その“真実の愛”の相手である娘は死にました
「きみを愛することはない。僕は“真実の愛”を見つけたんだ。こうしてきみの望み通り結婚はしてやった。だからそれ以上はなにも期待するな」
新婚初夜の寝所。ついさっき夫となったばかりの彼が、なんの捻りもない使い古されて擦り切れた雑巾のような台詞を、さもオリジナルであるかのような口ぶりで宣言するので、新妻は失笑を堪えながらも、にこりと微笑んでこう答えた。
「その真実の愛の相手である娘なら、死にましたよ?」
「……は?」
その切り返しは予想していなかったのか、夫は目を大きく開くばかりだ。せっかくの美形が台無しである。
泣くか怒るかを想像していたのだろうが、残念ながらこの新妻、少々性格に難があった。これまでの人生、泣いたこともなければ、憤ったこともない。ゆえに人の愛し方も、普通の人のそれとは違っていた。
新妻は再度、同じことをゆっくりとわかりやすく夫へと伝えた。
「ですから、その真実の愛の相手である平民の娘は、死んだと申しておりますの」
「……死ん、だ? そんなはずない」
「信じられません?」
信じようが信じまいが事実である。
この新妻、すでに夫に代わって愛人の清算を済ませていた。
結婚前の遊びなら目を瞑るが、仮にも入り婿なのだ。手切れ金を渡すなりなんなりして結婚前に関係を断っておくのが筋である。なによりそれが関係した相手に対する一番の誠意ある対応だ。
相手が貴族ならばまた対応が異なるが、調べるとどうやら相手は平民。豪商というわけでも、特異な才を持っているわけでもない、花屋勤務のただの小娘。
そうなるともう、どうなってもいい相手と判断されておかしくはないわけで。
ただの平民の小娘がこの由緒正しき伯爵家に喧嘩を売っているとあらば、多少心苦しくとも次期女伯爵としての対応をせざるを得ないのだ。
結婚した以上、夫の尻拭いは妻の仕事である。
まだ状況がよく理解できていないのか、唖然とする夫を新妻はうっそりと眺めた。
昨晩のことだ。独身最後の夜、この新妻は己の護衛騎士のひとりに極秘任務を与えた。そうしてその護衛騎士は、一晩のうちに任務を終え、今朝、その成果を報告しに来たのである。
「大変お待たせいたしました、お嬢様。ご命令の通り、ご婚約者様の“真実の愛”の相手である平民の娘、きっちりこの手で始末をつけて参りました」
白い手袋をはめたその手を胸に当てて、彼はにこりとした。人を殺して来たと思えないほど爽やかな微笑みである。
この護衛騎士、名をセレストと言う。見栄えよく使い勝手がいいので重宝してそばに置いてはいるが、ひと言で説明すれば“人でなし”である。
スラム街で拾ったときは野生の獣のようなものだったが、躾ければ元獣でも一端の好青年を演じられるようになるといういい実例だ。
「ご結婚祝いになりましたか?」
「ええ。これで憂なく今日の結婚式に臨めるわ」
「それはよかった」
セレストの表情も普段よりもずいぶんと明るい。擬態用の微笑みとは違い、かなりの上機嫌だ。平民の小娘をいたぶり殺すのがよほど楽しかったのだろう。平民の娘にとっては不幸なことだったかもしれないが、自業自得だ。
「僭越ながら、夫になられるあのお方は、いかがなされるおつもりですか?」
「もちろん、“真実の愛”を失って狂ったあの人を、“お飾りの夫”としてこれから大切に愛でていこうと思っているわよ。……ふふっ」
護衛騎士は余計なことは言わずに胸に秘めて、ただ微笑む。人でなしではあるが、躾の甲斐あって処世術は完璧だ。
「楽しみだわ」
「ええ。俺もとても楽しみです」
似た者主従は笑い合い、そうして新妻は晴れて夫と結婚したわけだが……。
