第4話「借金台帳の見える女」
黒い手袋が、端末の縁を掴んだ。
画面の光が、指の隙間から漏れた。
その先は――見えなかった。
*
場面が変わる。
帝都、地下牢。
*
五十三。五十四。五十五。
ヴィオレッタ・エーデルシュタインは、闇の中で数を数えていた。
魔導格子の明滅。青白い光が一定の周期で壁を舐め、また沈む。帝都の上位通信網と同期したその律動は、彼女にとって時計であり、聴診器であり、そしてこの帝国の脈拍そのものだった。
-3-2-3-4-2-。
変則パターンは今日も変わらない。つまり、あの脆弱性もまだ塞がれていない。
ヴィオレッタは手枷の重みを感じながら、壁に背を預けた。冷たい石の感触が、汚れた濃紺のドレス越しに背中を刺す。
――あの子は、もう動いている頃だ。
ミレイユに第三枝の保全庫の回収を命じたのは二日前。期限は三日。計算上、初日の夜には潜入を開始しているはずだった。あの子は泣き虫だが、仕事の段取りだけは信用できる。
問題は、回収した後だ。
データを手に入れても、この牢から外に指示を出す手段がなければ、何も動かせない。
通信手段。
それが今、最も必要な一手だった。
*
足音が聞こえた。
石の床を叩く、不規則なリズム。右足の踵がわずかに引きずられている。体重の乗せ方が均等でない。疲労か――いや、違う。
靴だ。
ヴィオレッタは目を閉じたまま、足音の情報を噛み砕いた。
右足だけが重い。靴底の左右で減り方が違うのではなく、片方だけ補修材を重ねている音。革靴の、それも安物の。士官級の支給品ではなく、自前で繕った民間品。
看守の給与では新しい靴が買えない――のではない。この帝都で、看守の薄給でも靴の一足くらいは買い替えられる。それができないのは、金が別の場所に流れているからだ。
鍵の束が鳴った。
格子の向こうに、牢番の影が立った。
「飯だ」
無愛想な声。食事の盆を格子の差し入れ口に押し込む、その手が一瞬だけヴィオレッタの視界に入った。
人差し指と中指の爪の際。黒い染み。
墨汚れ。
一般的な事務仕事の墨なら、利き手の親指と人差し指の腹に付く。だが彼の汚れは中指にまで及び、しかも爪の際に集中していた。あれは帳簿をめくりながら数字を追い、同時に別の紙に転記する時の痕だ。片手で帳簿を押さえ、もう片方で書く――つまり、膝の上か、机のない場所で。
看守の業務に、そんな作業はない。
では、何の帳簿か。
革靴を買い替えられないほど金が流れている先。膝の上で帳簿を転記する必要がある場所。
答えは一つしかなかった。
「――ねえ」
ヴィオレッタは目を開けた。
紫の瞳が、格子越しに牢番を捉えた。
「靴、もう三回は繕ってるでしょう。右足の踵」
牢番の手が止まった。
盆を押し込む動作が、途中で凍りついた。
「……何の話だ」
「別に。ただの世間話」
ヴィオレッタは手枷を鳴らしながら、壁から背を離した。立ち上がる気配はない。座ったまま、格子の向こうの男を見上げている。
その姿勢のまま――見下ろしていた。
「指の墨、きれいに落としたつもりみたいだけど、爪の際は石鹸じゃ取れないのよ。帳簿仕事の癖が出てる。看守の勤務記録は魔導板に記入するから紙の帳簿は使わない。となると、あなたが転記してるのは私的な記録。しかも机のない場所で」
牢番の喉が動いた。
「お前――」
「賭場の借用書の写しでしょう」
声は平坦だった。詰問ではなく、確認ですらなく、ただ事実を読み上げるような無機質さ。天気の話でもするように、ヴィオレッタは続けた。
「踵の補修痕が三層。一回の補修で二ヶ月保つとして、半年分。半年間、靴も買えないほど手元に金が残らない生活。帝都の看守の月給は銀貨十二枚。家賃と食費を引いても四枚は残る計算だから、毎月それ以上の額が消えてる。日常の浪費にしては額が大きすぎるし、酒なら指じゃなくて襟元に痕が出る」
