第2話「地下牢の設計者」
湿った石壁が、呟きを吸い込んだあと――静寂が戻った。
だがヴィオレッタの意識は、既に別の場所へ向かっていた。
天井の隅。
牢の入口を塞ぐ魔導格子が、青白い光を断続的に瞬かせている。魔力を帯びた格子は囚人の脱走を阻むと同時に、帝都の上位通信網に同期して牢獄全体の封印を維持する――はずのものだった。
一定の間隔。ではない。
ヴィオレッタは目を細めた。紫の瞳が、格子の明滅だけを追う。
……三拍。二拍。三拍。四拍。二拍。
帝都の上位通信網に正しく同期しているなら、明滅周期は完全に等間隔でなければならない。この揺らぎは、監獄の魔導回線が本線から分岐した末端であることを意味している。
手枷の鎖が、かすかに鳴る。
彼女は指先で石壁を叩いた。一度。二度。三度。反響の返りが微妙に異なる箇所がある。壁の向こうに、何らかの導管か配線が通っている。
「末端分岐で、しかも非暗号化」
声には出さず、唇だけが動いた。
この監獄の通信インフラは、帝都本線から枝分かれした旧式の残滓だ。ヴィオレッタ自身が上位設計を手がけた時代の、もう二世代も前の規格。セキュリティの更新すら放置されているのだろう。当然だ。誰がわざわざ、囚人を閉じ込めるだけの場所に最新の暗号回線を引く?
だが、それは裏を返せば――
紫の瞳が、暗がりの中で研ぎ澄まされた刃のように光った。
――この牢獄から外の通信系統に触れる経路が、存在するということだ。
ひと月。
あの処刑台に立つまでの猶予。あの「甘い」術式配列を前にするまでの時間。
ヴィオレッタは壁に寄りかかったまま、魔導格子の明滅を数え続けた。光の間隔を記憶し、分岐元の回線負荷を逆算し、そこから帝都의 通信トラフィックの現在の混雑度を推定する。
囚人が石の牢で数えるものは、普通、残された日数だ。
この女は、回線の帯域を数えていた。
*
鉄扉が軋んだのは、魔導格子の明滅がわずかに早まった頃だった。
帝都の通信トラフィックが増加し始めている。朝の業務が動き出した証拠だ――そこまで読めてしまう自分の職業病に、ヴィオレッタは内心で舌を打った。
看守の怒鳴り声と、それに被さる甲高い声。
「面会は認められています! 正規の手続きを踏んでいます! だから――お願いします、通してください……!」
最後だけ声量が落ちる。押し切ろうとして、結局懇願に戻る。その情けない語尾の崩れ方に、ヴィオレッタは聞き覚えがあった。
格子の向こうに、小柄な影が現れる。
灰色がかった亜麻色の髪を実用的に束ね、帝都アーカイブ局の地味な制服を着た娘。書類鞄を胸に抱きしめ、目の周りを真っ赤に腫らしている。
ミレイユ・フォスキーア。
帝都アーカイブ局の下級保全技師。そして、この帝都において、今もヴィオレッタ・エーデルシュタインの名を口にすることを恐れない数少ない人間の一人。
「ヴィオレッタ様……!」
格子越しに、ミレイユの声が裏返った。
「お怪我は、ございませんか。お食事は出されていますか。あの、弁護の嘆願書を法務局に出したんですが、受理されなくて、それで大法院にも直接――」
矢継ぎ早に言葉を並べながら、その目からぼろぼろと涙がこぼれている。鼻声が混じり、途中から何を言っているのか本人にすらわかっていないだろう。
ヴィオレッタは、壁に背を預けたまま、その光景を紫の瞳で眺めていた。
表情は変わらない。
「――終わった?」
ミレイユの嗚咽が、一瞬だけ止まる。
「私を憐れむ暇があるなら、働きなさい」
冷たかった。
石壁より、手枷の鉄より、なお冷たい声だった。慰めも、感謝も、「来てくれたのね」という温もりも、一切ない。
ミレイユの目が大きく見開かれる。涙の膜越しに、格子の奥のヴィオレッタを見つめた。
薄暗い牢の中、壁にもたれた主人の姿。濃紺のドレスは泥と黴にまみれ、艶やかだったはずの黒髪も石床の埃で白く汚れている。
それでも――目だけが、あの日と変わらない。
設計室で端末に向かっていた頃と同じ、ガラス玉のように無機質な紫。
ヴィオレッタは手枷を鳴らしながら、わずかに身を起こした。
「泣くのは三秒で済ませなさい。それ以上は工数の無駄よ」
「……っ」
ミレイユは袖で乱暴に顔を拭った。鼻をすすり、目を擦り、それでもまだ頬は濡れていたが――唇を引き結んで、顔を上げた。
「……はい」
その一言が、格子越しの空気を変えた。
ヴィオレッタの口元が、ほんの微かに動く。笑みではない。確認だ。使える駒が、まだ動くことの。
