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断罪された天才魔導技師ですが、その処刑台は私の制御端末です。愚かな皇太子の悪事、全国配信で逆に公開処刑して差し上げます  作者: 今井 幻


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第15話「予備監査、起動」

 国家魔導銀行、第三監査棟。

 深夜二時の廊下には、清掃ゴーレムが床を磨く低い唸りだけが響いていた。


 エーリヒ・ヴォルフの執務机には、三本の蝋燭が立っている。うち二本はとうに燃え尽き、最後の一本が橙色の影を帳簿の山に落としていた。


 銀行端末の水晶板が、明滅した。

 自動通知。

 定時の照合履歴ログ――ではない。臨時の異常パターン検出レポートだ。水晶板の右上に赤い菱形の警告灯が点灯し、端末が小さく唸る。


 エーリヒのペン先が、帳簿の上で止まった。

 赤い菱形。トランザクション監視系が「洗浄行為兆候」を自動判定した場合にのみ発生する、最上位の異常通知。彼が銀行に入って六年、この色の通知を見たのは二度目だった。


 指が水晶板に触れる。

 レポートが展開された。

 帝都第四支部管轄。口座番号頭二桁「07」。末端口座群への暫定凍結フラグ――四十八時間。発火条件は、不規則パターンの微小送金。送金元は、帝都中央監獄の帳場端末。


 監獄。


 エーリヒの手が、机の引き出しに伸びた。

 二重底の裏から取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。数週間前、差出人不明の封書で届いた「誤差の計算式」。取り出された羊皮紙は角が擦り切れ、折り目に沿って繊維が毛羽立っていた。何度も何度も開かれた痕跡だった。


 式の構造は単純だった。祝福貨の赤色カテゴリと青色カテゴリの間で発生する変換誤差を、特定の口座群に対して時系列で再計算するだけの、ごくありふれた照合手順。

 式が指定する照合対象は、帝国の災害復旧基金。その下に連なる勘定科目群だった。


 エーリヒは羊皮紙を端末の横に置いた。

 レポートの口座番号群と、計算式が示す照合対象を、並める。

 07-3382系。


 エーリヒの指が、羊皮紙の上の数字をなぞった。そのまま水晶板の画面に移り、凍結レポートの番号列をなぞる。

 三週間前に計算式を走らせたとき、最も大きな誤差を吐き出した口座群の末端枝番号と、今夜凍結された口座番号が、数字の並びとして隣接していた。親口座と子口座。幹と枝。同じ木だ。


 蝋燭の炎が揺れた。

 廊下の清掃ゴーレムが方向を変えたのだろう。空気の流れがわずかに変わり、帳簿の端がめくれかけた。エーリヒはそれを指で押さえ、動かなかった。


 水晶板の光が、彼の眼鏡のレンズに反射している。

 端末に表示された照合履歴ログには、二つの異常が並んでいた。


 一つは、三週間前にエーリヒ自身が計算式を適用して検出した、赤青カテゴリ間の変換誤差パターン。もう一つは、今夜、監獄の帳場端末から発信された微小送金が引き起こしたトランザクション異常。


 二つの異常は、照合履歴ログの中で交差していた。

 計算式が指し示す「誤差の源流」と、凍結フラグが立った末端口座群が、同一の資金導管で繋がっている。上流で色を変え、中流でダミーを噛ませ、下流で末端口座に流し込む――その経路の全体像が、二つのログの重なりによって浮かび上がっていた。


 エーリヒの呼吸が、一つ分だけ長くなった。

 帝国の災害復旧基金。その予算の一部が、正規の会計帳簿には存在しない経路を辿り、名義の照会すらできない末端口座群に吸い込まれている。


 計算式だけなら、「理論上の仮説」だった。凍結フラグだけなら、「末端の不正送金」だった。だがこの二つが銀行のログ上で符合した瞬間、それは仮説でも末端でもなく、実在する資金経路の物証になる。


