第21話「文明の寄生虫」
格子の光が安定した。
早朝の定時点検が終わり、基幹回線は通常帯域へ移行している。魔導格子の明滅は均一で、地方塔の信号がひとつも混ざっていない。昨夜と同じ、帝都だけの痩せた回線。
ヴィオレッタは壁に背をつけたまま、右手をゆっくりと持ち上げた。
手枷の鎖が石の床を擦る。冷えきった指先の感覚がぼんやりとしている。一晩中、同じ姿勢だった。首が固まり、肩甲骨のあたりが鉛のように重い。
だが、右手の人差し指に嵌まった銀の指輪だけは、妙に鮮明だった。
シグネットの内部記憶領域。昨夜、ミレイユから旧回線経由で受け取った波形断片が、まだそこに眠っている。
ヴィオレッタは身体を起こし、格子の前へ膝で這った。鎖の許す限界まで右手を伸ばし、指輪を格子の金属面に触れさせる。
微かな共振。
シグネットが格子の残留魔力を拾い、内部のデータを読み出す。音でも光でもない。指先に伝わる振動のパターン——それが、波形断片の中身だった。
転送先ログ。第三鍵が焼失を偽装されたあと、どこへ運ばれたかを示す経路記録の断片。
データの大半は欠損していた。ミレイユが命がけで守り抜いた記録結晶でさえ、保存状態は万全ではなかったらしい。読み取れるのは全体の三割にも満たない。
だが、三割あれば十分だった。
ルーティングのヘッダ部分。転送先のアドレス構造の先頭8桁。そして中継ノードの署名パターン。
ヴィオレッタの指が、格子の上で止まった。
この署名は知っている。
帝都の魔導通信網は、用途によって中継ノードの署名形式が異なる。民間回線、軍事回線、行政回線——そして、放送回線。ヴィオレッタ自身が設計した分類体系だ。
波形断片に残されたノード署名は、放送系統のものだった。しかも、地上局ではない。地下経路。帝都の放送インフラのうち、地下に専用の隔離区画を持つ施設は一つしかない。
宮廷放送局。
あの建物の地下には、皇室の公式配信を記録・保全するための隔離サーバー区画がある。帝国の「公式な記憶」を格納する場所。通常の行政回線からは物理的に切り離された、独立系統。
第三鍵は、そこにある。
ヴィオレッタは格子から指を離した。
指輪の振動が止まる。格子のかすかな光だけが、石壁の牢を照らしている。
宮廷放送局。帝都の中心部。皇宮の隣。最も警備の厚い場所のひとつ。
地方塔は全て潰された。協力者のネットワークは寸断されている。ミレイユは下水道のどこかで満身創痍。バルトロメウスは——考えるな。まだ確定していない。
手持ちの駒で、宮廷放送局の地下に手が届くか。
届かない。
少なくとも、この牢の中からでは。
膝が痺れていた。格子の前で同じ姿勢を取り続けていた時間のぶんだけ、関節が固まっている。ヴィオレッタは手枷の鎖を引きずりながら身体を反転させ、背中を壁に預けた。冷たい石の感触が、薄い囚人服を通して肩甲骨に沁みる。
膝の上に手を置き、天井を仰いだ。水垢の染みが、早朝の光で昨夜とは違う形に見える。
処刑の日が迫っている。全国中継で、この首が落ちる。
だが——
処刑台。
帝都中央広場の、あの巨大な台。全国中継と皇室儀礼を束ねるために、私が設計した——
思考を遮るように、廊下の奥で鉄扉が鳴った。
一人ではない。複数の足音。革靴と、金属の擦れる音。整列した歩調に混じって、ひとつだけ不揃いな足取りがある——看守だ。いつもの、賭博で首が回らない男。
そして先頭の足音は、やけに芝居がかっていた。一歩ごとに靴底を鳴らし、自分の存在を空間に刻みつけようとするような歩き方。
ヴィオレッタは目を閉じたまま、口元だけを動かした。
「……随分と朝が早いのね、殿下」
足音が止まった。
格子越しに、光が変わる。廊下の魔導灯が、来訪者の通過に反応して出力を上げたのだ。瞼の裏が白く染まり、ヴィオレッタはゆっくりと目を開けた。
レオンハルト・ヴァルムブルクが、牢の前に立っていた。
白い皇室礼装。金糸の刺繍。胸元に並ぶ勲章は、早朝の薄暗い地下牢においてすら不自然なほど光を返している。まるで自前の照明を持ち歩いているかのような男だった。
その横に看守が一人。背後に衛兵が二人。
レオンハルトは格子の向こう側から、処刑囚を見下ろした。
「顔色が悪いな、エーデルシュタイン」
声は穏やかだった。穏やかに作られていた。公の場で民衆に向ける、あの計算された柔和さと同じトーン。ただし今、その声が向けられているのは手枷をかけられた囚人だ。
「一晩中、眠れなかったか。無理もない。明日がお前の最後の日だ」
ヴィオレッタは答えなかった。壁に背をつけたまま、膝の上に手を置いた姿勢を崩さない。
——明日。
