第55話「不滅の絆:光」
「────終わった、か」
光が収まり、目を開けたハクの周囲に広がるのは、草木も生えぬ不毛な土地。つい先程までいた場所とも、冥府王国到着直後の場所とも、まるで違った。恐らくは、これこそがこの地の本来の姿なのだろう。
「勝った、のか?」
立ち上がったクロが、近づきながら尋ねてくる。彼の左手にはめられていたはずの指輪は、消滅していた。
いや、彼のものだけではない。ハクのそれもまた、役目を終えた途端、粉々に砕け散って空気へと溶けていった。
「うん。でも、それだけじゃない。冥王の瘴気も、全て祓えたよ。跡形もなく、綺麗さっぱりね」
ハクは振り返り、穏やかな笑みを浮かべながらそう返す。
「……他の国にあったのも、か?」
「冥王が復活したことで、瘴気がこの地に引き寄せられていたみたいでね。比較的少ない魔力でまとめて祓うことができたんだ」
「そっか……」
冥王を倒し、その瘴気を祓うことにも成功した。喜ばしいことだが、クロの気分は晴れないらしく、表情が曇っている。
メアの死。それは何があろうと覆ることのない、確定した事実だ。負の感情に囚われたり、それによって闇に呑まれたりすることはなさそうだが、だからと言って哀しみを感じないわけではないだろう。
「……そうだ、二人は!」
まさか、フランとフィーマまで、メアのように────ハクと同じ懸念を、クロも抱いていたらしい。周囲を見回そうとした二人だったが、それよりも早く足音が聞こえた。
「大丈夫だよ!」
「フラン!」
「くたばるわけないでしょ」
「フィーマ!」
覚束ない足取りで、フランとフィーマが近づいてくる。傷だらけだが、命に別状はなさそうだった。そのことに安堵し、ハクは胸を撫で下ろす。
メアの死によって悲しみを覚えているのは、ハクも同じだ。仲間の犠牲を簡単に割り切れる程、彼の精神も成熟していない。ただ、クロを差し置いて悲しみに打ちひしがれることはできなかった。
「それにしても、これはなんなのかしら?」
フィーマが指し示した方向に、他の三人が視線を向ける。
そこにあったのは、歪な穴。人が通れる程の大きさで、その向こうには真っ白な景色が広がっている。
「攻撃の余波で発生した、空間の裂け目、といったところかな。内部を進むこともできそうだね。他の出入り口があるかどうかは、わからないけど」
「さっきの場所に続いてるんじゃないのか?」
「いや、それはないと思う。あの場所は、瘴気を祓ったことで完全に消滅したみたいだからね」
「じゃあいったい……」
「わからない。けど」
フランの問いかけに答えながら、ハクは『穴』に近づき、そして振り向いた。
「僕は、この先に行くよ」
「……え?」
フランが声を漏らす。予想だにしない言葉が、ハクの口から出てきたためだろう。
「何があるかわかっているの?」
「わからないよ。けど、だからこそ行かなきゃならないんだ。僕の記憶のことは、二人にも話しただろう?」
「……この世界の人間じゃあないとかなんとかって、言ってたわね」
「この世界にいても、僕の記憶が戻ることはあり得ない。今回の戦いで、それを改めて実感した」
その言葉を聞いたクロが、視線を落とす。
ハクがエンから最後の手掛かりを得たように、彼もまた、対峙したヒョウから何かしらの手掛かりを得たらしい。
『クロとハク。どちらかがもう一方を殺めることでのみ、記憶の欠落は解消される』
思い起こされる、エンの言葉。
出鱈目だと結論づけるためには、他の手段を模索するしかない。ただ、自身の故郷ではないであろうこの世界に居続けても、それが見つかるとは思えなかった。
「この裂け目が、元の世界に続いているかもしれない。その可能性があるなら、僕は行くよ」
「でも、もしそうじゃなかったら……?」