 椅子が軋んだ。

 エーリヒが背もたれから身を起こした音だった。

 水晶板の操作画面を、二階層深く開く。照合履歴ログの詳細ビュー。口座間のトランザクション・フロー図。赤い線と青い線が入り乱れ、本来あるはずのない接続が何十本も走っている。


 その接続の一本一本に、金額と日付が紐づいていた。


 エーリヒのペンが、帳簿の上に戻った。

 先端が紙に触れたまま、一文字も書かない。


 十秒。彼の視線が水晶板から帳簿へ落ちた。ペンが数字の行をなぞりかける。

 二十秒。ペン先が止まった。視線が、再び水晶板に戻った。

 三十秒。

 廊下のゴーレムの唸りが遠ざかっていく。第三監査棟の深夜は、紙とインクと蝋燭の匂いしかしない。

 四十五秒。

 水晶板の赤い菱形が、規則正しく明滅している。未処理 of 異常レポート。回答待ち。


 一分。


 エーリヒは帳簿を閉じた。

 ペンを置き、両手を水晶板の前に揃え、操作画面をもう一階層深く開いた。

「予備監査申請・承認端末」。


 銀行規定第七十三条。トランザクション監視系が最上位異常を検出し、かつ照合履歴ログにおいて複数の異常パターンが同一資金導管上で符合した場合、担当監査官は単独で「要再精査」の予備フラグを申請・承認できる。


 条件は満たしている。


 エーリヒの右手の人差し指が、承認ボタンの上で止まった。

 水晶板の光が、その指先を青白く照らしている。


 指が降りれば、異常スコアが閾値を超えた全ての口座群に暫定凍結が執行される。「要再精査」のフラグは、一度立てば銀行の内部記録から消えない。たとえ後から上位権限で凍結が解除されても、「異常があった」という記録そのものは残る。


 ペンを手に取り直すことは、もうなかった。


 指が、降りた。


 水晶板が一瞬白く発光し、承認完了の紋章が浮かび上がって消えた。


  *


 国家魔導銀行の保全系システムは、感情を持たない。


 承認が通った瞬間、それは設計された通りに動いた。

 照合履歴ログ上で符合した口座群――帝都第四支部管轄の「07」系を起点に、その親口座、さらにその上位の集約口座へと、自動追跡が走る。追跡が到達した口座のうち、規定の異常スコアを超えたものに対して、暫定凍結フラグが順次付与されていく。


 これは処罰ではない。「再精査が完了するまでの、予防的な措置」に過ぎない。

 だが、凍結された口座の持ち主にとっては、財布の紐を突然見知らぬ手で縛られたのと同じだった。


  *


 帝都、宮廷南翼の執務室。


「何が起きている」


 声の主は、レオンハルト派の財務次官だった。深夜の緊急呼び出しで駆けつけた彼の前には、青い顔をした経理官が三人並んでいる。


「第四支部管轄の口座群に予備監査フラグが――」


「聞いた。止めろ」


「止められません。銀行の保全系が自動で――」


「自動だと? どこが承認した」


「第三監査棟の……当直です。深夜帯の単独承認で――」


 財務次官の拳が机を叩いた。


「たかが監査棟の当直一人が、殿下の――」


「声が大きい」


 別の声が遮った。奥の扉から入ってきた男――宮廷の渉外担当官が、手袋を外しながら続けた。


「殿下の名前を出すな。今この瞬間も、切り抜き配信は全帝国に流れている。殿下の口座が凍結された、などという話が漏れれば――」


「漏れるどころか、もう銀行の内部記録に刻まれているんだ!」


 財務次官が書類を掴み上げた。凍結対象口座のリスト。数えるのも億劫なほどの口座番号が並んでいる。その大半は三層のダミーを噛ませた迂回口座だったが、追跡アルゴリズムはダミーの壁を三枚とも貫通し、本筋の資金経路にまで到達していた。


