第3話「泣く暇があるなら照合しなさい」
帝都の夜は、明るい。
ミレイユは書類鞄の取っ手を握り直した。アーカイブ局の通用口へ向かう石畳の道は、魔導灯の青白い光に等間隔で照らされていて、夜道のはずなのに影の落ちる場所がほとんどない。
便利な街だ、と思う。
でもその「便利さ」を誰が作ったのか、この街の人間はもう覚えていない。
大通りから一本裏に折れると、建物の壁に沿って細い通信管が走っているのが見えた。帝都の上位回線に接続された主幹線――ではない。あれは旧式の末端分岐。本線の負荷分散用に敷設された、今では誰も気に留めない細い管。
ミレイユはそれを見上げて、少しだけ足を止めた。
「――同じものを、知っている」
もっと細くて、もっと貧弱で、もっとみすぼらしい管を。雪と泥にまみれた木柱の上を、針金みたいに頼りなく這っていた、あの回線を。
七年前。帝都から四日かかる山間の集落で、ミレイユは育った。
魔導通信網の恩恵など届かない僻地だった。街道が雪崩で埋まれば孤立し、疫病が出ても救援の報せを出す手段がない。集落の人間は、帝都のことを「光の街」と呼んでいた。届かない光だから、そう呼んだ。
変わったのは、一本の回線だった。
ある年の秋、集落の入り口に木柱が立った。そこから伸びる細い通信管が、山を二つ越えた先の中継塔まで繋がった。帝国の正規事業ではない。どこかの貴族が私費で敷設した、と大人たちは言っていた。帝都では「浪費」「無駄遣い」と叩かれている事業だ、とも。
翌年の冬。雪崩が来た。
街道は埋まった。いつもなら、ここで終わりだ。誰にも伝わらないまま、春を待つか、待てずに死ぬか。
だが、あの細い管は生きていた。
ミレイユの父親が、震える手で通信端末を叩いた。応答があった。中継塔の向こうから、救援隊の編成を知らせる短い符号が返ってきた。たったそれだけのことで――集落は、助かった。
回線を敷いた貴族の名を知ったのは、ずっと後だ。
エーデルシュタイン。
帝都では「平民を数字でしか見ていない冷血令嬢」と呼ばれていた人。
ミレイユは歩き出した。足は止めない。
あの人は冷たい。本当に冷たい。人を褒めない。労わない。「ありがとう」を言わない代わりに、人が死なない仕組みを作る。「頑張ったね」を言わない代わりに、頑張らなくても生き延びられる回線を引く。
「――人が裏切る前提で、人が死なない仕組みを作る人」
それがミレイユの知っている、ヴィオレッタ・エーデルシュタインだった。
だから彼女のために死ねる。理由はそれだけで十分だった。
*
帝都アーカイブ局。
国家の記録を保存する施設の夜間通用口は、想像より静かだった。
ミレイユは保全技師の身分証を守衛に見せた。夜間の定期巡回記録の照合業務――という名目は、半分は本当だ。下級保全技師には、通常区画の巡回権限がある。
守衛は身分証を一瞥し、あくびを噛み殺しながら門を開けた。名前も確認しない。深夜の雑務担当に興味を持つ人間は、この施設にはいない。
通常区画の廊下を抜ける。壁の両側に並ぶ記録棚の魔導灯が、ミレイユの足音に反応して順番に点いていく。
目指すのは、その先だ。
通常区画と旧保全区画を隔てる封鎖扉は、廊下の最奥にあった。
鋼鉄の扉。表面に刻まれた封印術式が、薄い紫の光を帯びて脈動している。三年前の再編で物理封鎖された区画。現在は皇太子の管轄下にあり、通常のアクセス権限では開かない。
ミレイユは書類鞄を床に置いた。
鞄から取り出したのは、一枚の紙片だった。地下牢で、あの人が口述したもの。ミレイユ自身の筆跡で書き留めた、八桁の文字列。
「――管理者権限の端くれ。裏コマンド」
ヴィオレッタが三年前、この封鎖を自ら設計した時に残した保守用のバイパス。正規の権限体系には載っていない。封鎖を作った本人だけが知っている、裏口。
