第18話「主保全庫の残骸」
帝都東区外縁。
かつて公爵家の威容を誇った敷地は、四年の歳月に呑まれていた。
焼け残った外壁の骨格が、月明かりの下で獣の肋骨のように突き出している。雑草が石畳を割り、蔦が鉄柵を絞め殺していた。帝都の中心部からわずか半刻の距離にありながら、ここだけが時間ごと切り取られたように沈黙している。
ミレイユは作業用外套の襟を深く引き上げ、崩れた裏門の隙間から敷地内へ滑り込んだ。
「——見張り、二人」
背後でバルトロメウスの低い声がした。息遣いは荒いが、足音だけは驚くほど静かだった。四十年、現場を歩いた技師の足だ。
「正門側に一人。東の角に一人。巡回間隔は——」
「六分半」
ミレイユは即答した。敷地の外から二巡分、数えてあった。
「裏門側は死角。ただし、あと四分で東の見張りが折り返してきます」
言いながら、ミレイユは布で吊った右腕を庇い、左手だけで瓦礫の隙間を探った。四年前の邸宅見取図は、ヴィオレッタから受け取った設計資料の中に含まれていた。主保全庫への最短経路は、厨房棟の床下にあった搬入用の地下通路。
——あの人は、保全庫を厨房の真下に置いた。
理由は単純だ。厨房は一日中、使用人が出入りする。不自然な人の流れが生まれない。誰かが地下へ降りても、食材の搬入と区別がつかない。
「機能に嘘をつかせない」。それがヴィオレッタの設計思想だった。
「こっちです」
焼け崩れた厨房棟の跡。煉瓦が黒く変色し、かつて調理台だったものが炭の塊になっている。ミレイユは左手で床面の瓦礫をどかし、搬入口の鉄蓋を探した。
指先が、何かに触れた。
熱で歪んだ鉄板。取っ手は溶け落ちているが、蝶番の形は残っている。
「バルトロメウスさん、ここ」
老技師が膝をつき、道具袋から短い梃子を引き抜いた。歪んだ鉄板の端に差し込み、体重をかける。
ぎ、と低い音がして、四年ぶりに地下への口が開いた。
焦げた空気が吹き上がってくる。
四年経っても、まだ燃えた匂いがする。ミレイユの鼻腔を、甘いような、苦いような、魔導炉の残滓に似た臭気が刺した。
——いや。
ミレイユは目を細めた。
似ているけれど、違う。
魔導炉の暴走なら、周囲の魔力残滓はもっと均一に拡散するはずだ。中心点から同心円状に。だがこの焼け跡は——。
「やはりか」
同じことを、バルトロメウスが呟いた。
梃子を仕舞いながら、老技師は崩れた壁面の断面を指で撫でた。
「焼け方が片寄っとる。東側だけが深い。——お前さんの言った通りだな。魔導炉の暴走じゃない」
ミレイユは黙って頷いた。通信記録の一斉遮断に加えて、物理的な証拠がもう一つ積まれた。
だが今はそれを検証している時間がない。
「降ります」
鉄蓋の下は、石造りの階段だった。踏み面が崩れている箇所がいくつかある。左手で壁を伝い、一段ずつ確認しながら降りた。バルトロメウスが後に続く。老体にはきつい傾斜のはずだが、文句は一言もなかった。
地下二層目。
主保全庫の扉——だったものが、ミレイユの前にあった。
魔導合金製の重扉。本来なら物理的な衝撃にも魔力攻撃にも耐える設計だった。だがその表面は、あり得ない温度で焼かれた痕跡を残していた。通常の火災では、この合金はここまで変形しない。
「……やっぱり。外側から、意図的に」
ミレイユの声が途切れた。
扉は半開きだった。内部から破壊されたのではなく、外側から抉じ開けられた形跡がある。蝶番が内側にひしゃげている。
つまり。
火災の前に、誰かがこの扉を開けていた。
ミレイユは唇を引き結んで、保全庫の中へ足を踏み入れた。
*
地獄、という言葉が浮かんだ。
主保全庫の内部は、水晶記録媒体の墓場だった。
壁面を埋め尽くしていたはずの記録棚は焼け落ち、その残骸が床一面に散乱している。水晶の破片が炭化した金属片と混ざり合い、足を踏み出すたびに乾いた音が鳴った。
かつて帝国の中枢データを格納していた場所。
ヴィオレッタが設計し、構築し、管理していた——帝国の記憶そのもの。
「……ひどいな」
バルトロメウスが呻いた。