この期に及んで、まだ真実の愛だなんだと愛人を肯定する愚かな口を利くとは。よほど考えが足りないようだ。まったく、躾甲斐のある夫である。
「政略結婚ですから、わたくしを愛さないことは、構いませんのよ。ですが、それとこれとは、話が別でしょう?」
寝台横のサイドテーブルから目当てのものを取り出すと、新妻は無造作にベッドの上へと放った。
それは寝室に似つかわしくない、無残に切り取られたとおぼしき、長い薄紅色の髪毛の束だった。
“真実の愛”とやらの平民娘の髪束である。髪束を括っているリボンは、夫がこの髪の毛の持ち主に贈ったものだろう。
これはセレストが嬉々として持ち帰って来た戦利品である。その姿はまるで狩った獲物を主人に見せびらかしに来る猫のようだったと、新妻は胸の中でひとりごちる。
「ひっ……!」
夫が腰を抜かして後ずさった。髪の毛ごときに大袈裟な反応だが、この新妻の加虐心を煽る行動としては満点だ。ゆっくりと弧を描く唇を湿らせて、身を屈めると夫の膝にすっと手を置いた。
「本当は眼球とか、いっそ生首でもよかったけれど……」
しかし生物と違って腐敗せず、長期保存性に優れているので、考え方によってはこちらで正解だったかもしれない。
新妻は長い髪を耳へとかけると、ぐっと身を乗り出して、揺らぐ夫の瞳を覗き込みながら追い討ちをかけた。
「もしかしたら、髪しか残らなかったのかも、ね……?」
恐怖に喘ぐ夫の瞳には、酷く愉しげな新妻の姿が綺麗に映り込んでいた。
夫の感情が、今、手に取るようによくわかる。新妻の言うことが冗談でないと、ようやくその愚鈍な頭にも染み渡ったようだ。
「っ、う、嘘だ、嘘だぁぁぁぁっ……!!」
愛した娘の顛末を悟り、絶叫して逃げ出した“お飾りの夫”の間抜けな後ろ姿を、頰に手を当てうっとりと眺めながら、新妻は鈴を転がすように、ふふっと笑った。
「今日からよろしくね、旦那様」
**
ずっと違和感はあった。
なぜその違和感を大事にして備えておかなかったのかと、ルリアは今、深い後悔をしている。
商家のご子息にしては金勘定が雑だな、とか。好きだ、愛している、一緒に暮らそう、僕の子を産んでくれ、と言うわりには、“結婚”のふた文字は決して出さないところとか。
騙されているんだろうなとは思っていたが、見て見ぬふりをしていた。
相手が何者であれ、余計なことを言って怒らせれば、損をするのはただの平民でしかないルリア自身だ。パッと見で身分がありそうな相手には、否定せず適当に話を合わせておくのが最善。不興を買って殺されるくらいなら、生きるための処世術として媚も売る。
自らを商家の息子と名乗ったその男は、周りの子にうらやましがられるくらいに顔がよかった。まるで舞台俳優のようなキザな台詞で、いつもルリアをお姫様扱いしてくれる。食事の代金は必ず出してくれたし、会う度に気前よくプレゼントをしてくれた。そんな風に熱心に口説かれれば、悪い気もしないわけで……。
平民なんてそんなものだ。なんとなく気が合うからつき合いはじめて、うまくいけば結婚、だめなら別れる。そしてまた新しい出会いがあればつき合い、だめなら別れる。その繰り返し。
とはいえ、身分の釣り合いの取れない相手との恋愛は不幸しか生まないことを知っていたルリアは、怒らせない程度に話を合わせつつ、決定的な関係にならないようのらりくらりと躱しながら友達以上恋人未満の関係を続けてきた。
いつかは結婚をして妻となり、子供を産んで母親になって、平凡でも身の丈にあった幸せな家庭を築く。それがルリアの小さな夢だった。
高望みしたことはない。無駄な野心などもってのほか。
