第59話「空腹」
今日は、緑間雷貴にとって不運な一日と言える。
事の発端は朝。充電器が睡眠中に壊れたらしく、目覚める頃にはスマホの電源が落ちてしまっていた。当然、全幅の信頼を置いているアラーム機能も作動しない。カーテンの隙間から漏れる陽光によってどうにか意識を覚醒させることができたが、時間を確認することすらままならないため、リビングの壁に掛けられた時計を見てようやく、遅刻寸前の状況に置かれていると理解した。
幸い、最悪な事態は免れたものの、慌てて準備をすれば忘れ物の一つや二つするだろう。学校に到着した彼は鞄を確認して、あるべきものがないことに気づいた。
弁当だ。せっかく作ってもらったというのに、台所に放置したまま家を出てしまっていたらしい。
朝食を取れていないせいか、その絶望は深い。今日に限って両親は共に家を空けているため、誰に届けてもらうこともできなかった。
だが、心配することはない。学食に行けば、なんらかを口にすることはできるはずだ。そう思い鞄をまさぐった彼は、二つ目の忘れ物によって抱いた希望を粉々に打ち砕かれた。
財布までも、家に置いてきてしまっていたのだ。
「今日はとことんついてないなあ……」
廊下を歩きながら、雷貴は一人呟く。
空腹を耐えに耐え、ようやく訪れた昼休み。級友から借りた小銭を手に学食へと向かったが、臨時休業の文字がでかでかと掲げられていた。
ならばとパンの出張販売に向かったが、既に長蛇の列が。なんとか最後の一つを買うことができたが、朝から水しか摂取していない胃袋が満足してくれるとは思えない。午後も引き続き空腹と戦うことになると思うと、気が滅入りそうだった。
「……ん?」
気分転換に、普段は使わないような場所で昼食を取ることにしよう。そう思い、校舎の中を当てもなく彷徨っていると、見知った顔が視界に入り込んできた。
「千歳!」
屋上への扉と床を繋ぐ段差に腰掛ける、一人の少女。昼食の最中だったようだが、雷貴の存在に気づくと弁当を置き、口に含んだものを慌てて飲み込んだ。
「……こんにちは、緑間先輩」
ポケットティッシュで口元を拭ってから微笑んだ彼女の名は、七五三千歳。下に縁がついている眼鏡と、茶色のボブカットが印象的な、小柄な少女だ。
鋭才学園中等部の三年生であり、かつて同じ委員会に所属していた縁もあってか、今でも時折連絡をくれる。後輩のなかでは間違いなく、最も親しい相手と呼べるだろう。
「ああ、こんにちは。っていうか、どうして高等部の校舎にいるんだ?」
中高一貫とは言え、棟が異なるため両者の交流はほとんどない。普通に学校生活を送るだけなら、千歳がこの場を訪れることはまずないのだ。
「まさか、千歳……」
その言葉に、彼女は肩を大きく振るわせる。それから、雷貴が続けるよりも早く口を開いた。
「ち、違います! 友達がいないとか、いじめられてるとか、そういうわけじゃないです! 私は……!」
「わかったわかった。とりあえず落ち着けって」
その必死さが逆効果になりそうな弁明だったが、嘘をついている様子ではないと、雷貴には理解できている。
ただ、心配していたのは事実だ。
千歳は、敵を作りやすい性格をしている。彼女に非があるわけではない。むしろ、正しすぎると言えるだろう。
善悪の区別がはっきりとしていて、どんな些細なことでも見過ごせない。正義感の強い彼女に、雷貴は好感を抱いている。ただ、皆が皆、自身のようには思えないこともまた、理解していた。
「隣、いいか?」
千歳の頷きを確認した後、雷貴は彼女の隣に腰掛ける。袋からパンを取り出し、かぶりつく前に再び口を開いた。
「で、どうしたんだ?」
質問の後にパンを噛みちぎり、千歳の返答を待っている間、咀嚼する。揚げられた衣が、口内で小気味良い音を立てていた。
「『神』について、調べてるんです」
抽象的な存在についてではなく、先日、全人類に向けて交信してきた、あの声のことだろう。先の質問と直接繋がる答えには思えなかったが、雷貴は口を挟まずに手元のパンを味わい続ける。
