第1話:リレーで始まる日
(面倒なことになったな)
秋晴れの空の下、俺はクラウチングスタートの姿勢を取りながら、乾いた土の匂いを吸い込んだ。
ざわめきと、少しだけ向けられる期待の視線が肌を刺す。
今日は運動会のリレー選手を決める選考会。
小学六年生にもなると、誰が速いかなんてクラスの全員が知っている。だから、この選考会も半分は形式的なものだ。
俺、春海 悠は、ありがたいことに、その「速いヤツ」という枠に入れられていた。
「悠なら余裕だろ」
隣のレーンに並んだ親友の篠原ユウトが、ニヤニヤしながら話しかけてくる。
「まあ、普通に走るだけだよ」
「その普通が普通じゃねえんだって。先生、ストップウォッチ二つ用意してるぞ。一個じゃ押し間違えるかもしれないからってさ」
(大げさだな)
でも、そうやって注目されるのは嫌いじゃない。
むしろ、ちょっとだけ気分が高揚する。褒められるのは、好きだ。
『位置について』
合成音声のアナウンスが響く。
深く息を吸って、意識を集中させる。
周りの音が遠くなり、自分の心臓の音だけが聞こえるようだ。
(やることは一つ。一番速く、あのゴールテープを切るだけ)
『よーい』
腰を上げる。
全身の筋肉がバネのように縮こまるのを感じる。
あとは、号砲の音に体を乗せるだけ。
パンッ!
乾いた破裂音と同時に、俺の体は弾丸のように飛び出していた。
◇
「……はっや」
誰かが呆然と呟くのが聞こえる。
ゴールラインを駆け抜けた俺は、ゆっくりとスピードを落としながら軽く息を整えた。
振り返ると、他の走者たちはまだゴールまで十メートル以上ある。
「春海、タイム、12秒18!」
計測していた担任の田島先生が、少し興奮した声で叫んだ。
その声に、見ていた生徒たちがどよめく。
「うそだろ、小学生の記録じゃねえぞ!」
「全国大会とか出れるレベルじゃん……」
ユウトが駆け寄ってきて、俺の背中をバシッと叩いた。
「お前、また速くなったな!」
「そうかな。いつも通りだよ」
俺は照れ隠しにそう答えながら、掲示板に張り出される自分の名前とタイムをちらりと見た。
うん、悪くない。
こういう結果が、俺にとっては一番分かりやすいご褒美みたいなものだ。
もちろん、男女二人ずつ選ばれるリレー選手には、文句なしで選ばれた。
◇
「だめだ、全然タイムが縮まらない……」
放課後のリレー練習。
選ばれたメンバーでバトンパスの練習を繰り返していたが、雰囲気は最悪だった。
原因ははっきりしている。
バトンパスが、めちゃくちゃに下手なのだ。
渡す側は受け手が走り出すのを確認してから恐る恐る走り、受け手は何度も後ろを振り返るからスピードに乗れない。
バトンが渡る頃には、ほとんど止まりそうになっていた。
「これじゃ、悠のリードなんてすぐ無くなるぞ……」
アンカーを務めるユウトが、不安そうに呟く。
他のメンバーも、すっかり自信をなくして下を向いていた。
(見てられないな……)
個人がどれだけ速くても、リレーはチーム競技だ。
このままじゃ、勝てるわけがない。
俺は黙って練習を見ていた田島先生の元へ歩み寄った。
「先生。ちょっといいですか」
「春海か。どうした?」
「バトンの渡し方なんですけど、俺にやらせてもらえませんか」
俺の提案に、先生は少し驚いた顔をした。
「やり方って……何か考えがあるのか?」
「はい。たぶん、もっと速くなります」
俺は他のメンバーを呼び集めた。
「みんな、ちょっと聞いて。バトンパスのやり方を変えたい」
「変えるって……どうやって?」
バトンを落とすのが怖くて一番萎縮していた女子が、おずおずと尋ねる。
「まず、受け取る人は、もう後ろを振り返るのをやめる」
「えっ、でも、それじゃいつ走り出せばいいか……」
「だから、それを決めるんです。合図を一つにする」
俺はコースの脇にあった小さなコーンを一つ拾い上げると、テイクオーバーゾーンの手前、数メートルの位置に置いた。
「走ってくる人は、このコーンを通過するときに、『ハイ!』って一回だけ叫ぶ。受け取る人はその声を聞いたら、前だけ見て全力でスタートする」
「……声だけで?」
「そう。手を見ない。振り返らない。信じて走る」
俺は続けた。
「で、一番大事なこと。渡す人は、絶対にスピードを落とさない。相手に追いつくつもりで、全力で走ってきてください。あとは腕を伸ばせば、勝手にバトンが収まるから」
みんな、きょとんとした顔で俺の説明を聞いている。
あまりにシンプルすぎて、信じられないのかもしれない。
「……でも、それで失敗したら」
「大丈夫。絶対うまくいく」
俺が断言すると、みんなの顔に少しだけ迷いが浮かんだ。
そんな時、田島先生がポンと手を叩いた。
「よし、分かった! 春海の言う通りにやってみよう!」
「先生……」
「いい提案だ。シンプルで、分かりやすい。もしこれで失敗したとしても、責任は全部私が取る。だから、思い切ってやってみなさい!」
先生の力強い言葉に、みんなの顔がパッと明るくなった。
不安が消えたわけじゃないだろうけど、やる気は戻ってきたみたいだ。
「……分かった。やってみる」
「私も!」
俺たちはもう一度、それぞれのレーンに散った。
最初の走者がスタートする。
俺は第三走者として、第二走者の女子が走ってくるのを待つ。
彼女がスピードに乗って、ゾーンに近づいてくる。
そして――。
俺が置いたコーンを、彼女の運動靴が踏み越えた。
「ハイッ!」
鋭い声が飛んでくる。
その瞬間、俺は前だけを見て地面を蹴った。
後ろは一切見ない。ただ、全力で腕を加速させる。
数秒後、右手にカチリと軽い衝撃が走った。
硬いバトンの感触。
(……よし!)