牢番の顔から血の気が引いていくのが、薄暗い牢の中でもわかった。
鍵束を握る手が、微かに震えている。金属の擦れる音が、沈黙の中で妙に大きく響いた。
「賭場で負けが込んで、借用書の利子を自分で計算し直してる。合ってるかどうか不安だから何度も転記する。でも机のある場所ではやれない。同僚に見られたくないから。だから膝の上で――中指に墨がつく」
ヴィオレッタは一拍、間を置いた。
「当たってる?」
牢番は答えなかった。
答えなかったこと自体が、答えだった。
*
「……で、何が言いたい。脅すつもりか」
牢番の声には、怯えと虚勢が半々に混じっていた。鍵束を腰に戻す動作がぎこちない。
ヴィオレッタは首を緩く振った。
「脅す? 違うわ。脅しなら、あなたの上官に報告するだけで済む話でしょう」
「――っ」
「でも、それは私にとって何の得にもならない。あなたが処分されたら、次の看守は私の靴も見てくれないもの」
冗談には聞こえなかった。そもそもこの女に冗談という機能があるのかどうか、牢番には判断がつかなかったはずだ。
ヴィオレッタは手枷の鎖を膝の上乗せ直した。金属が石床を擦る、乾いた音。
「聞きたいことがあるの。あなたの借金元――その賭場、どこの系列?」
「……答える義理は」
「義理じゃなくて利害の話をしてるの」
遮り方に、一切の容赦がなかった。
「あなたの賭場の借用書。利率はおそらく月一割五分から二割。複利計算。元本が銀貨五十枚を超えてるなら、半年で雪だるま式に百枚近くに膨れてるはず。看守の年収が銀貨百四十四枚。もう返せない額になってるでしょう」
牢番の視線が泳いだ。
格子の鉄棒を掴む指が白くなっている。彼自身は気づいていないだろう。
「でもね、その賭場――祝福貨基金からの迂回資金で運営されてるなら、話は変わる」
空気が変わった。
牢番の呼吸が一つ、途切れた。格子を掴んでいた手が離れ、一歩後退った。靴底が石を擦る音。補修材の重い右足が、わずかに遅れてついていく。
「な――」
「祝福貨基金の運用先に、いくつか帳簿上で追えない迂回先がある。私はそれを追っていた。追いすぎたから、ここにいる」
ヴィオレッタは自分の境遇を、まるで他人の書類を読み上げるように語った。
「その迂回先の一つが、帝都の裏カジノ。つまりあなたの借金元は、表向き存在しない金庫から流れた資金で回ってる。もしその金庫が凍結されたら――賭場ごと消える。借用書も一緒に」
沈黙が落ちた。
魔導格子の青白い光が、二人の間を一度だけ横切った。
「……何が、言いたい」
牢番の声は、さっきとは別の震え方をしていた。怯えではない。もっと切実な、溺れかけた人間が流木を見つけた時の声。
ヴィオレッタは、その声色の変化を正確に聞き分けていた。
「取引よ」
言葉は短かった。
「私に通信手段をちょうだい。外部と連絡を取るための紙片。それと、次の面会時に余分な時間を作ること。たったそれだけ」
「たったそれだけ、だと? 囚人に通信手段を渡したのがバレたら――」
「バレないわ。あなたは半年間、靴も買えないほどの借金を同僚に隠し通してきた。隠し事は得意でしょう?」
牢番の言葉が喉の奥で詰まった。
ヴィオレッタは、畳みかけた。
「対価はこう。私が外で動けるようになった時――あなたの借金元の資金源を、仕組みごと止める。賭場が潰れれば、借用書は法的根拠を失う。違法な金庫から出た金で回る賭場の借用書なんて、監査が入った瞬間に紙屑になるの。計算式はもう頭の中にある。あなたが持ってくるのは紙片一枚。私が消すのはあなたの借金全部。どっちが重いかは――」
「わかった」
牢番が遮った。
早かった。ヴィオレッタの計算よりも、三十秒ほど。