繰り上げられた。予定ではまだ数日あるはずだった。その数日で、宮廷放送局の地下にある第三鍵に手が届くかもしれなかった。
その猶予が、消えた。
顔には出さない。この男の前では、絶対に。
レオンハルトは一拍待ち、それから微笑んだ。格子に片手をかけ、身を屈めるようにして囚人の目線まで降りてくる。
「最後の温情だ、聞け」
声が低くなった。
「お前が設計した地方塔——あの『無駄遣い』の産物は、昨夜までに全て物理的に叩き潰した。八基すべてだ。魔導炉を砕き、制御盤を焼いた。もう二度と信号は飛ばない」
知っている。昨夜、格子の明滅パターンが変わった時点で把握していた。だがヴィオレッタは顔に何も出さなかった。
「お前の味方をしていた地方の連中にも、相応の対処をした。もう誰もお前を助けに来ない」
レオンハルトの口元が、わずかに歪んだ。笑みの形を保ったまま、目だけが冷たく光る。
「だが、私は寛大な皇太子だ」
彼は格子から手を離し、背筋を伸ばした。
「今日の全国中継で、お前が自ら口を開け。『帝国のインフラに手を加え、平民の送金を操作しようとしたのは、すべて私個人の独断でした。殿下はそれを見抜き、帝国を守ってくださった』——そう証言するなら、家名だけは残してやる。お前の首は落ちるが、一族の名は汚さずに済む」
沈黙が落ちた。
看守が気まずそうに視線を逸らし、衛兵は微動だにしない。地下牢の空気が、格子の光に照らされて埃の粒子を浮かび上がらせている。
ヴィオレッタは、ゆっくりと顔を上げた。
「殿下」
声は静かだった。一晩中眠れなかった人間の声には聞こえない。乾いて、平坦で、どこか事務的ですらある。
「ひとつ教えて差し上げましょうか」
レオンハルトの眉が動いた。
「あの地方塔は、殿下が『無駄遣い』と呼んだものではないわ。災害時の緊急通信と、分散型のバックアップを兼ねた——まあ、説明しても無駄ね。殿下は仕様書をお読みにならないから」
「……何が言いたい」
「所有しただけで理解した気になっている時点で、殿下は文明の寄生虫よ」
空気が、割れた。
レオンハルトの顔から表情が消えた。穏やかさも、余裕も、作り物の微笑みも、全てが一瞬で剥落した。残ったのは、素の憤怒だけだ。
だがヴィオレッタは止まらなかった。
「今日の全国中継——殿下はあの処刑台を、ご自分の舞台だと思っていらっしゃるのよね」
声のトーンを変えない。事務報告のように淡々と。
「あの台の管理構造を、殿下はどこまでご存知かしら。回線の統合方式。儀礼端末としての認証系統。設計時の安全設計。——ご存知ないでしょう?」
レオンハルトの喉が動いた。
「……処刑台の何だと?」
「管理構造よ。あの台は帝都中央広場の飾りではないの。全国中継と皇室儀礼を接続するための——」
「黙れ」
低い声が、地下牢に反響した。
レオンハルトの右手が、格子を掴んでいた。白い手袋の指が、金属の棒を握りしめて関節が浮き出ている。
「お前はいつもそうだ。小賢しい用語を並べて、あたかも自分だけが正解を知っているかのように振る舞う。だが今日でそれも終わりだ」
声が震えていた。怒りで、ではない。何かを確認しないまま踏み越えてしまうことへの、無自覚な不安。それがレオンハルトの声に混ざっている——ように、ヴィオレッタには聞こえた。
だが、それだけで十分だった。
確認できた。
この男は、あの処刑台が何であるかを知らない。全国中継の中継台。皇室の儀礼端末。そこに組み込まれた設計上の——
知らないまま、使おうとしている。
レオンハルトが格子から手を離した。
「看守」
振り返りざまに、声を投げた。怒気を抑えきれず、語尾が跳ねている。
「この女から装飾品を全て剥ぎ取れ。指輪、髪留め、何であれ、一つ残さずだ」
看守の顔が強張った。
「……殿下、大法院の手続きが——」
「私が命じている。今すぐやれ」
レオンハルトは牢を振り返りもせず、衛兵を従えて廊下の奥へ消えていった。革靴の音が遠ざかる。規則正しかった歩調が、わずかに乱れている。
残されたのは、看守とヴィオレッタだけだった。
看守は牢の鍵を手に持ったまま、しばらく動かなかった。廊下の足音が完全に消えてから、ようやく鉄格子に手をかけた。
錠が外れる音。格子が軋みながら開く。
看守がヴィオレッタの前に膝をつき、その右手を持ち上げた。
手枷の鎖が鳴る。
看守の指が、ヴィオレッタの右手人差し指——銀の指輪に触れた。
シグネット。管理者権限印。波形断片のデータを格納した、最後の接続手段。
ヴィオレッタの武器の、全て。
看守の掌が、指輪を掴もうとしている。
ヴィオレッタは、その手を見下ろした。




