第56話「バリカン」
緑間雷貴は、日本在住の、なんの変哲もない高校生だ。幸いにもそれなりに裕福な家庭に生まれ、名の通った私立高校に通い、学友にも恵まれ青春を謳歌してこそいるものの、平凡と言って差し支えない程度の存在であるとも自覚している。
このまま、さして珍しくもない、されど決して軽んじることはできない、穏やかで平和な日々を送り続けるのだと、彼はそう思い込んでいた。
だが、所詮は思い込みに過ぎなかったことを、これまたなんの予兆もないありきたりな朝に思い知らされることとなる。
「眠いなあ……」
大きなあくびをしてからそんなことを呟き、自宅の階段を下る雷貴。眠気を覚ますべく、リビングではなく洗面所に直行した。
「ん……?」
鏡に映る自分の姿に、違和感を覚える。
自身の髪色が、変化しているように見えたのだ。
寝ぼけ眼故か、あるいは意識自体が未だ夢の中にあるのか。いずれにせよ、顔を洗えば解決することだろう。それはそれとして、今日こそ早く寝なければ────そんなことを考えながら冷水で洗った顔を再び鏡に向けて、驚愕した。
「ど、どうなってんの、これ……?」
髪色が、赤紫へと変化したままだったのだ。
いや、それだけではない。よく見てみると、瞳の色も緑に変化しているのが確認できた。
日本人の髪と瞳は、大半が黒色だ。雷貴も例に漏れずそうだった。それらの色を変えたり、変わったように見せることは特別難しくないが、そんなことをした覚えはない。というより、校則で禁じられているためにできない。
平凡故に、常識は持ち合わせている。わざわざ、定められた規則を破るようなことはしない。
ともかく、である。頬を叩いてもつねっても視界が切り替わらない以上、自らの身に起こった異変が事実であることを認めざるを得なかった。
「まさか、母さんが……?」
少しばかり天然の入った母上殿であれば、やりかねないいたずらだ。そんな失礼なことを考えながら、雷貴は駆け足でリビングへと向かった。
「母さん!」
扉の先にいた人物を見て、雷貴は更に驚かされることとなる。
椅子代わりの脚立に腰掛ける彼の母親もまた、同様に髪色が変化していたためだ。
色は黄緑。都会ですらなかなか見ないような蛍光色だったが、真に驚くべきはその奇抜な容姿よりも、普段となんら変わりないその雰囲気に対してだろう。
「らいちゃん、どうしたの? そんなに慌てて。怖い夢でも見た?」
「いや、髪の色! 眼の色!」
「あら?」
息子の言葉を受けて、彼女もようやく気づいたらしい。首を傾げてから、雷貴の母親は再び口を開いた。
「髪、すごいことになってるわねえ」
「母さんもだよ!」
「ええ、本当?」
雷貴はポケットからスマホを取り出し、母親の姿を写真に撮る。それから、彼女の隣に立って画面に映る現状を見せつけた。
「やだ、本当じゃない。誰のいたずら?」
「なんで今気づいたの……まあいいや」
あまりに呑気な声色であるため、驚いているようには感じられない。ただ、家族である雷貴には、彼女がとぼけているわけではないのだとわかった。
(もしかしたら、俺たちだけじゃなくて……)
現代において、個人が情報を得る手段は多岐に渡る。大抵の情報は、無限に広がるインターネットの海の中から、この手に握る端末一台で探し出すことができるようになったのだ。
今回の件。もし、同じような現象が他の人々にも起こっているのだとすれば、誰かしらがその旨を発信していてもおかしくはない。
そう思って光らせた画面に映し出されていたのは、夥しい数の通知だった。
「うわっ」
雷貴は頬を引き攣らせる。
それらの始まりは十分程前らしい。通知そのものよりも、それらが鳴り響いていても全く気づけなかった自身の熟睡加減に恐れ慄いていた。
送信者は様々だが、ほとんどが雷貴の級友だ。その内容から、やはり、二人以外の身にも同様の現象が起こっているらしいと確認できた。
(返信してる暇はないな……)