ミレイユは扉の術式配列の中に、指先で触れるべき紋様を探した。
第二層の外縁。左から七番目の節点。
紙片の文字列を、指先でなぞるように入力する。
術式が一瞬だけ、紫から淡い緑に変わった。
音はなかった。ただ、鋼鉄の扉が数センチだけ内側にずれた。隙間から、埃っぽい空気が流れ出す。三年分の沈黙の匂い。
ミレイユは紙片を鞄に戻し、身体を横にして隙間に滑り込んだ。
*
旧保全区画の空気は、冷たくて乾いていた。
魔導灯は死んでいる。ミレイユは鞄から小型の携帯灯を取り出し、暗闇の中に細い光を射した。
埃が舞う。通路の両壁に並ぶ保全棚は、三年前のまま整然と並んでいた。封鎖された日から、誰もここに立ち入っていない。
だが――完全な静止ではなかった。
ミレイユは足を止めた。
床の埃に、足跡はない。それは確認した。しかし、頬にかすかな空気の流れを感じた。封鎖区画なら換気系統も停止しているはずだ。なのに、わずかに空気が動いている。
三年だ。三年も放置されれば、壁の接合部や配管の貫通箇所は劣化する。密閉性が落ちて、隣接する通常区画や配管経路から隙間風が入り込んでいるのだろう。保全技師なら、その程度の経年劣化は想像がつく。
気にしても仕方がない。時間がない。
携帯灯の光を頼りに、通路を進む。ヴィオレッタの指示は明確だった。第三分岐路を右。突き当たりの保全室。端末番号〇七三。
第三分岐路。右。
突き当たりに、小さな保全室の扉があった。
この扉には封印術式がない。旧保全区画そのものが封鎖されている前提だから、個別の部屋にまで術式は不要――というのが、三年前の設計思想だ。ヴィオレッタ自身の。
ミレイユは扉を押した。
錆びた蝶番が軋む音が、暗闇に響いた。
保全室の中は、ミレイユが想像していたよりずっと狭かった。両壁に記録棚。奥の壁に一台の端末。天井の魔導灯は死んでいるが、端末の表面にだけ、かすかな光が明滅していた。
待機状態。三年間、ずっと。
ミレイユは端末の前に立った。携帯灯を棚の縁に引っ掛けて固定し、両手を空ける。
端末の表面に指を触れた。
画面が淡く点灯する。旧式のインターフェース。文字だけの入力端末。パスワードを求めるプロンプトが一行、表示された。
ミレイユは鞄から二枚目の紙片を取り出した。これも地下牢でヴィオレッタが口述したもの。保全庫へのアクセスコード。
十六桁。入力する指先が、少しだけ冷たかった。
認証完了。
画面が切り替わる。ファイルの一覧が、緑色の文字で表示された。
「――あった」
「第三枝の保全庫」。
データ量を示す数字が、画面の右端に並ぶ。ミレイユは保全技師の目でそれを読み取った。圧縮されたアーカイブが三つ。メタデータ付きの照合用インデックスが一つ。そして、暗号化された大容量ファイルが一つ。
中身の詳細は、ここでは確認しない。ヴィオレッタの命令は「回収」だ。解析も照合も、後でいい。今この場で必要なのは、このデータをここから持ち出すこと。
ミレイユは鞄から転送用の記録結晶を取り出した。保全技師の標準装備。日常業務ではバックアップの複写に使う、ありふれた道具。
端末の挿入口に結晶をセットする。転送コマンドを入力。
画面に進捗を示す横棒が表示された。
残り時間――四分十二秒。
長い。
ミレイユは、その数字を見つめたまま、呼吸を整えた。
*
二分が経った。
プログレスバーは半分を少し過ぎたところで、一定の速度を保っている。端末は旧式だが安定していた。あと二分。あと二分で――
音が聞こえた。
ミレイユの呼吸が止まった。
遠い。保全室の外、旧保全区画の通路のどこか。金属を叩くような、硬い音。一度。二度。三度。
足音ではない。
何かを壊している。隔壁か、内部の仕切り扉か。区画の奥にある、記録棚の並びを区切る鋼の仕切り――あれを、力ずくでこじ開けている音だ。
この区画の中に、すでに誰かがいる。