だから、彼が商家の息子どころか貴族の子息であり、婚約者である伯爵家のひとり娘と明日結婚すると知ったとき、ルリアは当然ながら逃げようとした。
商家の子息ならばまだ正妻としての可能性もあっただろうが、貴族相手では、結婚どころか愛人にしかなれない。
それはルリアの思い描く将来とはかけ離れていて、どうしても受け入れられなかった。
そうでなくとも婚約者がいるのだ。
それなのにルリアを熱心に口説いていたということは、つまり、二股をかけようとしていたということで。
これがもし百年の恋だったのだとしても、一瞬で冷める衝撃事実だった。
突然部屋に乗り込んで来て、一方的に事情を捲し立てるように話す男に、ルリアは全身から血の気を引かせ、慌てて離れようとしたが、それはよくわからない理屈で拒まれた。
「別れるだって!? 僕らは真実の愛で結ばれているんだ! もしかして、僕のために身を引こうと……? ああっ、なんていじらしいんだ、ルリア!!」
まったく気持ちが伝わらない。それどころか有無を言わさず掻き抱かれて総毛立った。男の腕の中で震えながら、ルリアが一番はじめに思ったのは、「あ、これは、かなりまずいかも……」という危機感だった。
嬉しいだとか、そんなお花畑な感情は当然一切なく、ただただ先を想像して恐怖した。
彼の言い分は全然理解できないが、どうやら彼の中ではルリアはすでに恋人ということになっていて、しかも、真実の愛とやらで結ばれているらしい。
もし仮にこれが本当に真実の愛ならば、婚約を解消して平民になってでも、ルリアとの愛を貫こうとするのではないか。
そういう気概が感じられないのに、関係だけを続けようとするのは、この状況に酔っているだけのように思えてならない。
こういう人間はいざというとき、簡単に相手を切り捨てる。結局、一番愛しているのはなにより自分自身なのだ。
震えるルリアをどう受け取ったのか、彼はやたらと饒舌に語りかけてくる。
「あいつとは政略結婚なんだ。あいつとの間に愛はない。僕が心から愛しているのはきみだけだ。だけど三男の僕は、婿入りしなければ爵位を継げない……。後妻にはなってしまうけど、すぐにきみを呼び寄せるから、少しの間だけ待っていてくれないか?」
婚約者がいて、その家に婿入りする。愛人を囲っているだけでも常識外れなのに、ルリアを後妻にするということは、妻を殺して爵位を奪うということで……。
それを世間では“簒奪”と言う。
学のないルリアでもわかる簡単な方程式だ。簒奪=処刑。常識だった。
そうすればきみは伯爵夫人だ、と言われたが、平民は平民だ。後妻になったところで貴族になれるはずがない。なにより彼と結婚する気もなければ分不相応な玉の輿など望んでもいないのだ。
そもそもの話、相手は貴族。すでに彼の交友関係は調べ上げられており、自分たちは泳がされているだけなのではないか。
そう思うとますます恐怖や憤りで震えが止まらなくなった。
ルリアは平民。その命は軽い。きっと結婚前に伯爵家の手の者にさくっと始末されるのがオチ。
山に埋められるか、海に沈むか。それくらいならまだ慈悲がある方で、簒奪を目論んだ共犯者として、最下層の娼館送りになったり、鉱山送りになるという、長期的報復すらもあり得る状況なのだ。
とにかく、ルリアの未来はないに等しい。
平凡でも幸せな暮らしを夢見ていたはずなのに、なんでこんな真逆の展開に片足を突っ込まされているのか。
男運が悪過ぎて泣きそうだ。
愚かな簒奪男を適当に宥めすかして追い返した後、ルリアは大慌てで荷物をまとめた。
もちろん、夜逃げするためである。
こんなところにいては命はない。また一から生活の基盤を整えなくてはならないのはつらいが、死ぬよりまし。
