第5話「押収された第三枝」
翌朝――というには早すぎる時刻だった。
魔導格子の明滅が夜間周期に切り替わってから、およそ四巡。地下牢に朝も夜もないが、格子の律動を読めば時刻は逆算できる。午前三時を少し過ぎた頃。
ヴィオレッタは紙片を膝の上に広げていた。
ミレイユの文字は、まだ紙面に残っている。『ヴィオレッタ様 取り ました』――あの三語が青白く発光したまま、消えずにいた。看守用回線の事務通信は低帯域だ。受信した文字列は術式が減衰するまで数時間は残る。
返信を書く。
手枷が嵌まったままの右手で、紙片の裏面をなぞった。送信用の面だ。爪先で術式紋を起動し、帝都通信網の末端――看守用事務回線の通信帯域に言葉を載せる。
「『中身を開けなさい。圧縮三件、インデックス一件、暗号大一件。展開はインデックスが先。復号鍵はアクセスコードの下四桁逆順。一度きり』」
文字数を切り詰めた。看守回線は元々、「異常なし」「交代了解」程度の短文しか想定していない。それでもこの一文で、巡回報告の枠を一つ潰す。
紙片の表面が一度だけ白く光り、送信完了を示した。
あとは待つだけだ。
ヴィオレッタは壁に背を預け、目を閉じた。眠るつもりはない。格子の明滅を瞼の裏で数えているだけだ。3-2-3-4-2。帝都通信網の呼吸。この律動が乱れれば、それは誰かが回線に触ったということ。
待った。
暗号化大容量ファイルの復号には時間がかかる。端末の状態が万全でも最低で十数分。ミレイユの端末が旧式であることを考慮すれば、もっとかかる。それに加えて、七件の映像断片のメタデータ照合。片手でやっているなら――
格子の明滅を四十二巡、数えた。
およそ三十五分。
紙片が震えた。
受信。ただし紙面に浮かんだのは短い一文ではなかった。文字が連なっている。ミレイユが復号と照合を終えてから報告文を書き溜め、圧縮して一括送信したのだろう。看守回線の帯域を丸ごと一枠使い切る、ぎりぎりの分量だった。
文字が浮かび上がっていく。その速度は回線の展開速度であって、ミレイユの筆記速度ではない。三十五分かけて片手で綴った報告が、今、回線上で解凍されているだけだ。それでも文字は不揃いで、行の末尾がところどころ歪んでいた。片手で書いた原文の癖が、圧縮を経てもそのまま残っている。
「『照合インデックス:登録名「第三枝・証拠保全」。作成:三年前。未開封。格納二種。第一種――配信用映像原版断片群。七件。全メタ付。第二種――送金色照合鍵。以上』」
報告文はそこで一度途切れ、改行を挟んで続いた。保全技師の報告書式に従った、簡潔な箇条書き。
「『第一種復号成功。殿下の救済配信の編集前元データ。配信版と波形照合で接合痕十二箇所以上。映像時系列入替あり。被災地感謝音声の一部は三年前別地域の録音流用』」
もう一度改行。ここからは書式が変わった。箇条書きの末尾に、ミレイユ自身の言葉が付け足されている。筆圧だけが明らかに違う。報告書を書き終えた後で、感情が溢れて書き加えたのだろう。文字の間隔が不規則に広がり、最後の一文字が潰れかけていた。
「『第二種も復号成功。送金色照合鍵取得。つまり娯楽投銭と公的支援金を裏で混ぜてポッケナイナイした痕跡です。照合鍵でいつどの送金の色を変えたか全部追えます』」
ポッケナイナイ。
帝都アーカイブ局の下級保全技師が、国家規模の横領を指してその言葉を使う。品のない要約だが、正確だった。
ヴィオレッタの目が開いた。
格子の光が、紫の瞳にちいさく映り込んでいた。
予想通り。三年前に自分が封じたデータは、一度も開かれることなく保全庫で眠り続けていた。皇太子派はこの区画の存在すら知らなかった――あるいは知っていても、旧式の保全系統を解読する技術者がいなかった。どちらでも同じことだ。
返信を書きたかった。だが紙片の術式紋が淡く点滅していた。送信不可。あの大型受信で帯域が食い潰されている。回復するまで手は出せない。
ヴィオレッタは紙片を膝の上に伏せ、壁に頭を預けた。
待つ。
格子の明滅を数える以外にすることはない。3-2-3-4-2。十四巡。約十一分。
術式紋の点滅が止まった。送信可。
ヴィオレッタは紙片を裏返し、爪を走らせた。伝えるべきことは多い。だが帯域の制約上、長文は分割するしかない。まず一通目――仕様の骨格だけを叩き込む。
「『仕様確認。祝福貨の決済カテゴリは確定後変更不可。赤は赤、青は青。皇太子派は確定前の待機列で偽コマンドを流しタグを上書き。ただしコマンド書式が現行と二世代ずれ。タイムスタンプ桁数も正規九桁でなく八桁。分類体系は旧版のまま』」
送信。紙片が白く光り、すぐに術式紋が再び点滅を始めた。帯域回復待ち。
格子を八巡。約六分。
術式紋が安定した。二通目。
「『つまり仕様書の最新版すら読んでいない素人の仕事。決済カテゴリの変換仕様を理解していないから痕跡が全て残る。照合鍵一つで復元可能。仕様を知らない人間に完璧な犯罪は不可能よ』」
送信完了。
紙片の光が消えた。巡回報告の枠を二つ続けて潰した。深夜帯だからこそ通る綱渡りだ。日中帯にこれをやれば、翌シフトの看守が報告の欠落に気づく。