「末端だけじゃない。中間口座まで止まっている。このままでは――」


 渉外担当官が片手を上げた。


「銀行に直接圧力をかける。幹部を動かせ。今夜中に」


「しかし、予備監査フラグは承認済みです。規定上、取り消しには――」


「規定の話はいい。殿下に報告する前に、まず火を消せ」


 三人の経理官が、ほぼ同時に走り出した。


 執務室には渉外担当官だけが残った。手袋を片方だけはめ直し、窓の外を見る。帝都の夜景。切り抜き配信の光が、遠くのスクリーンにちらちらと映っている。


「……殿下には、まだ言うな」


 誰もいない部屋で、その声だけが落ちた。


  *


 地下牢。

 魔導格子の律動が変わった。


 ヴィオレッタは、それを聴いた。

 3-2-3-4-2。いつもの明滅パターン。だがその底流に混じっていた微細な震え――末端口座の凍結が決済網に落とした余波――が、性質を変えていた。


 震えが、広がっている。

 末端だけではない。中間層にまで波及している。決済網全体が、小さく身じろぎした。一時凍結の連鎖が、予想より深く走ったのだ。


 ヴィオレッタは手枷の鎖を鳴らさないように姿勢を変え、壁に背をつけた。格子の青白い光が、天井から等間隔に降りてくる.その光の周期を、数える。


 3-2-3――

 4-2の間。本来なら祝福貨パルスが通過するはずの空白。そこに、ごく微かな痙攣が混じった。


 保全系の自動追跡が走っている音だ。

 誰かが、承認ボタンを押した。


「――」


 声は出さなかった。代わりに、右手の親指が銀の指輪をゆっくりと回した。一回転。二回転。思考を整理するときの、彼女だけの癖だった。


 通信紙片が、熱を帯びた。

 左袖口の縫い目の裏。極小の羊皮紙が、受信を示す微かな温もりを発している。夜明け前の地下牢で、その温度差は皮膚で十分に感知できた。


 ヴィオレッタは手枷の遊びの範囲で左手首を傾け、袖口から紙片を滑り出させた。

 ミレイユの筆跡。いつもより大きく、荒い文字が並んでいる。


『殿下の口座が止まりました! 07系の末端だけでなく中間集約口座にも波及 保全系が自動追跡を開始 フラグは取消不可 やりました!!』


 二つの感嘆符。ミレイユにしては珍しい。よほど嬉しかったのだろう。


 ヴィオレッタは紙片を裏返した。

 右手の人差し指――指輪の嵌まった指を、紙片の表面に押し当てる。通信紙片は魔力を帯びた筆記具がなくとも、指先から微量の魔力を流せば繊維が焦げ付くように変色し、文字として定着する。手枷越しでも指の腹が紙面に触れれば足りる。


 ゆっくりと、一行。

 焦げた文字が浮かび上がっていく。


『早すぎる。これじゃあ「上」が出てくるわ』


 走り書きではない。急ぎもしない。いつも通りの、冷たく端正な筆跡だった。


 紙片を袖口に戻す。

 送信完了を示す微かな振動が指先に伝わり、消えた。


「上」。


 ヴィオレッタは天井を見上げた。

 予備監査フラグの成立は、計画通りだ。監獄から仕掛けた末端口座の凍結が、計算式の照合結果と合流し、銀行のシステム上で皇太子派の資金経路を可視化した。真面目な監査官は、真面目に仕事をした。数字の矛盾を見逃せない人間は、見逃さなかった。


 だが、速すぎる。

 ヴィオレッタの計算では、フラグの成立はあと十二時間ほど猶予があるはずだった。監査官が計算式とログを照合し、上司に相談し、規定を確認し、手続きを踏んで――その分の時間的余白が、ヴィオレッタにとっては「次の手を準備する猶予」だった。