フランが、恐る恐るといった具合に尋ねる。彼女も薄々、気がついているのだろう。当てが外れた場合の末路に。
「どこにも行き着けず、死んでしまうかもね」
「なら、時間をかけて調べてからでもいいでしょ? お師匠様なら、きっと魔法でなんとかしてくれるよ!」
「そんな時間はないよ。この裂け目は、じきに閉じてしまうだろうからね」
その言葉を受けてか、三人がハクの奥にある『穴』へと焦点を合わせる。
時間が巻き戻るかのように、散らばった破片が元の位置へと戻っていた。誰によるものでもなく、自己修復を始めている。今を逃せば、調査などする暇もなく、『穴』は塞がってしまうだろう。
「進むなら、今しかないんだ」
「でも……」
フランは言葉を続けられず、俯く。
「ハクが行くなら、俺も行くよ」
クロがハクの隣まで進み、同じように二人の方を向いた。
「同じ世界から来たかもしれないなら、一緒に動いた方が良さそうだしな」
「二人で行くから安全ってわけじゃないわよ」
「わかってるって」
「……いいんだね?」
「ああ。冥王の瘴気が祓えたなら、もうこの世界でできることもないだろ?」
頭の後ろで腕を組み、陽気に振る舞うクロ。その表情は、どこかぎこちないように感じられた。
「そんなの、嫌だよ……」
フランの足下付近の土が、ぽつぽつと濡れていく。この一年足らずで、二人の存在は彼女の中で大きなものへと変化したのだろう。
「……本当に、未練はない?」
ハクは念入りに尋ねる。
仮に、『穴』の先へ無事に辿り着けたとしても、再びこの世界を訪れられる保障などない。今生の別れとなる可能性の方がずっと高いのだ。
「ないわけないだろ」
クロの表情が、引き締まる。
彼の中でもまた、仲間の存在は大きなものになっていたのだろう。この世界で暮らすのも悪くないと、そう思える程に。
「フランも、フィーマも。俺にとっては大事な仲間だ。離れたくないに決まってる。それだけじゃない。お師匠様とか、番人とか、今までお世話になった人は大勢いるのに、恩返しも全然できてない」
けど、とクロは続ける。
「……過去に出会った人たちを、忘れたままでいていい理由にはならないだろ」
どのような過去であれ、取り戻さなければならない。全てなかったことにして、笑っている場合ではないのだ。
たとえ、かつての自分が忘れたいと願う程に、辛く苦しい記憶だったとしても。
「ま、あなたたちが自分で決めたことなら、アタシは止めないわ」
「……悪いな」
「謝られるようなことじゃないわよ。達者でね」
「ああ。フィーマもな」
「当然よ。アタシを誰だと思ってるの?」
「恋愛乙女王子、だろ?」
「わかってるじゃない」
フィーマは鼻で笑ってから、そう返した。湿っぽくならないようにしてくれているのかもしれない。
「フラン」
「な、何……?」
すすり泣きながらも、フランはクロの呼びかけに返事をした。袖先で拭いてから顔を上げるが、涙は止まらず流れ続けている。
その不安そうな瞳に、ハクの心は締め付けられた。
「ごめんな」
「あ、謝ること、ない、よ……」
フランが目を逸らす。引き止めてはならないと、彼女もわかっているのだろう。だが、その思考に心が追いついていないようだった。
そんな彼女を見て何を思ったか、クロは再び口を開く。
「俺さ、フランに感謝してるんだ」
「え……?」
「あの屋敷でフランに出会えたから、俺は今ここにいる」
「そ、そんなこと……私は何も」
「もし一人だったら、魔物に襲われたとき、逃げきれなかったかもしれない」
「それは、私だって……クロがいてくれたから」
フランの返答に、クロは首を横に振った。
「フランがいたから、生きようと思えた。闇に呑まれずに、希望を持てた。全部が全部とは言わないけど、俺がここまで来れたのは、少なからずお前のおかげなんだぜ」
フランとは対照的に、クロは穏やかな表情を浮かべている。彼の言葉に、嘘偽りはなさそうだった。
