第107話「拒絶」
様々な色の絵の具が混ざり合う途中のような、主張の強い景色が一秒おきに切り替わっていく。正確な時刻もわからぬ現在、氷見谷紫穂の意識は『そこ』に存在していた。
自分の体が、よく見えない。動かすことすらままならなかった。
ここはどこなのか。何故、こんな場所にいるのか。確か、北海道での任務を終え、風太と共に三種の神器を蒼に渡した後────彼女のそんな思考は、ものの数秒で霧散してしまう。
思考がまとまらない。その代わりと言わんばかりに、今まで抑えてきた感情が止めどなく溢れ出していく。
『私は、誰?』
それは、かつての記憶が呼び起こされてから何度も浮かんだ問いだ。
世界すらも忘れ去ってしまった、過去。そこに描き出される『氷見谷紫穂』の人物像が、今と異なっていたために生じている。
大きな差異ではない。だが、見過ごせる程些細な問題とも思えなかった。
『本当に好きだったものがわからない』
『本当に嫌いだったものが思い出せない』
紫穂の意思とは無関係に、言葉が並べられていく。肉体の感覚は朧げだというのに、その声ははっきりと聞き取ることができた。
『私は本当に私なの?』
『この私は本物じゃない』
『あの私が本物』
『その私は偽物』
『どの私が本物?』
その声は確かに紫穂のものだったが、一人分の口から紡がれているとは思えない程、至る方向から多数聞こえている。ただ、それに対しての疑問や違和感すら、彼女は覚えることができない。
『わからない』
『わからない』
『わからない』
増加しながら反響する自身の『声』によって、紫穂の精神は極限まで追い詰められていく。あと少しで何かが崩れ去ってしまうだろうと自覚できたその瞬間、奇妙なこの空間に来訪者が現れた。
「おーい! 誰かいないのか!」
方々に視線を動かしながら歩くのは、黒髪赤眼の青年。紫穂も所属する山盛高校自警団の一人、藤咲クロだった。どうやら、これまた突如として出現した扉から侵入したらしい。
「……紫穂か?」
尚も続いている声の数々を聞いてか、クロが紫穂の存在に気づいたような呟きをした。ただ、正確な位置を把握できていないらしく、彼は依然として歩みを止めようとはしない。
「紫穂! 俺だ、クロだ! 返事してくれ!」
助けて。そう言えば、きっと何かが変わるはずだ。そう思えるだけの余裕を取り戻せていたが、しかし紫穂はそれを実行に移すことができなかった。
「どこにいるんだよ、紫穂!」
何故か。その答えに、紫穂自身気がつけないでいる。
いや、あるいは。
「お前の、願いって……」
『わからない』
二人の言葉が繋がる。だが、それが単なる偶然と理解していたためか、両者共に反応することはなかった。
「どうすれば……」
足を止めるクロ。諦めるというよりは、現状を打破するための考えを巡らせているようだった。
「俺は……」
妙案が浮かんだのだろう。覚悟を決めるかのように握り拳を胸に当ててから、クロは再度口を開いた。
「俺は、紫穂に会いたい! 紫穂を救いたい! それが、俺の『願い』だ!」
高らかな宣言。それに呼応するかのように、流動していた色が圧縮されていく。
何が起こっているのか、紫穂には理解できない。正常な状態であったとしても、一人ではその答えに辿り着けないだろう。ただ、クロの口角が僅かに上がっていたことで、彼の狙いどおりに事が運んでいるのだと推測できた。
これで、事態は好転するはずだ。そう、思えていたが。
『来ないで!』
「なっ……!?」
紫穂の一言により、空間の変化が急停止する。直後、感知も視認も不可能な謎の力が発生したらしく、クロの体は勢い良く吹き飛ばされた。
「がはっ……!?」
後方に残っていた扉へと体を強く打ちつけたが、クロは未だ意識を保っている。痛みに襲われながらも、その目で自身の先にある光景をしっかりと捉えているようだった。
「なんで、だよ……」
再び、無数の色が揺蕩っている。クロが考えたらしい作戦は、一瞬にして水の泡と化してしまった。