 この速度。上への決裁を回していたら、あと半日はかかる。

 回していないのだ。おそらくは。


 真面目すぎたのだろう。規定が認める範囲で、最短の手順を選んだ。手続きに瑕疵はないが、慎重さという名のクッションもない。

 だからこそ、銀行の保全系は即座に自動追跡を開始してしまった。


 問題は、この速度だ。

 外堀を埋める手順が、まだ半分しか終わっていない。


 凍結は目立つ。音が大きい。皇太子の周囲だけでなく、もっと遠くにまで聞こえる。その「遠く」にいる何かが動いたとき、自分の手札でそれを凌ぎきれるかどうか。


 ヴィオレッタは目を閉じた。

 凌げない。今の持ち札では、まだ足りない。


 末端口座の凍結。計算式の照合結果。予備監査フラグ。地方塔からの稼働ログ。ミレイユが回収した第三枝の保全庫データ。


 どれも、レオンハルトとその取り巻きを追い詰めるためのピースだ。だが、レオンハルトは所詮――中間管理職に過ぎない。


 盤面をひっくり返す力を持つのは、もっと上にいる何かだ。それが何であるかを、ヴィオレッタはまだ正確には知らない。知らないが、存在することだけは分かる。なぜなら、レオンハルト程度の知能では――この規模の横領を、ここまで長く隠し通せるはずがないのだから。


 格子の光が一度消え、再び点いた。

 パターンは変わらない。3-2-3-4-2。だがその底に響く痙攣は、まだ収まっていなかった。保全系の自動追跡が、まだ走っている。


 ヴィオレッタは薄く唇の端を持ち上げた。笑みと呼ぶには、あまりに冷たい。


「監査官さん。あなたの正しさは、美しいわ」


 地下牢の闇に、声が溶けた。


「――でも正しさだけでは、この国の蓋は開かない」


  *


 国家魔導銀行、第三監査棟。


 エーリヒ・ヴォルフは、まだ席を立っていなかった。

 承認ボタンを押してから、どれほど経っただろう。蝋燭はいよいよ芯だけになり、水晶板の青白い光だけが彼の顔を照らしていた。


 保全系の自動追跡が走り続けている。端末の画面では、口座間のフロー図が刻一刻と更新され、凍結済みの口座が赤く塗りつぶされていく。


 一つ。三つ。七つ。十二。

 赤い点が増えるたびに、フロー図の全体像が変わっていく。末端の異常だったものが、中間口座を経由し、集約口座へ遡り、さらにその上の――


 エーリヒの指が、水晶板の縁を掴んだ。

 画面の最上流。自動追跡の赤い線がたどり着いた終点に、一つの口座名義が表示されていた。


 皇室直轄の特別会計枠。


 その名義は、帝国国民であれば誰でも知っている。全国中継の切り抜き配信で、毎日のように語られる名前だ。


 蝋燭が、燃え尽きた。

 暗闇の中、水晶板だけが光っている。


 エーリヒは動かなかった。水晶板の縁を掴んだまま、画面の最上流に浮かぶ名義を――ただ、見ていた。椅子は軋まない。呼吸の音すら、廊下のゴーレムの遠い唸りに紛れて聞こえない。


 その光の中で、彼の手だけが微かに震えていた。


 廊下の足音。

 清掃ゴーレムではない。革靴の、硬い音だ。一人ではない。三人か、四人。早足で近づいてくる。


 エーリヒは水晶板から顔を上げた。


 扉が開いた。

 最初に目に入ったのは、革靴でも軍服でもなかった。


 一人の老紳士が手にした、重い封筒。

 赤い封蝋。紫の房紐。

 帝国で――いや、この世界で、その紋章を見間違える人間はいない。


 双頭の鷲。

 皇帝陛下の、勅命の封印。


 それが、エーリヒのデスクの上に、音もなく置かれた。


「――お早い、お仕事ですね」


 老紳士の声は穏やかだった。だがその穏やかさには、深夜の凍結湖のような、一切の温度がなかった。


 エーリヒの唇が動いたが、声は出なかった。

 水晶板の光が、封蝋の赤を反射している。

 双頭の鷲が、デスクの上から彼を見下ろしていた。

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