ミレイユの思考が、一瞬で冷えた。入り口は自分が使った封鎖扉だけではない。皇太子の管轄下に移された区画なら、管轄者側の出入口が別に存在していてもおかしくはない。そちらから入った誰かが、今、区画の内部を奥へ奥へと進んでいる。
ミレイユは端末の画面を見た。残り一分四十八秒。
通路の奥から、今度は足音が聞こえた。一人ではない。複数。硬い靴底が石の床を叩く、揃った歩調。隔壁を突破し終えたのだ。遮るものがなくなった通路を、迷いなくこちらへ向かってくる。
近づいてくる。
ミレイユの手が、端末の縁を掴んだ。指先の感覚が薄れていく。携帯灯の光が、急に遠くなった気がした。
残り一分三十一秒。
足音が、第三分岐路を曲がった。突き当たりへ向かっている。この保全室へ。
ミレイユは保全室の扉を見た。錆びた蝶番のせいで、扉は完全には閉まっていなかった。入った時に押しただけで、引き戻していない。枠との間に、指一本分の隙間が残っている。
端末の緑色の光と、棚に引っ掛けた携帯灯の光が、その隙間から通路へ細く漏れ出しているのが、今になって見えた。
消す時間は、ない。
残り一分十九秒。
足音が止まった。保全室の扉の前。近い。石の壁越しに、革の擦れる音が聞こえた。
沈黙。数秒。
扉が、蹴り開けられた。
錆びた蝶番が悲鳴を上げ、鋼の扉が壁に叩きつけられる。その衝撃でミレイユの携帯灯が棚から落ち、床で二度跳ねて転がった。光が狂ったように壁を舐め、黒い人影を下から照らし上げた。
「――ネズミが一匹。端末が動いている」
扉口に立つ影が、低い声で背後へ報告した。狭い保全室の中を一瞥しただけの、淡々とした確認。ミレイユと、緑色に光る端末の画面を同時に視界に収めた、それだけの所作だった。
「処分しろ」
通路の奥から、別の声が返ってきた。最初の声より低い。指揮官格の、感情を削ぎ落とした命令。
残り五十七秒。
ミレイユの視界が、端末の画面だけに狭まった。緑色の文字とプログレスバー。それ以外の全てが暗くなる。音は聞こえている。扉口の影が、一歩、保全室の中に踏み込んでくる。
残り四十二秒。
「端末から離れろ」
声は低く、抑制されていた。命令に慣れた声。人を脅すためではなく、作業の一環として喉から出てくる種類の言葉。
残り三十一秒。
ミレイユの目に、涙が滲んだ。
怖い。怖い。足が震えている。声が出ない。逃げ場がない。この狭い保全室には、入口は一つしかない。
残り二十四秒。
「――泣く暇があるなら照合しなさい」
声が聞こえた。
聞こえるはずのない声だった。この場にいない人の、冷たくて、容赦がなくて、けれど一度も嘘をつかなかった人の声。
あの地下牢で。鉄格子越しに。紫の瞳が、ミレイユを見ていた。泣いていることを責めたのではない。泣く暇があるほど手が空いていることを、叱ったのだ。
あの人はいつもそうだ。人の涙を拭かない。代わりに、泣いている暇がないほどの仕事を投げてくる。そうすれば手が動く。手が動けば、頭が動く。頭が動けば――涙は、後回しになる。
ミレイユの右手が動いた。
端末の補助入力盤。転送先の二重化バックアップ。指が勝手に叩いていた。保全技師が身体に染み込ませている、データ保全の基本手順。一次転送と同時に、結晶内の別セクタへミラーリングを走らせる。万が一、結晶を壊されても、断片が残る確率を上げる。
残り十五秒。
背後の気配が、一歩近づいた。
「最後だ。離れろ」
ミレイユは答えなかった。
その代わり、声にならない声が口の中でこぼれた。
「――あと、十三秒」
黒い手袋の手が、ミレイユの肩を掴んだ。
引き剥がされる。身体が横に飛んだ。背中が記録棚にぶつかり、棚の中身が崩れ落ちる。痛みよりも先に、視界の端で端末の画面が見えた。
プログレスバー。
残り――
三秒。
黒装束の男が、端末に手を伸ばした。




