水原 鈴歌 - ふたりの天才(下)
『さ、澪ちゃんは教室に戻ろう。先生はもう少しお話が……』
『せんせいの、ウソつき』
『――え?』
『あたしはほめて、すずかちゃんはおこる。そういうの〝さべつ〟っていうんだよ』
澪は私にとって、まさに理想の「いい子」だった。「いい子」になることは私の人生における最初の目標であり、社会からあぶれた私の憧れだった。
お前が私の人生に現れてから、私はさらにひねくれた。疎ましくて、羨ましくて、大した努力もせずに私を打ちのめす澪が大嫌いだった。
どこで顔を合わせようが、金輪際話はしない。よほど鈍い人間でなければ嫌われている、避けられていると察するだろう。
『せんせいなんて、きらい。だいっきらい!』
『な、何を言ってるの? 園長先生も何とかおっしゃってください!』
『すずかちゃんにあやまれ。いますぐ、あやまれ!』
それなのに、澪は私を弁護した。自分を嫌うアンチの肩を持った。
その瞬間、この私に劣等感という名の屈辱を与えた唯一の人物、ついさっきまでいけ好かないと思っていた横顔が、やけに頼もしく見えたんだ。
他人に興味のなかった私が、初めて自分から近づきたいと思った。澪のことをもっと知りたいと思った。あの時の担任の顔ときたら傑作だったぞ。
園長先生が中庭に通じるガラス戸を開けた。澪は目を輝かせ、私の手を取って『いこう、すずかちゃん!』と強引に外へ連れ出す。
園庭に植えられている桜の花びらが風に舞った。そうだ。あの日、あの瞬間から、灰色だった私の世界は鮮やかに色づき始めたんだ。
* * *
『――よかったのか?』
『なにが?』
『わたしのみかたをしたら、きらわれるぞ。みおは、それでいいのか?』
夕方、ともに医師である私の両親から「急患が入ったから迎えに行けない」と園に電話があった。
代わりに澪の母親、流華おばさんが迎えに来てくれるまで、私たちは誰もいなくなった夕暮れの教室に二人きりで話をした。
不思議なことに、彼女なら私のことを理解できずとも無条件で受け入れてくれそうな気がして、誰にも言えずにいた胸の内を明かすことができた。
本来ならまず礼を言うべきだったのに、我ながら素直じゃなかったな。
『しーらない。だって、すずかちゃん、カッコよかったもん』
『かっこよかった? わたしが?』
『うん。せんせいよりも、ずーっと!』
他人から嫌われようが、私の味方をする。そう豪語する理由が「格好よかったから」だと? 馬鹿馬鹿しい。お前の思考回路は年齢相応かそれ以下のようだな。
だが、その馬鹿げた理由こそ澪らしい答えだと私は感じた。自らの利にならなくても、自分の信念や琴線に触れたものに従う。自分という存在を貫き通す。
その在り方に、私は理想を見出した。私もそうありたいと思ったんだ。
『ねえ、すずかちゃん』
『なんだ』
『あたしたち、ともだちになろうよ』
あれからお互い少しだけ大人になって、自然と澪をねたむことはなくなった。道を曲げなかった私とは対照的に、彼女は「普通」になることを覚え、良くも悪くも凡才となってつまらない社会に溶け込んだからだ。
今では逆に私のほうが「脳みそ半分よこしやがれください!」と言われているが、あのファースト・コンタクトから澪への印象は変わっていない。
『しかたないな。とくべつだぞ』
『えへへ、やったぁ!』
『……なーんだ、心配して損した。いつの間にか仲良くなっちゃってまあ。園長先生ったら、脅かさないでくれます?』
『いやあ、本当に今朝まで目を合わそうとすらしなかったんですよ。本当ですよ』
『同族嫌悪っていうか、そーいうアレだったんですかね』
『そういうアレだったんでしょうなあ。でも――彼女たちはきっといい大親友になりますよ、川岸さん』
澪。誰が何と言おうが、お前は自慢の幼なじみで――親友だ。
いつか敵が現れたら、私も一緒に戦おう。つらい時は肩を貸すから、共に歩もう。
「あたしは〝神〟になんてなりたくなかった!」
「なら、ともに終わらせよう。この物語を、私たちの手で」
だから、泣くな。諦めるな。何でも独りで抱え込むな。
天才には、いつだってこの天才がついているのだから――。
-了-