【第三章:理論と衝動(Theory and Impulse)】
そこだけ、時間が止まっていた。
破片だらけの宙域の中で、ただ一つ、異様な沈黙をたたえる“何か”。
それは残留物の一部を装って、息を潜めるように浮かんでいた。
シオン・エイセルの試験用ギア SD-TT-02t-E が、その正体不明の塊へと接近していく。
「……これは……なんだ?」
機体のメインアームが、そっとそれに触れる。
その瞬間、周囲の光が一瞬だけ滲み、モニターの表示がごく微かに震えた気がした。
機体のフレーム越しに、冷気のような震えが伝わってくる。
ゾクリ、と背筋に走る寒気。
次の瞬間、胸が締めつけられるような圧迫感が襲う。
「うっ……」
シオンは操縦桿から片手を離し、自分の胸元を押さえる。
手のひらに伝わる鼓動が、不思議と速くなっていた。
目を逸らしたい感覚と、確かめなければならない義務感がせめぎあう。
「……これは、エンジンの……コア?」
けれど、どんな理論も、この“鼓動”を説明しきれる気がしなかった。
それは形状こそ不格好な残骸のようだったが、
残骸と呼ぶには、あまりにも“意図”を感じさせすぎた 。
内部構造にわずかに残る“何か”が、シオンの目を釘付けにしていた。
「知っているはずのどの技術にも当てはまらない。S.O.L.Sでも、N.R.F.Cでもない。
それなのに、確かに“意図”がある……。
こんなものが、どこから現れた?」
そう呟いたとき、シオンの視界をかすかにノイズが走る。
次の瞬間、通信回線がザリ、と揺れた。
『……シオン、ダリオ……試験時間、まもなく終了……回線状況……やや不安……』
リアナの声が混じる。
完全に聞き取れないほどではないが、雑音混じりの奇妙な不安定さを帯びていた。
シオンは操作パネルを見つめたまま、短く息をついた。
「……確認不能構造物を仮確保。SD-TT-02t-E、帰投準備に入る」
メインアームを慎重に動かし、“それ”を抱えるように固定する。
ところが、掴んだ瞬間、関節部に負荷がかかったような音が響いた。
【!:右腕メインアーム第 2 関節ユニット、応力上限超過】
【!:機体出力安定装置エラー(制御バイパス発生中)】
「っ……!」
それが質量という概念に収まるかも、もはや定かではなかった ――
機体出力系に不安定な挙動が発生し始めていた。
「巡航は……問題ない、か。
でも……これじゃ回避機動なんて取れそうにない……」
シオンは静かにギアを旋回させ、帰還ルートに乗せる。
シオンの背中で揺れるのは、光を拒むような塊だった。
その形は、残骸のそれには遠く、まるで存在そのものが“そこに在ってはならない”と告げているようだった。
まるで、宇宙の“ひび割れ”を抱えて帰るかのようだった。
その様子を、ダリオ・レーンは何も言わずに見ていた。
わずかに表情を曇らせ、そしてブースターを点火する。
二機のソルディギアがゆっくりと姿勢を整え、
そのまま、小型艦へと帰還していった。
この判断が、後にどれほどの影響を及ぼすかなど――
今の彼には、まだ知る由もなかった。
──帰還から数十分後。整備ハッチの片隅。
「――で? どうして試験機が戻ってきた時に関節軸が歪んでたんだ?」
中隊用の格納エリアに戻ったばかりのソルディギアを背景に、グラン・マルティノ大尉の声が響いていた。
その正面で、シオン・エイセルがまるで説教中の生徒のように立っている。
「……想定よりも質量があり、出力に余剰負荷が……申し訳ありません」
「“残留物”を掴んで“想定外”って言う技術士官があるか」
「返す言葉も……ございません」
声をひそめるシオンの肩が、小さく落ちる。
「また一発かましてくれたな、シオン」
カイル・ブロムは、どこか皮肉めいた笑みを浮かべながら背後に立っていた。
「メインアーム歪めて帰ってくるやつ、初めて見るぞ、こんなの。ていうか中破一歩手前って言ってたぞ、整備班」
「言ってくれるな。帰り道、誰かさんはモニタ越しに船旅気分だったくせに」