*
「帝都アーカイブ局。旧保全区画」
ヴィオレッタは低い声で、単語だけを刻むように言った。
ミレイユの目が、一瞬で技師のそれに切り替わる。涙の跡が残る顔で、しかし瞳の焦点は鋭い。
「旧保全区画は、三年前の再編で物理封鎖されています。正規の開錠申請は局長決裁が必要で――」
「知っているわ。私が封鎖を設計したもの」
ミレイユの言葉を遮って、ヴィオレッタは続けた。
「あの区画の第三枝に、保全庫がある。私が残したデータ群よ。救済映像の原版断片と、送金色の照合鍵。それを回収しなさい」
「送金色の……照合鍵」
ミレイユが復唱する。その声には、もう涙の震えはない。
「殿下の善政配信に使われた映像がある」とヴィオレッタは言った。「あれの元データ……編集前の原版が、第三枝に残っているはずよ。そして、祝福貨の送金ログとその色分けを照合するための鍵データも」
ミレイユの顔色が変わった。
彼女は下級とはいえ保全技師だ。「送金色の照合鍵」が何を意味するか――それを使えば何が証明できるかを、理解するのに時間はかからないはずだった。
「……赤と青が、裏で混ざっている?」
小さな声だった。
ヴィオレッタは答えなかった。答える代わりに、手枷の鎖越しに右手の人差し指を立てた。銀の指輪が、魔導格子の青白い明滅を拾って鈍く光る。
「物理封鎖の旧保全区画に、正規手順で入る時間はない。貴女の保全技師としてのアクセス権と波形照合の技術を使って、裏口から潜りなさい」
「裏口……」
「私が設計した封鎖よ。保守用のバイパスくらい、残してあるに決まっているでしょう」
そう言い切る声には、設計者だけが持つ傲慢な確信があった。自分の作ったものの全てを知っている者の、揺るぎない断言。
ミレイユは書類鞄を握り直した。指の関節が白くなるほど強く。
「……期限は」
「処刑までおよそひと月。だけど悠長にしている暇はないわ。証拠は向こうが先に消す。三日以内に持ってきなさい」
「三日」
「遅ければ、証拠ごと消される。あちらも馬鹿ではないもの――いいえ、馬鹿だけれど」
一拍。
「馬鹿は馬鹿なりに、都合の悪いものを燃やすくらいの知恵はある」
沈黙が落ちた。
魔導格子の明滅が、先刻よりも確実にテンポを上げている。帝都が本格的に目を覚まし始めたのだろう。この地下に朝の光は届かないが、回線の鼓動がそれを教えてくれる。
ミレイユは口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、今度は声になった。
「ヴィオレッタ様」
「何」
「アーカイブ局の旧保全区画は、現在、皇太子殿下の管轄下に移されています。出入りが記録されれば――」
「ええ。捕まれば貴女も死刑よ」
まるで天気の話をするように、ヴィオレッタはそう言った。
格子越しの紫の瞳は、一切の温度を持たない。そこに後悔も、躊躇いも、「無理はしなくていい」という逃げ道も、何一つ用意されていなかった。
ミレイユの肩が震えた。
恐怖か。それとも。
「行きます」
声は震えていなかった。
ヴィオレッタは、その即答を聞いても表情を変えなかった。当然の回答を受け取ったとでも言うように、一度だけ瞬きをした。
「三日よ」
それだけ言って、ヴィオレッタは再び壁に背を預けた。面会は終わりだと、その姿勢が告げていた。
ミレイユは書類鞄を抱え直し、格子の前で一度だけ深く頭を下げた。そして踵を返す。
その背中を、ヴィオレッタの紫の瞳が追った。
小柄な影が、石の廊下の闇に吸い込まれていく。足音が遠ざかる。早い。迷いのない歩調だ。
――あの娘は、また泣くだろう。
鉄扉が閉まる音を聞きながら、ヴィオレッタはそう思った。帰り道で、一人になった瞬間に。書類鞄を抱えたまま、誰にも見えない場所で。
それでも彼女は行く。理由は知っている。理由は――
ヴィオレッタは目を閉じた。
魔導格子の明滅が、瞼の裏に青く残った。
三拍。二拍。三拍。
回線の揺らぎを数える作業に、彼女は意識を戻した。感傷に使う帯域は、この先には存在しない。
*
右手の人差し指に、銀の冷たさが張りついている。
ヴィオレッタはその感触を確かめるように、親指で指輪の表面をなぞった。家門の印――この帝都の誰もが、そう信じている装身具。
それで構わない。まだ、この駒を晒す盤面ではない。
地下牢の暗がりの中、彼女は静かに指を握った。