追い詰められた人間は、逃げ道が見えた瞬間に飛びつく。それが崖かどうかを確認する余裕は、借金が百枚を超えた人間にはない。
ヴィオレッタはそれを知っていた。知っていて、その逃げ道を差し出した。
「賢い判断ね」
声に温度はなかった。
牢番の手が、制服の内ポケットに入った。引き抜かれたのは、薄い紙片。看守が外部の伝令局と事務連絡に使う、通信用の定型備品だった。
格子の差し入れ口は既に盆で塞がっている。牢番は一瞬迷うように視線を落としてから、盆の縁に紙片を挟み、差し入れ口の隙間から牢の内側へ滑り込ませた。
指先が紙片から離れる時、わずかに震えていた。
ヴィオレッタは手枷のまま、盆の縁から紙片を抜き取った。指先で質を確かめる。薄いが、術式の載る品質。問題ない。
牢番は何も言わずに踵を返した。あの不揃いな足音が遠ざかっていく。補修された右足が、最後まで半拍遅れていた。
*
足音が完全に消えてから、ヴィオレッタは紙片を膝の上に置いた。
冷めた粥には手をつけなかった。食事より先に、やることがある。
牢番は想定より御しやすかった。あの手の人間は、自分の弱みを知っている相手に対して、二度目以降の要求に対する抵抗力が著しく落ちる。次はもう少し大きな頼みごとをしても通るだろう。
帳場の端末。送金回線。物理的にシステムへ触れるための手足が、これで確保できる見通しが立った。
紫の瞳が、暗い天井を見上げた。
石の天井には何もない。けれどその向こうに、帝都の通信網が走っているのをヴィオレッタは知っている。自分が設計した、あの通信網が。
あとは――ミレイユ。
あの子が、間に合っていれば。
*
それは、思考の余韻が消えるより先に来た。
紙片に術式を載せる準備をしていた時だった。膝の上の通信紙片――まだ何も書いていないその表面に、外部からの着信を示す淡い燐光が滲んだ。
ヴィオレッタの手が止まった。
こちらからは何も発信していない。にもかかわらず、着信がある。
通信紙片は送受信の双方に対応した備品だ。だが、この紙片の通信帯域は看守用の事務連絡回線に紐づいている。事務連絡回線に、誰かが外部から直接割り込んできたということになる。
燐光の波長を読んだ。
看守用の帯域ではなかった。もっと古い、帝都の旧式末端分岐線――アーカイブ局の保全系統に紐づいた周波数だった。
看守の事務回線と、アーカイブ局の旧式末端分岐線。本来は別系統のはずだが、物理的な配線層は同じ導管を共有している。帝都の通信網を設計する際、コストを理由に末端の物理層を統合したのはヴィオレッタ自身だった。だから知っている。保全系統の周波数を使えば、看守回線の紙片にも信号を割り込ませることができる。
そしてその仕様を知り、かつ保全系統の周波数にアクセスできる人間は――
文字が浮かび上がった。
震える筆跡。術式の制御がまともにできていない、ひどく不安定な波形。けれどその乱れ方を、ヴィオレッタは知っていた。泣きながら書く時の、あの子の癖。
『ヴィオレッタ様 取り ました』
三語。それだけだった。
句読点もない。文字の間隔が不揃いで、最後の「た」は半分潰れている。おそらく片手で書いている。おそらく、まともに座れてもいない。
ヴィオレッタは紙片を見下ろした。
第三枝の保全庫。あの中に入っているデータが何であるか、ヴィオレッタは正確に知っている。あれがあれば――皇太子派の資金網に、最初の楔を打ち込める。
唇が、微かに動いた。
声にはならなかった。笑みとも違う。ただ口角の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。
冷めた粥の湯気はとうに消えていた。魔導格子の光だけが、変わらない律動で牢を照らしている。
-3-2-3-4-2-。
帝国の脈拍は、まだヴィオレッタの掌の上で刻まれていた。