プレゼント類は全部置いていこう。伯爵家からの持ち出しだったら問答無用で牢獄行きだ。
過去を捨て去り、新しい人生の扉を開こうと、ドアノブへと手を伸ばした――そのときだった。
コン、コン。
軽妙な音を響かせ、向こう側からドアが二回ノックされた。
あまりのタイミングに心臓が大きく跳ねる。あの男が戻って来たのではないかと必死に声を押し殺していると、
「騎士団の者です。二、三確認したいことがありまして。ドアを開けていただけますか?」
その声を聞いてほっとした。あの男が戻って来たわけではないらしい。
ドアにある覗き窓から見えたのは、紅茶色の髪をした優男風の騎士だった。左襟に騎士の身分証であるバッチがきちんとつけられている。偽物ではなさそうだ。
こんな時間に、と訝しく思ったものの、この辺りの治安は決してよいとは言えず、なにか事件でも起きていれば、深夜でなければ聞き込みに来てもおかしくはなかった。
騎士という身分がしっかりとした相手ということで、ルリアは躊躇いつつもドアを開けた。――開けてしまった。
彼はにこっと爽やかに笑うと、ルリアの肩をとんと軽く後ろへと押す。えっ、と思っている間に彼は室内へと土足で踏み込み、後ろ手にドアをバタンと閉めると、鍵をかけた。
その一瞬のできごとに、ルリアにできたことといえば、その場に尻もちをつくことだけ。
剣の柄に手をかけ、場違いな微笑みを唇に乗せた彼を、ルリアは呆然と見上げていた。
「相手が騎士だからと、簡単にドアを開けてしまうのは、いささか不用心だと思いますよ、レディ?」
その剣の刀身に彫られた紋章。それが簒奪男の婿入りする予定の伯爵家の紋章であると気づくと、ルリアは今度こそ卒倒しそうになった。
(お、終わった……。わたしの人生、詰んだ)
ルリアはその瞬間、死を覚悟した。
しかし生物としての本能がぎりぎりのところでルリアを叱咤し、部屋へと踏み込んで来た騎士から逃れるように、ずりずりと尻で後ずさる。
だが狭い室内。すぐに簡素なベッドに背中が当たって追い詰められてしまった。
悲鳴をあげれば、おそらくその瞬間に切り捨てられる。
ルリアは必死に生きるための知恵を振り絞って、今まさに自分を殺そうとしている相手へと、低姿勢で訴えかけた。
「こ、ここ、借家なんです……」
鞘から抜かれかけた剣の鋭さに悲鳴をあげて寿命を縮めそうになるのをどうにか堪えて、一瞬疑問符を浮かべて手を止めた相手に、畳み掛けるように言い募った。
「こ、ここでわたしを切り捨てたら、壁も床も血まみれになりますよね? そうなったらもう、ここは事故物件。今後借り手がつかなくなります。家主さんに申し訳が立たず、わたしは死んでも死にきれません…………ということなのですが」
「……?」
我ながら場違いな懇願だとは思ったが、今ここで切り捨てられさえしなければいい。
とにかく少しでも耳を傾けてくれればいいのだ。告発して情状酌量狙いでいこう。あわよくば巻き込まれただけの被害者として無罪放免になれないか。
すると彼は、すっと片膝をついてルリアと目線を合わせた。そのまま白い手袋を嵌めた手に、くっと細い首を掴まれる。
力を入れて絞められているわけではない。ほとんど指を這わせているだけだ。
それなのに、生殺与奪の権を完全に握られたのを肌で感じ取って、ひゅっと息を呑んでしまった。
「お望みなら、絞殺にしますか。始末しろと命じられはしましたが、始末の仕方までは指示されていないので、選ばせてあげられますよ?」
痛くないように殺してあげられますよ、と耳元であまく囁かれて脳が痺れる。どうせ死ぬのなら痛くない方がいいが、叶うのなら死にたくないのだ。
「殺したふりで、逃してもらえたりは……」