完璧なタイミングだった。
俺はトップスピードを維持したまま、アンカーのユウトに繋ぐ。
「ハイッ!」
「うぉっ!」
ユウトも練習通り、声に合わせて完璧なスタートを切った。
練習を終えた後、先生がストップウォッチを手に、信じられないという顔で固まっていた。
「……さっきより、全体で3秒近く速くなってる」
その言葉に、全員が「よっしゃ!」と声を上げた。
さっきまでの暗い雰囲気が嘘みたいだ。
「春海、すごいよ!」
「お前、なんであんなこと思いついたんだ?」
みんなに囲まれて質問攻めにされる。
「別に。見てたら、そうすればいいだけだなって思っただけだよ」
俺は少し照れながらそう答えた。
誰かの役に立って、結果が出て、褒められる。
やっぱり、こういうのは最高に気分がいい。
◇
運動会当日。
会場の熱気と大音量の音楽が、否応でも緊張感を高める。
クラス対抗リレーは、プログラムの最終種目だ。
俺たちのクラスは、序盤で少し出遅れていた。
第二走者からバトンを受け取った時、俺は三番手。トップとは五メートルほどの差があった。
(問題ない。想定内だ)
俺はコーナーで一気に加速する。
遠心力に負けないように体を内側に傾け、最短距離を駆け抜ける。
一人、また一人と、外側のレーンを走る選手を軽々と抜き去った。
直線に入った時には、トップに立っていた。
あとは、練習通り。
テイクオーバーゾーンが近づく。
アンカーのユウトが、前だけを見て集中しているのが分かった。
俺はコーンの目印を通過する。
「ハイッ!」
喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
ユウトの背中が、爆発するように飛び出していく。
スピードを一切緩めず、俺はユウトの右手にバトンを突き刺した。
完璧な受け渡し。
あとは、ユウトを信じるだけだ。
ユウトは俺たちが作ったリードを最後まで守り切り、一位でゴールテープを切った。
「やったー!」
クラスの応援席から、地鳴りのような歓声が上がった。
俺たちは抱き合って、逆転勝利の喜びを分ち合った。
◇
閉会式後の教室。
俺たちのクラスは、リレーの優勝トロフィーを囲んでお祭り騒ぎだった。
「春海、マジで神!」
「お前がいなかったら絶対勝てなかったよ!」
クラスメイトたちに次々を肩を叩かれる。
こういうのは、やっぱり何度経験しても嬉しいものだ。
「みんなで撮るぞー!」
先生がカメラを構え、俺はクラスメイトたちに促されるまま、トロフィーを持って真ん中に立った。
最高の笑顔で、ピースサインをする。
この写真はきっと、卒業アルバムに載るだろう。
後片付けが終わり、誰もいなくなった校庭を横切る。
掲示板には、今日の各種目の記録が張り出されていた。
俺はスマホを取り出し、クラス対抗リレーの記録が書かれた紙を、誰にも見られないようにこっそりと撮影した。
(うん、いい記録だ)
満足してスマホをポケットにしまった時、ふと父親に言われた言葉を思い出した。
『悠は、将来どうなりたいんだ?』
この前、出張から帰ってきた父さんと風呂に入った時に、何気なく聞かれたことだ。
その時は、なんて答えたんだっけ。
(……別に、何も考えてないんだよな)
『んー、分かんない。適当に、好きなことやって生きていきたいかな』
そう答えたら、父さんは「そうか」とだけ言って、笑っていた。
俺にとっての「好きなこと」って、こういうことなのかもしれない。
全力を出して、勝って、みんなに喜んでもらう。
それが今は、シンプルに一番楽しい。
(さて、帰るか)
校門へ向かおうとした、その時だった。
「おーい、春海!」
校庭の隅でサッカーをしていたグループから、声がかかった。
「さっきのリレー、めちゃくちゃ速かったな!」
「サンキュ」
「なあ、こっち今、一人足りないんだよ。キーパーでも何でもいいから、入ってくれよ!」
サッカーか。
ボールを蹴るのは、体育の授業くらいでしかやったことがない。
でも。
(まあ、やってみるか)
知らないことをやってみるのも、結構好きだ。
俺はみんなが待つ輪の中に、笑いながら駆け寄っていった。