何故、このような事態が発生しているのか。それを探るべく、通知は無視したまま検索サイトを立ち上げる。幸い、それらしき単語をいくつか並べただけで、望んでいた情報へと辿り着くことができた。
そこに記されていたのは、世界規模の感染症や突然変異、果てには宇宙人による侵略の第一歩など、推測と呼ぶにはあまりに飛躍した予想の数々。
どうやら、世界各地で同じ瞬間に発生した現象のようだが、そう時間が経過していないらしく、公的な調査も始まっていないために原因を究明できていないとのことだった。
「何かわかった?」
「俺らだけじゃないらしい、ってことだけだね。他に、大したことは書いてな────」
サイトを閉じようとした雷貴だったが、映し出されたとある文章が目に留まったことで、その手を止める。
それは、つい数時間前に日本国内で発生した事件についての記事だった。ある一人の男が放火したことで、辺り一面の建物が全焼したという悲惨なものだ。
それだけでも充分、衝撃的な内容ではあるるのだが、雷貴の目を引いたのは犯行の手段だった。
「犯人はどこからともなく炎を出現させ、自由自在に操るようにしながら被害を拡大させていった……?」
あり得ない。声に出して読みながら、雷貴はそんなことを考えた。
人間がなんの道具も使わずに、身一つで火を発生させるなど、不可能だ。きっと、何かの見間違いか、あるいは記事それ自体が嘘なのだろう。そう思いつつ別のサイトを開くも、同じような内容が目に飛び込んできた。
どうやら、これまた今日未明から、奇妙な事件が立て続けに発生しているらしい。真偽の程は不明だが、時間帯からして容姿の変化と何か関係があるのかもしれない。
「……あ」
ふと、気づく。スマホの上部に示されている時刻が、かなり進んでいることに。
これ以上、答えの出ない問いに挑んでいる暇はない。高校入学当初に立てた、三年間無遅刻無欠席の目標を達成するためにも、そろそろ動き出さなければ。
雷貴は支度を進めるべく、ポケットにスマホをしまってからトイレへと向かおうとした。
「らいちゃん」
声の後、肩に手の感触が。
何用かと思い振り返った雷貴の目には、慌ただしい朝の始まりには似つかわしくない電気製品を握った、母親の姿が映っていた。
「……何、それ」
「バリカンよ」
「いやそれは見ればわかるけど」
バリカン。髪を短く刈るための製品だ。
電源を入れられ、山形の二枚刃が往復運動を始める。まさかと思った雷貴が一歩退くと、開いた距離を詰めるように母親も一歩踏み出してきた。
「なんで、朝からバリカンなんて持ってんの……?」
「だって、あなたの学校、染髪禁止じゃない。それなのに、そのまま学校行くわけにはいかないでしょ?」
「いや、こればっかりは例外でしょ! 自分でやったわけじゃないし、原因もわかってないし!」
「お母さん、校則を破るのは良くないと思うなあ」
「話聞いてる!? ノータイムバリカンはさすがに覚悟決まりすぎだって! せめて学校に相談してからにしようよ!」
じりじりと接近されることで雷貴は部屋の隅へと追い詰められ、逃げ場を失ってしまう。万事休すかと思われたが、母親の歩みはなんの前触れもなく止まった。
「……わかった」
俯いてからの、呟き。
自身の想いがようやく届いたかと雷貴は感動すら覚えそうになっていたが、直後、事態は思わぬ方向へと進むこととなった。
「なら、お母さんが先に坊主にする!」
「何言ってんの母さん!?」
「大丈夫! らいちゃんを一人にはしないから!」
雷貴の母親はそう言って、丹念に手入れしているであろう自身の長髪を片手で掴み、もう一方の手に持ったバリカンを躊躇なく近づけていく。
「待って待って待って待って!」
手にしている物が物だ。強引に奪い取ろうとすれば互いに危険が及ぶ。
母親の、そして何より自分の髪を守るために、雷貴はただただ叫び続けて相手の動きを牽制することしかできなかった。
そのやり取りが長引いたせいで遅刻寸前になったことは、言うまでもない。