ヴィオレッタは壁に背を預け、天井の染みを見つめた。
証拠はある。
救済映像の原版断片。編集前のデータと配信版を波形照合すれば、皇太子の「感動の救済配信」がツギハギの捏造であることを技術的に証明できる。
送金色の照合鍵。横領の時刻、金額、送金経路のすべてを復元し、公的資金がどこに流れたかを数字で突きつけることができる。
だが――
証拠があることと、それを人の目に届けることは、まったく別の問題だ。
彼女は地下牢にいる。手枷で繋がれている。いずれ公開処刑台に引きずり出される。通信手段は看守用回線に割り込んだ紙片一枚。ミレイユは負傷した身で潜伏中。証拠データは彼女の手元にあるが、それを全国民の前に突きつける「舞台」がない。
どれほど完璧な証拠も、見せる場所がなければ意味がない。
必要なのは、舞台だ。
帝国中の目と耳が集まる、一点。それも、皇太子派が自分では遮断できない――あるいは遮断することを選ばない――回線の上で。
帯域が回復する頃合いだった。紙片に目を落とすと、ミレイユからの着信が来ていた。今度は短い。片手で、一文だけ書いて送ったのだろう。文字の間隔は広く、最後の句点がかすれていた。
「『データ保全完了。ミラー不明。一次確実。次どうしますか』」
次はどうするか。
ヴィオレッタが返信を書こうとした、その時だった。
牢の外で足音が鳴った。
一人分の、不揃いな歩調。補修を重ねた革靴の音。牢番だ。定時の巡回には早い。何か持ってきたか、あるいは何かを伝えに来たか。
鉄格子の向こうで、牢番が立ち止まった。
「……起きてるのか」
ヴィオレッタは目を開けなかった。紙片は既に膝の下に滑り込ませてある。
「用件」
「飯じゃねえよ。……あー、いや、その」
牢番の声が所在なく揺れた。昨晩の取引以来、この男はヴィオレッタの前でまともに喋れなくなっている。借金を握られた人間特有の、逃げ腰の落ち着きのなさ。
「……廊下の伝声管から、今さっき、全棟通達が流れた。明日の昼、帝都中央広場で、でっかい配信があるんだと」
ヴィオレッタの瞼が、微かに動いた。
「――配信? 何の」
「ああ。皇太子殿下の『善政報告配信』。今期の救済成果を全国に同時中継するって話だ。地下牢の巡回シフトまで変更が入ってる。警備が手薄になるから、囚人の移送は全件凍結、面会も停止だと。あと――」
牢番は声を落とした。
「――広場の魔導スクリーンだけじゃなく、帝都の全公共端末を中継に回すらしい。地方塔にも同時接続。殿下じきじきの演出で、過去最大規模だとよ」
全公共端末。地方塔。同時接続。過去最大規模。
ヴィオレッタは壁に背を預けたまま、天井を見ていた。
魔導格子の光が、紫の瞳の中で明滅していた。3-2-3-4-2。
牢番が沈黙に耐えかねたように咳払いをした。
「……何だよ、その顔」
顔。
ヴィオレッタは自分がどんな表情をしているのか、自分では分からなかった。
ただ――唇の端が、ほんの少し持ち上がっていたかもしれない。
「ねえ」
声が出た。低く、平坦で、地下牢の湿った空気をまったく揺らさない声。
「その配信、中継回線はどの系統を使うの」
牢番が面食らった顔をした。
「は? いや、そんなの俺が知るわけ――」
「全棟通達の文面に、技術要項の付記があったはずよ。看守は非常時に中継回線の帯域を優先譲渡する義務がある。だから通達には必ず使用回線の系統番号が記載される。読みなさい」
牢番の沈黙が三秒。
足音が遠ざかった。通達を確認しに行ったのだ。ヴィオレッタは命じた通りに人が動く音を聞きながら、膝の下から紙片を引き出した。
ミレイユへ返信を書く。
『待機。土俵ができる。詳細は追って。データ死守。身体も』
看守回線に載せるには短すぎるほどの文字数。帯域はほとんど食わない。
送信。
牢番の足音が戻ってきた。息を切らしている。走ったらしい。
「――第二系統の、主幹中継線だ。全公共端末と地方塔の同期には、帝都の第二系統を全帯域使うって書いてある。で、看守回線は配信中の六時間、事務通信を第三系統に退避させろ、と――」
「十分よ」
ヴィオレッタは彼の報告を途中で切った。
第二系統の主幹中継線。帝都の全公共端末と地方塔への同時接続。看守回線の退避先は第三系統。
それだけで十分だった。頭の中で、回線図が組み上がっていく。三年前に自分が設計した通信網の、あらゆる分岐点と合流点が、暗闇の中で発光するように浮かび上がる。
皇太子は、過去最大規模の善政配信を、自ら仕掛けようとしている。
帝国中の目と耳が、一つの回線に集まる日。
ヴィオレッタは紙片を膝の上に戻し、壁に頭を預けた。天井の染みが、魔導格子の律動に合わせて明滅している。
あの男は知らないのだ。
自分が開こうとしている舞台の回線を、誰が、どの仕様で、どんな構造に設計したのか。
冷めた粥の器は、もうとっくに下げられていた。格子の光だけが変わらず牢を照らしている。
その光の中で、ヴィオレッタは目を閉じた。
眠るためではない。
明日の配信の仕様を、頭の中で読み上げるために。