「ありがとな」
「う、ううっ……!」
フランの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
「何も返せなくて、ごめんな」
「そんなことない! そんなことないよ……!」
フランが袖で何度も顔を拭うが、その涙は止まらない。
「私、助けられてばかりで……! 弱いし、特別でもなんでもなかったし……!」
「フラン……」
「それでも、みんなが一緒にいてくれたから、頑張れた……! ううん、それだけじゃなくて、楽しかった……!」
涙を流しながら、彼女は懸命に言葉を紡ぐ。
「だから、二人がいなくなるのは、すごく寂しい……」
だけど、とフランは続けて、顔を上げる。
「二人の邪魔をするわけにも、いかないよね」
フランは、笑っていた。涙を頬に伝わせながらも、満面の笑みを浮かべている。
「あ、あれ? おかしいな、あははっ、吹っ切れたはずなのに……涙が、止まらないや」
「……泣きたいときは泣いていいのよ」
「で、でもフィーマは泣いてないじゃん!」
「男の涙なんて格好つかないでしょ」
「都合のいいこと言って……!」
「フラン」
ハクが名を呼ぶと、彼女はきょとんとした表情で彼の方を向いた。
伝えるべきこと。伝えたいこと。自分もそれらを最後に伝えなければと思い、彼は続けた。
「君の涙を誘える程の人間になれたこと、とても光栄に思うよ」
「な、何言って……」
「僕も、今まで楽しかった。ありがとう」
その言葉を聞いたフランの涙は、より一層速く流れていく。
「も、もう! 涙、止まんなくなっちゃうじゃん……!」
フランの袖先はびしょびしょに濡れてしまっていた。その状態で顔を拭っても、もう涙を伸ばすことしかできないだろう。
「フィーマも、今までありがとう。お師匠様にも、よろしく伝えておいて」
「任せてちょうだい……さ、早く行きなさい。閉じちゃうわよ」
ハクとクロは振り返り、『穴』の大きさを確認する。まだ充分通れるが、先程見たときよりも狭くなっていた。
「……じゃあ、行くか」
「そうだね」
二人は目を合わせた後、最後の別れを告げるべくフランとフィーマの方を向く。
「じゃあな! フラン、フィーマ!」
「元気でね、フラン、フィーマ!」
「さよなら! クロ、ハク!」
「死んだらただじゃおかないわよ!」
四人が言葉を交わした後、ハクはクロの方を向き、ゆっくりと手を差し伸べた。
何があるかわからないこの先で、はぐれることなく、二人で共に歩めるように。
「行こう」
「ああ」
手を取ったクロが、隣に立つ。
互いの顔を見合わせてから頷くと、二人は最後にフランとフィーマの方を見た。仲間の顔を自身の眼に強く焼き付け、再び前を向く。
「じゃあな」
「じゃあね」
これが、本当に最後の、別れの言葉。
二人は互いの手を強く握りしめながら、『穴』の中へと足を踏み入れた。後方からフランの声が聞こえていたが、彼らを取り巻く光が強くなるとともに、それも聞こえなくなってしまう。
「……辿り着けるかな」
「行けるだろ。俺たちなら」
意識は薄れていき、すぐ隣を歩く仲間の声さえ、聞き取りづらくなっていた。
それでも彼らは歩き続ける。
記憶を取り戻すために、どれだけの困難が待ち受けているかはわからない。だが、不思議と恐れはなかった。
隣に仲間がいる。それだけで、どんな苦境も乗り越えられる気がしたのだ。
「そうだね。僕らなら、きっと────」
やがて、二人の体は、白い光の中へと消えていった。
(幸せな、結末に)
記憶を取り戻したい。元の世界に帰りたい。
クロと、共に在りたい。
そんな願いは、ひどく歪曲された形で叶えられることとなる。だが、そんなことを知る由もない彼は、自身の進む先に輝かしい未来が待ち受けていると信じて疑わなかった。




