護布で包み、懐の別々の位置に収めた。
「ジーベルトさん」
ミレイユは老技師に向き直った。
「これらの塔を使って、帝都の主幹回線を経由せずに全国へ信号を送ることは――技術的に可能ですか」
ジーベルトは顎髭を引いた。
「五つじゃ足りん。地方塔は分散配置だから、中継のバケツリレーで全国をカバーするには最低でも八つ要る。だが――」
老技師は保守パネルの地図表示を指差した。
「この五つが繋がれば、残りの三つは自動で起きる。災害時自動起動の連鎖設定が組んである」
「――五基揃えば、連鎖起動が」
「そうだ。一定数の塔が同時にアクティブになると、残りの塔が『災害発生』と判断して自動で起動する。閾値は――八つのうち五つ。あの女が設計した安全仕様だ」
五つ。今、まさに五つの塔が応答している。
ミレイユは声を出さなかった。ただ、左手を胸の前で握った。
ヴィオレッタは知っていたのだ。「北から第七中継点、東部バイパスの増幅塔」と名指しした時点で。五つ集まれば、残りは仕様が勝手に起こす。
「起動させますか」
ミレイユが訊いた。
ジーベルトは通信パネルに手を置いた。
「あのクソ女の設計した安全仕様を、あのクソ女を助けるために使うのか」
「……はい」
老技師は三秒間、黙った。
そして保守鍵を回した。
塔の魔導刻印が、足元から頂上まで一斉に輝いた。同時に、保守回線を通じて五つの塔に同期信号が送られる。
応答。応答。応答。応答。応答。
五つの光が、帝国の地図上で同時に灯った。
そして――六つ目が灯った。七つ目。八つ目。
連鎖起動。災害時自動起動設定が、設計通りに機能した。
パネルの地図表示に、八つの青い光点が並んだ。帝都を囲むように。帝都の検閲が届かない場所に。
帝国全土を覆う、独立したバックアップ回線。
ミレイユは通信紙片を懐から取り出した。帯域はまだ完全には回復していない。だが、これだけは今送らなければならなかった。
左手で、短く打った。
『地方塔、八基。全基応答。保守鍵と障害ログを確保。連鎖起動、完了。回線は生きています』
*
地下牢の闇の中で、ヴィオレッタの手首に巻かれた紙片が、微かに熱を帯びた。
受信。
手枷の隙間から、歯で帯端を引き、紙片を広げる。魔導格子の明滅――3、2、3――が照らす薄明かりの中で、文字を読んだ。
八基。全基応答。連鎖起動完了。
ヴィオレッタは紙片を畳み、懐に収めた。
暗い独房の中で、表情は見えない。
ただ、手枷の鎖が僅かに鳴った。身じろぎ一つ分。それだけだった。
回線は確保した。証拠はある。それを届ける道も、今この瞬間に繋がった。
だが、まだ足りない。
帝都の外から声を届けても、帝都の中枢――金を動かす者たちが耳を塞いでいれば、証拠は空気に溶けて終わる。回線だけでは足りない。帝国の決済を握る場所に、内側から楔を打ち込む必要がある。
ヴィオレッタは暗闇の中で、牢番の革靴の補修痕を思い出していた。あの男の借金。裏カジノの債務。その債務が繋がっている先。
帝都のど真ん中に、一つだけ、皇太子派が見落としている穴がある。
「……さて」
声は独房の石壁に吸われて消えた。
次は、財布を抑える番だった。