それは感傷ではなかった。技師として、この破壊の徹底ぶりに対する——怒りだった。
ミレイユには、その声色の意味がわかった。自分も同じものを感じていたから。
「お前さん。正直に言う」
バルトロメウスは周囲を見回し、低く言った。
「この状態から波形を拾うのは、わしの知る限り不可能だ。媒体が炭化しとる。記録層そのものが消えとる」
ミレイユは答えなかった。
外套の内ポケットから、波形照合用の携帯プローブを取り出した。細い金属の棒。先端に感応結晶が嵌め込まれている。左手で握ると、微かに振動した。
「バルトロメウスさん」
「なんだ」
「あの人の——ヴィオレッタ様の設計を、どう思いますか」
唐突な問いに、老技師は一瞬だけ沈黙した。
「……変態だと思っとる」
ミレイユの口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「はい。変態です」
プローブを握り直す。
「あの人は、自分の設計したものが壊されることを、最初から想定しています」
ミレイユは炭化した記録棚の残骸に近づいた。膝をつき、左手のプローブを瓦礫の隙間に差し込む。
「記録層の表面は焼けます。でも——」
プローブの先端が、何かに触れた。
「あの人は、記録の本体を表面には置かない」
ヴィオレッタのUIの癖。
それは「見える場所に本当のデータを置かない」という、徹底した設計哲学だった。アーカイブ局時代、ミレイユはヴィオレッタのデータ構造を何百回と解析した。表層にはダミーのインデックス。本体は常に、物理媒体の最深層——記録結晶の核に近い部分に埋め込まれている。
普通の技師なら、表面の炭化を見た時点で「全損」と判断する。
だがミレイユは、普通の技師ではなかった。
「核層です。あの人は核層に書く」
プローブが振動した。微弱な——本当に微弱な、だが確かな波形反応。
「バルトロメウスさん、感応針を」
老技師の動きは速かった。道具袋から針のように細い器具を三本引き抜き、ミレイユの左手が届く位置に並べた。
ミレイユは炭化した水晶片を一つ持ち上げた。表面は完全に死んでいる。だが内部に、かすかな光の残滓があった。人間の目には見えない。プローブの感応結晶だけが、その存在を拾い上げている。
感応針の先端を、水晶片の亀裂に沿って差し込んだ。
左手だけの作業だった。右腕は使えない。布で吊った腕が、作業のたびに振り子のように揺れる。それを無視して、ミレイユは針の角度を0.1度単位で調整した。
核層の波形を読むには、針の角度が正確に記録面と平行でなければならない。わずかでもずれれば、残存波形は消える。二度目はない。
指先が、震えた。
疲労だった。北方第七中継点からの強行軍。ほとんど眠っていない。右腕の鈍痛が、集中力を少しずつ削っている。
——三日あれば充分です。
自分で言った言葉が、耳の奥で反響した。
充分だと言った。だから、充分にする。
針が、定位置に入った。
プローブの振動が変わった。不規則な揺れから、一定のリズムへ。
波形が読める。
「……来ました」
ミレイユの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
感応針を通じて、携帯プローブが核層の残存波形を読み取り始めている。データは断片的だ。大部分は熱劣化で欠損している。だが——構造がある。ヴィオレッタが設計した、あの独特のデータ構造。
「バルトロメウスさん、予備の記録結晶を」
差し出された結晶を左手で受け取り、プローブの末端に接続した。抽出した波形断片を、そのまま転写する。
一つ目の水晶片。読み取り完了。
二つ目。三つ目。四つ目。
炭の山から水晶片を選び出し、核層の生存を確認し、感応針で読み、転写する。単純だが、一つのミスも許されない作業の繰り返し。
バルトロメウスは何も言わず、水晶片の選別と道具の受け渡しに徹していた。ミレイユの作業速度に合わせ、必要なものを必要な瞬間に差し出す。四十年の現場仕事が作り上げた、言葉のいらない連携だった。
