プロローグ
『――さあ、ツーアウト満塁、一打サヨナラの場面!
バッターボックスには、この夏、彗星の如く現れた怪物、春海悠!
ピッチャー投げた! 高めのストレート!』
カキィン!
甲高い金属音を残し、白球は夜空に吸い込まれていった。
誰もが打球の行方を見失う中、ボールは遥か彼方のバックスクリーンに突き刺さる。
『打ったー! 起死回生の逆転満塁ホームラン! これで試合をひっくり返した!』
地鳴りのような大歓声。
その中心で、彼はゆっくりとダイヤモンドを一周する。
だが、彼の伝説はこれだけではない。
『――しかし、九回裏、一点差の緊迫した場面でマウンドに上がったのは、なんと、先ほど満塁ホームランを放った春海悠! 監督、これは一体どういう采配なんでしょうか!?』
『いやあ、常識では考えられませんね。しかし、彼の剛速球はもはやプロの領域です。賭ける価値はありますよ!』
実況と解説の声が、スタディオンの熱気をさらに高める。
その喧騒の中、彼は静かに、そして力強く腕を振った。
一人目、自己最速を更新する剛速球で見逃し三振。
二人目、唸りを上げるストレートで空振り三振。
そして三人目、相手チームの主砲を、魂を込めた一球で三球三振に斬って取った。
『試合終了ーっ! 投げては抑え、打っては決める! まさに怪物! 春海悠、伝説の始まりです!』
◇
『――さあ、中央でボールを受けた春海! 相手ディフェンダーが三人、四人と囲んでいく! 解説の松木さん、この状況、どう見ますか!?』
『厳しいですね! これはもうボールを失うのは時間の問題でしょう。若い選手ですから、無理せず一度後ろに下げるべきです!』
『しかし春海は前を向いた! 細かいタッチで相手を揺さぶり、一人、二人とかわしていく! まるで吸い付くようなボールコントロール!』
緑のピッチを、彼は風のように駆け抜ける。
相手の必死のタックルは、ことごとく空を切る。
『信じられません! 密集地帯を一人で突破してしまった! ついにキーパーと一対一だ!』
誰もがシュートを予測し、キーパーが飛び出してきたその瞬間――悠は、キーパーの重心が動くのを冷静に見極め、あざ笑うかのように、逆のコースへチップキックを放った!
ふわりと浮いたボールは、必死に手を伸ばすキーパーの上を越え、ゆっくりとゴールネットに吸い込まれていった。
『決めたーっ! なんという冷静さ、なんというテクニック! 敵陣をたった一人で切り裂いて、最後は優しいタッチでゴールを奪ってみせたーっ!』
◇
カンッ!
『さあ、ゴングが鳴りました! 無敗のチャンピオンに挑むは、無名の挑戦者、春海悠! 見てくださいこの体格差! まるで大人と子供です!』
『これでは勝負になりませんよ。怪我をしないうちにタオルを投げるべきでしょう』
観客の誰もが、彼の敗北を信じて疑わなかった。
しかし、リングの上で彼は、不敵な笑みを浮かべていた。
『おっと、チャンピオンの剛腕が春海を襲う! しかし、当たらない! 全て紙一重で見切っている! まるで未来予知でもしているかのようです!』
チャンピオンが焦れば焦るほど、その拳は空を切る。
そして、一瞬の隙が生まれた。
『あーっと! チャンピオン、大振りのフックが空を切った! 体勢が崩れたぞ!』
その瞬間を、彼は見逃さない。
カウンターの右ストレートが、閃光のようにチャンピオンの顎を打ち抜いた。
たった一撃。
『ダウン! ダウンだーっ! 巨体が崩れ落ちた! 立てない! これは決まったーっ!』
リングに訪れたのは、歓声ではなかった。時間が止まったかのような、完全な静寂。誰もが目の前の光景を信じられずにいた。
◇
『――続きましては、国際ピアノコンクール、最終選考。最後の演奏者は、春海悠さんです』
静まり返ったコンサートホール。
スポットライトに照らされた一台のグランドピアノの前に、彼は座っていた。
『解説の有馬さん、この春海悠というピアニスト、全くの無名ですが……』
『ええ、私も経歴は存じ上げません。正直、この大舞台でどのような演奏を聴せせてくれるのか、全くの未知数ですね』
観客席から注がれるのは、期待よりも戸惑いの視線。
その中で、彼はゆっくりと鍵盤に指を置いた。
次の瞬間、ホールは嵐のような音色で満たされた。
『なっ……この曲は……超絶技巧と言われる難曲中の難曲! なんという指の速さ、そして正確無比なタッチ!』
時に激しく、時に優しく。
指先から紡ぎ出される旋律は、聴衆の心を鷲掴みにして離さない。
『信じられません……。ただ技術が凄いだけじゃない。この音色には、魂が、感情が宿っている!』
演奏が終わった時、一瞬の静寂の後、ホールは割れんばかりの拍手に包まれた。誰もが立ち上がり、無名の天才に惜しみない賞賛を送っていた。
◇
『――彼は、走りません。まるで飛んでいるかのようです!』
陸上競技場では、百メートルを驚異的なタイムで駆け抜け、
『――水の抵抗という概念が、彼には存在しないのでしょうか!』
競泳プールでは、ライバルたちを置き去りにし、
『――さあ、始まりました、全国統一学力コンテスト決勝! しかし、なんだーっ!? 試験開始からわずか三十分! 一人だけペンを置いた選手がいるぞ! 春海悠だ! なんと満面の笑みで退室していくーっ!』
スポーツ、格闘技、芸術、そして学問。
あらゆる分野で、彼は常識を破壊し、頂点に君臨した。
後に”フィシカルモンスター”と呼ばれ、数々の伝説を作った男。
――春海 悠。
これは、そんな彼の物語が、どこにでもあるような、ごく普通の日常から始まる、ほんの少し前の話である。