「俺が楽しくないので、無理ですね」
にこっ、と微笑み却下される。こんな状況でなければ感じのいい人だと思っただろう。だが残念ながら、人を殺してもなんとも思わないタイプの人間だとたった今判明した。でなければこの状況でこんなに楽しそうに笑っていられない。
「……あ、あなたが、わたしの殺害を命じられている、ということですか……?」
「そうですね」
それならばこの男から逃れられさえすれば、生存への望みが薄くとも繋がるということではないだろうか。
「死に方は、わたしが選んでいいんですよ、ね……?」
「そうですね。あの男の甘言に騙されただけだとわかっているので、それくらいの慈悲は差し上げましょうか」
ならば、とルリアは顔を上げて、目を合わせると挑むように言った。
「じゃあ、腹上死で」
「……は?」
素で驚いたような顔をする相手に、ルリアはもう一度繰り返す。
「腹上死で」
「…………」
どうしよう。沈黙が痛い。
だが殺されるのはきっともっと痛いはず。
あわよくば死にたくない。
貞操と命。そんなの比べるまでもない。
ルリアはまだ若い。営みの最中に突然心臓が止まることはないと信じたい。
そして相手が油断した隙をついて逃げよう。
それからどこか遠くで、優しい夫かわいい子供と三人で、平凡でも幸せな暮らしを送るのだ。
「腹上死でお願いします!」
ルリアは食い気味に言った。
「あなたに腹上死させられたいです!!」
**
セレストは屋敷の主寝室から転がり出て来た間抜けな男を眺めて、ふ、と嘲り混じりの笑みをこぼした。
新婚初夜なのに、夫としての最低限の務めすら果たせないとは、さすが“お飾りの夫”だ。
お嬢様はきっと、あの髪束を夫を追い詰めるための小道具として有効利用したのだろう。
それを見越して死体の代わりに髪束を証拠として渡したが、今振り返るとわりと綱渡りな賭けだったように思う。
結婚式直前の忙しさのおかげでうまく誤魔化せたが、バレていたらと思うと背筋が冷える。
髪とは平民にとっては邪魔なだけの代物だが、貴族令嬢にとっては命に等しい。死体を確認したいとまでは言われないとは思っていたが、どうやらあの髪束で本当に納得してくれていたようだ。
そうでなければ困ってしまうところだった。
見られるといささかまずいのだ。
なにせあの娘、まだ死んでいないのだから。
今はセレストの部屋のベッドで、頑丈な鎖で繋がれた上で死んだように眠っているが、死んではいない。
腹上死させるためにがんばってはいるものの、そう簡単に死なないのが腹上死である。
(生娘だったくせに……愚かだな)
言うことが大胆過ぎて実は娼婦なのではと思いもしたが、抱いてみたら普通に処女だった。思わず最中に声を上げて笑ってしまった。あの娘にはものすごく睨まれたが。
お嬢様の婚約者だったあの愚かな男は、本気で“真実の愛”の相手であるあの平民娘を大切にしていたのだろう。
純潔を守り大切にしていた平民の娘を寝取ったわけだが、お嬢様への仕打ちの意趣返しとしては順当なものではないだろうか。
なにせ向こうから抱いてくれと誘って来たのだから、セレストに罪悪感などかけらもありはしない。
それが一番死ぬ確率が低いと踏んでのことだろうが、彼女が真っ先に願うべきは、自然死であった。
叶えるかどうかは別として、一応選択の余地としてそれを残してやったのに、まさか腹上死を選ぶとは。
思わずにやけそうになり、セレストは口元に拳を当ててどうにか誤魔化す。
そもそもセレストはただの騎士であり、暗部ではないのだ。排除するよう命じられはしたが、実際に手を下すかどうかはわりと気分次第なところがあった。