「色々と可能性を挙げた後、手当たり次第に調査を続けてるんですけど……とある情報を持ってる人が、高等部にいると聞いて」
「ふーん」
咀嚼している最中だったため、雷貴は鼻で返事をした。質問を続けるべく、自販機で買ったお茶とともに口内のものを飲み込む。
「何か、手掛かりは掴めたか?」
「ええ。ただ、実際に情報を持ってる人は外部にいるみたいで……放課後、その人を紹介してもらえることになりました」
「そっか」
たらい回しにして遊ばれている可能性も否めないが、それは千歳自身考慮していることのはずだ。故に、雷貴は指摘することなく彼女に微笑み返した。
「どこまで行くんだ?」
「駅にあるファストフード店で落ち合う予定です」
「相手は? どんな人なんだ?」
「この学校の卒業生らしいですよ。それ以上は教えてもらってないですね」
「へえ……もし良かったら、俺も一緒に行くよ」
ただ揶揄われているだけならまだいい。問題は、相手が悪意を持って彼女に接している可能性が考えられるという点だ。杞憂かもしれないが、安全を保障できなそうな場所に少女一人で向かわせられる程、雷貴は楽観的ではなかった。
「大丈夫ですよ。いざというときの自衛手段も考えてるので」
不敵に笑う千歳。その場凌ぎの嘘には思えないが、雷貴の懸念は消えない。ただ、これ以上言葉を続けても返事は変わらないだろうと理解し、自身の口にパンを放り込んだ。
「……そういえば、緑間先輩のお昼、それだけですか?」
「ああ。今日は色々と不幸が重なって……」
思い返すだけで、涙がこぼれそうになる。未だ不満を訴えている胃袋を宥めるかのように、お茶を流し込んだ。
「それで足りるんですか?」
「足らせるしかないな。頑張るよ……」
普段戦っている相手が、睡魔から空腹へと変わるだけだ。意識を保っていられる分、後者の方が良心的かもしれない。そう思わなければ、やっていられなかった。
そんな雷貴を見て何を思ったか、千歳は箸を置いて、弁当箱を差し出してくる。
「良ければ、少しどうですか?」
箱の中には、彩り豊かなおかずが広がっていた。食べ始めたばかりなのか、空白は少ない。
美味しそうな見た目と、匂い。少ないながらも食事を終えた後だというのに、涎が誘発されそうになる。
「え、いや、さすがに悪いよ」
嬉しい申し出だが、そう易々と受けるわけにはいかない。空腹のあまり後輩から食事を奪ったなどと知れたら、先輩としての沽券に関わる。少なくとも、絶望と空腹に襲われていた今の雷貴にはそう思えていた。
「いえ。今日は多く作りすぎちゃって、困ってたんです。休み時間もあと僅かですし……手伝ってもらえると助かります」
「これ全部、自分で?」
「ええ。うちの両親は忙しいので……なるべく、身の回りのことは自分でやるようにしているんです」
まだ中学生だというのに、人間が出来すぎている。千歳はこんなにも立派なのに自分と来たら、と、雷貴は自身のことが急激に恥ずかしくなった。
「どうですか?」
「……なら、ありがたくいただこうかな」
そう返された千歳が、咲くような笑顔を見せる。それから、おかずの一つを箸で掴んで雷貴の口元へと近づけた。
「では……どうぞ」
「いや、自分で食えるよ」
苦笑いして顔を離しながら、雷貴は告げる。
そんな反応の何が気に食わなかったのか、千歳は顔をしかめてから彼の名を呼んだ。
「残念ながら、お箸は一つしかありません。食べる度に渡し合うのも、些か非効率的です。と来れば、持ち主である私が緑間先輩の口にこれを運ぶのは、なんらおかしくない、最善の選択肢だとは思いませんか?」
言い終えるとともに、千歳は微笑を浮かべる。完璧な理由づけができたと思ったのだろう。
その意図こそわからないが、意地でも直接食べさせるつもりだということは雷貴にも理解できた。
「……わかったよ」
雷貴は諦めて口を開く。
その中にゆっくりと運び込まれたおかずは、ほんのり温かかった。