「……寝てたわけじゃねえってば!リアナがずっとモニタで見てたし!」
ふたりのやり取りに、後方でログ確認していたリアナが苦笑する。
「まあまあ……でも戻ってきたとき、ほんとにパネルがずれててびっくりしたのは事実よ」
その言葉で、シオンが再び小さく肩を落とす。
「……さて」
一瞬の静寂ののち、グランの声が落ち着いた調子で響く。
「冗談はそこまでにして、本題だ」
……だが、室内に流れる空気には、どこか張り詰めた“予感”が混じっていた。
まるで、何かが――違う歯車を噛み始めたかのような、静かな異音のような感覚。
傍らの仮設収納ユニットに収められた、黒く歪な“それ”――
未登録の構造体、いまだ正体不明の回収物。
その解析報告と、処遇の判断が問われていた。
「……現時点では断定できませんが、“出力源”の痕跡が見られます」
シオンが資料を手に、慎重に言葉を選ぶ。
「ただし、**S.O.L.S(太陽系複合式)**にも、**N.R.F.C(核融合系)**にも該当しません。
現時点では、アグノテウム側の既知技術とは一致しない構造と見ています」
「つまり、未確認のものとみていいだろう」
グランが腕を組んで、低く言った。
「処分対象として凍結もありえる。……だが、それで納得するか?」
その言葉に、ダリオ・レーンが静かに首を振った。
「今、敵の技術を解析できる唯一の機会かもしれない。
シオンの判断で回収したものなら……無駄にはしない方がいい」
シオンが驚いたように彼を見る。
ダリオはいつも通りの、感情をほとんど見せない声で続けた。
「ただし、リスクは全て自分で負うことになる。
その覚悟があるなら、続けろ。……シオン」
一瞬、誰も声を発さなかった。
言葉が喉の奥に引っかかった。
あれを持ち帰った判断は、きっと後悔することになる――そう思っても、他に手はなかった。
ふと横を見ると、カイルが黙ってこちらを見ていた。
ただその目に、いつもの軽さはなかった。
「……はい」
その一言に、グランはわずかに目を細め、何も言わずに背を向けた。
……その背には、答えを求めぬまま、全てを預ける者の“無言の圧”が宿っていた。
会議室には、一時の沈黙が満ちた。
シオンの視線が、ふとあの黒い構造物へと向く。
確かな形があるはずなのに、どこか“そこにいない”ような奇妙な存在感。
思わず、指先が小さく震えていた――それに気づき、手を組み直す。
……まだ、それが何かはわからない。
だが、ただの残骸ではないことだけは、感覚が告げていた。
その空気を、突如としてアナウンスが切り裂いた。
『こちら艦内オペレーション。全乗員に告ぐ――現在、管轄宙域において緊急事態が発生』
リアナの声だった。
会議室にいた一同が、顔を上げてざわめきはじめる。
「……まさか、未確認か?」
カイルが真顔で呟く。
シオンとダリオも、自然とコンソールへ手を伸ばしかける。
そのとき、アナウンスの続きを伝えるリアナの声が再び響いた。
『敵影確認。所属は“セリグマ律廷”――未確認ではありません。
当該部隊は現在、本宙域へ進入中。
全戦力は戦闘準備態勢へ移行、交戦の可能性に備えよ』
“一同が知るはずのない名”ではなかった。
セリグマ律廷――
技術そのものを「神の理への冒涜」と断じ、禁忌とされた兵装や理論に“裁き”を下す宗教軍事組織。
領土を持たぬ彼らは、なお三つの聖域コロニーを拠点とし、戒律と鉄によって結束していた。
その名が響いた瞬間、司令室の空気は凍りついた――
まるで、かつての戦火の記憶が、現実に呼び戻されたかのように。
アグノテウムと幾度となく火花を散らしてきた“公然の敵”――その執念は、過去の戦禍の記録にすら焼き付いている。
リアナはわずかに息を止め、カイルの表情からも冗談めいた色が消えていた。
誰もがわかっていた。これは、“現実の戦争”が始まったという合図だ。
「……そう来るか。あいつらが、今ここに――」
グランの低い声が、現実を噛みしめるように宙を這った。