確実に殺せと言われていたら殺すが、始末や排除という言葉には、どうとでも受け取れてしまう曖昧さがある。
崇高な騎士道精神を持つ騎士ならば、その言葉の曖昧さを盾に手心を加えて王都追放させたのだろうが、あいにくセレストは不良騎士。
しかも幸か不幸か、対象はお嬢様の婚約者が大切に囲い込もうと目論むくらいの、大変見目麗しい娘だった。若い娘らしい瑞々しさと、大人になる手前のほのかな色香を併せ持ち、しかも言動がなかなかおもしろい。すでに手がつけられているだろうなと期待せずに抱いたらセレストがはじめてと言う。それならばこちらも責任を取らなくては男が廃るだろう。
セレストは人のお下がりに興味がないので、何度か抱いて、飽きたら行為の途中で首を絞めてお望み通りに腹上死させてやろうと思っていたが、その瞬間、自分のものにすることを決めていた。
あの娘、起きたらびっくりすることだろう。いつの間にかセレストの家に運び込まれているのだから。しかも足首は鎖に繋がれて、もちろんドアには外から何重にも鍵をかけて塞がれている。うまく部屋を出られたとしても、着るものはすでに処分してあり、身に纏えるものはシーツ一枚。確実に逃げ道を塞いでいた。
元々セレストは独占欲が強く、恋人は繋いでおきたいタイプである。つまり鎖は、いつか使おうと用意していた私物だった。
どうせセレストの気分次第では死んでいたのだから、この先の人生をもらってしまっても構わないだろう。
逃げようと企んでいるのはわかっているので、ほどほどに鬼ごっこに興じてやってもいい。
セレストは優しいので、今はまだ足の腱を切ることまではしないが、ほかの男の元に走るようなら容赦なく両足を切り落とす。目移りしたらその目を潰すし、心惹かれたら心臓を抉る。
できればそうならないでほしいので、少しずつ洗脳して依存させていこうとは思っている。
そうせずとも順応性が高そうなので、近いうちに堕ちて来てくれる気はしているが。
本人は気づいていないかもしれないが、腹上死を望んだ時点で、セレストのことを抱かれてもいい相手として受け入れているのだから。
(これで子を孕んでいたら最高だな)
きっとなによりの足枷となるだろう。
そうなる前に、婚姻届にサインをさせて、名実ともに夫婦になっておこう。
子供を父親のわからない子にするわけにはいかない。……それだけは、絶対に。
セレストは普通の家族というものに、少しだけ憧れを持っていた。父親がいて、母親がいて、子供がいて。みんな笑顔で食卓を囲む。そんな普遍的な幸せを、セレストは絵本の中でしか見たことがない。
だけどセレストがいて、あの娘がいて、子供が生まれたら、その普遍的な幸せとやらを実現することが可能だ。たとえそれが、絵空事でも、家族ごっこなのだとしても、だ。
しかしそうなると今の部屋では手狭かもしれない。
そうと決まれば、家族で住める新居を探さなくては。
お金がかかるし、面倒ごとも増える。それなのにめずらしくセレストの気分は弾んでいた。
(……そうだ)
頃合いを見計らって、お嬢様にあの娘を妻として紹介しよう。
お嬢様はあの娘の、顔も名前も知らない。
“真実の愛”や“平民の娘”という記号でしか見ていない取るに足らない相手だ。
己の護衛騎士の妻に、たまたま似たような髪色の娘がいたところで、どうせ気づきもしないだろう。
**
「ルリア! ルリアッ!!」
その部屋のドアは鍵がかかっていなかった。
それをいいことに、初夜の寝所から這々の体で逃げ出してきた愚かな男は、愛する人の名を呼びながら中へと転がるように飛び込んだ。
明かりの灯らない室内はがらんとして寂しく、愛らしい笑顔を見せてくれていた彼女の姿はどこにもない。