七つ目の水晶片から、波形の密度が変わった。
ミレイユの手が止まった。
「——これ」
プローブの振動パターンが、それまでとは明らかに異なる。断片的だった波形が、急に密度を増している。何かの記録が、ここに集中して格納されていた痕跡。
転写を続けた。
八つ目。九つ目。
予備の記録結晶の容量が埋まっていく。断片と断片が繋がり始める。ジグソーパズルの、最後の数ピースを嵌めていく感覚に似ていた。
十一個目の水晶片を読み取った瞬間。
記録結晶の中で、断片が一つの形を成した。
ミレイユは、その波形パターンを知っていた。
——転送ログ。
魔導通信網を経由した、大容量データの転送記録。発信元は、この主保全庫。日付は帝国暦1019年、花月の十二日。火災の、まさに当日。
そして転送されたデータの識別子が、波形の中に残っていた。
ミレイユの視界が、一瞬だけ白くなった。
非常時監査用認証結晶。
第三鍵の管理番号だった。
「見つけ……ました……」
声が、喉に張りついて出なかった。
プローブの末端から記録結晶を外し、プローブを膝の脇に置いた。空いた左手で、転写を終えたばかりの記録結晶を握りしめる。指の関節が白くなるほど強く。それでも足りなくて、結晶を胸元に引き寄せ、外套の布越しに押し当てた。
「見つけました……!」
今度は出た。声が震えている。構わなかった。
「第三鍵は燃えてません、外部の『どこか』へ転送されたログが残ってます!」
数秒、地下室が静まり返った。炭化した瓦礫の匂いだけが、妙にくっきりと鼻を突いた。時間の流れ方が、一瞬だけ変わったように感じた。
「転送先は——」
バルトロメウスの声が、その静寂を破った。いつもより低く、ゆっくりとした声色だった。
「わかりません。受信先のアドレスは——この部分だけ、意図的に上書きされて……消されてます」
答えながら、ミレイユは記録結晶を膝の上にそっと置き、脇のプローブを拾い直した。該当部分の波形をもう一度読む。間違いなかった。転送ログの大部分は残存しているが、受信先を示すアドレス領域だけが、火災とは無関係の——明らかに人為的な処理で消去されている。
「だけど——転送されたという事実は、消しきれていない」
ミレイユの声に、力が戻った。
「あの人の設計した核層書き込みは、表面を焼いても、アドレスを上書きしても、転送の『事実そのもの』は残る。送信履歴のハッシュ値が、十一個の水晶片に分散して刻まれてました」
——あの人の変態的な設計思想が、四年越しに証拠を守った。
「追跡できるのか」
バルトロメウスの問いは端的だった。
「転送先は消されていても、経由した中継ノードの痕跡が——」
ミレイユはプローブを膝脇に戻し、膝上の記録結晶を左手に持ち直しながら、頷きかけた。
その動作が、途中で凍った。
音。
頭上から。
石と瓦礫を踏む、規則的な振動。一人ではない。複数。等間隔。訓練された足運び。
すぐ隣で、バルトロメウスの息遣いが止まった。一拍の沈黙のあと、道具袋の金具がかちりと静かに閉まる音。老技師の気配が、すっと低くなる。
足音は、増えていた。
地下への階段を降りてくる靴底の硬い反響。東側の通路からは、複数の衣擦れと革鎧が軋む音。西の崩落した壁の向こうからも、瓦礫を踏み分ける振動が石の床を伝ってくる。
三方向。
包囲されている。
光のない地下で、気配だけが膨張していた。階段の方角から降りてくる足音の数を、ミレイユは音だけで数えた。五つ。東の通路にも、それ以上。空気が動く。複数の体が、狭い空間に流れ込んでくる圧。
金属が擦れる音が、暗闇を裂いた。抜刀の音。一つではない。左右から、前方から、連鎖するように。
そして——声。
感情のない、事務的な声。
「ネズミが二匹」
階段の方角から降りてきた声が、焼け跡の壁に反射して地下室を満たした。
「処分しろ」
足音が一斉に速度を変えた。四方から迫る革底の重い響きが、床を通じてミレイユの膝を震わせる。
ミレイユは記録結晶を握りしめたまま、動けなかった。