男は手探りで明かりを灯す。
この瞬間まで、まだ男はわずかな望みを持っていた。愛する人は逃げただけで、どこかで男のことを案じながら待っていてくれているのだと。
だがそれも、室内の惨状を目にした瞬間に潰えた。
床には男物の靴跡がいくつも残されており、抵抗したのだろう乱れたシーツには、わずかに血まで滲んでいる。
それと――冷たい空気の中に残された、かすかな情事の後の匂い。
恋人の身になにが起きたのか、一から十まで理解した男は泣きながら膝から崩れ落ちた。
「ああっ、ルリア……!」
殺された。
あの女の言った通りだった。
愛する人は死んだのだ。
おそらくその身を穢され、尊厳を奪われてから、命すらも奪われた。
そしてその亡骸すら奪われて、残されたのはあの無残に刈り取られた髪の毛の束のみ。
真実の愛は、もう、どこにもない。
この世の、どこにも。
「ルリア……」
シーツを掴み、男は愛する人の死を嘆き慟哭した。
泣いて、泣いて、泣いて…………夜明けが訪れて、そして――。
「ああ、そうか……」
つぶやいた男は唐突に、ふらりとその場から立ち上がった。
長時間座り込んでいた痺れで足元こそおぼつかないが、その顔にはもう悲しみの色はない。吹っ切れたように溌剌として、その口元には笑みすら浮かべていた。
男は夜通し泣き続けて気づいたのだ。
真実の愛で結ばれているのなら、これほど簡単にふたりの仲が引き裂かれるはずがないのではないか、と。
きっとあの娘は、真実の愛の相手ではなかったのだ。
ほかの男に穢された女が、真実の愛の相手であるはずがない。
(ルリアは……あいつは、とんだあのアバズレ女だった)
危うく騙されるところだった。
殺してくれたおかげで、自分の手を汚さずに済んだのは幸いだったのかもしれない。
平民がひとり消えたところで、誰も騒ぎはしないだろう。だがいつまでもここにいては、変に疑いを持たれるかもしれない。
そうとわかればこんな薄汚れた狭い部屋に用などない。
男はゆっくりとドアノブを握って押し開き、清々しい風の吹く外へと一歩踏み出した。輝かしい朝の光が、男を歓迎するかのように道を照らしている。
「また探さないと……」
男にとっての、本当の“真実の愛”である相手を。
背後で閉まり損ねた半開きのドアが、風でキィキィと軋んだ音を立ててから、バタン! と勢いよく閉ざされた。
男は振り返りることもしなかった。
後ろに“真実の愛”がないことを、知っていたから。
最後までお読みいただきありがとうございます!
実は最初のタイトルは「腹上死でお願いします!」でしたが、さすがに問題しかないので今のタイトルに。
主役はルリアとセレストかな。
登場人物はみんな問題児です。
【人物紹介】
ルリア(18)
父は没落貴族の息子、母は平民
花屋の店員→セレストの妻
男運はない
この後、一度逃げ出すもすぐ捕まる
生きるために、これこそ望んでいた平凡な幸せだと思うことにした
命大事
セレスト(22)
護衛騎士
スラム育ち
母親の不貞のせいで、父親のわからない子として捨てられた過去あり
ある日お嬢様に拾われて護衛騎士に
外面はいいが、中身は鬼畜
人の痛みがわからない
監禁は最大級の愛情表現
お嬢様(新妻)(19)
伯爵令嬢
自分に生き別れた兄がいると知り、探して拾って護衛騎士にした
つまりセレストとは異母兄妹
わざとセレストをそばに置き、自分の息子に気づかない父親を見てにやにやしていた
人の痛みがわからない
好みのクズ男を精神的にいたぶるのが好き
簒奪男(23)
伯爵家の婿
簒奪を狙ったが失敗した愚かな男
顔はいいが頭は残念
人の痛みがわからない
“真実の愛”を捜索中