理由は一つ。
紫穂による、拒絶。
「俺じゃ、お前を救えないのか……?」
虚空に向けて伸ばされる、クロの手。だが、紫穂がそれを掴むことはなかった。
「……くそっ」
握った拳で背面の扉を殴りつけてから、クロがゆっくりと立ち上がる。
焦燥、怒り、絶望。彼の顔には、様々な感情が混濁して表出しているように感じられた。
「少しだけ、待ってろ」
呟きの後に振り返り、クロが扉を開けてこの場を去る。再び、紫穂は一人きりとなってしまった。
『どう、して』
それは、去ってしまったクロではなく、自分自身に向けた言葉だ。
何故、救いの手を振り払ったのだろう。彼に任せれば、辛く苦しいこの状況から脱することができたというのに。
彼を巻き込みたくなかったから。彼に押しつけたくなかったから。そんな大層な理由を掲げられる余裕など、ありはしなかった。
なら、どうして────なんの偶然か、その答えに辿り着いた瞬間、世界が桃色に塗り替えられる。
生まれ変わった空間に立つのは、二人。紫穂自身と、見覚えのある狐の面を被った女性と思われる人物だった。
「ハーイ、紫穂ちゃん。元気?」
「あ、貴方は……確か、占いの……」
「そうそう、占い師『モモ』。覚えててくれて嬉しいよ」
機嫌の良さそうな明るい声色で答える、占い師モモ。紫穂が『偽りの世界』での記憶を取り戻すきっかけとなった人物だ。
「どうして、ここに……?」
そこまで言葉にして、紫穂はようやく自身の意識が明確になっていると気づく。それもまた疑問に思えていたが、尋ねるべきは他にあると思い直して質問を変えることにした。
「いや、その前に……いったいここはどこなんですか?」
「膨大な量の魔力が集まったことで形成された空間だよ。それも、捕らえた人々に都合のいい世界を享受させるっていう性質を持った、面倒な代物」
やはり、モモは現状を把握できているらしい。次に尋ねられるよりも早く、彼女は言葉を続けた。
「巷では、『偽りの世界』なんて呼ばれてるらしいね。もしかしたら、紫穂ちゃんもどこかで耳にしたことあるんじゃない?」
限られた者しか知らないはずのその単語を聞き、紫穂は肩を震わせる。自身を助けてくれた相手には違いないが、念のため警戒することにした。
「普通は内部に侵入した瞬間、自我を失うんだけど……アタシは例外的要素を二つ持ってたから平気だったってわけ」
「例外?」
「うん。一つは、幻覚とか、夢とか、そういったものへの耐性が高いこと。アタシ、魔法がそれに関連するものだからさ。必然的に耐性も身についてるんだ」
ただ、とモモは言葉を続ける。
「これだけじゃ足りないんだよ。どちらかと言えば、もう一つの方が重要なの」
「それは……」
「『偽りの世界』。その存在を、事前に知っていること……まあ、そのへん話し始めると長くなっちゃうから、割愛させてもらうけど」
敵か、否か。判断するには尚早だ。だが、紫穂はある事実を打ち明けてみることにした。
「……その条件なら、私も満たしてると思うんですけど」
「お、意外と早く口を割ってくれたね」
口ぶりからして、聞かずとも紫穂の知識量について把握していたらしい。封じられていた記憶を『占い』で刺激できたことにも、関係していそうだ。
どうにも怪しく感じられ、紫穂がモモに向ける視線は僅かに鋭いものへと変化した。
「そう怖い顔しないでよ。取って食おうってわけじゃないし……紫穂ちゃんの知りたいことも、ちゃんと教えてあげるからさ」
それなら、お言葉に甘えて聞かせてもらおう。そんなことを考えた紫穂だが、彼女が言葉を発する前にまたしてもモモから話が始められることとなる。
「で、紫穂ちゃんが閉じ込められてた理由だけど……多分、強い願いがあったから、なんじゃないかな」
「願い……でも、私、そんな覚えは……」
特別、何かを願ったつもりはない。強いて挙げるなら、クロが取った行動への拒絶ぐらいか。ただ、それが直接の原因になるとは思い難かった。
「気づけなかっただけで、あったんだよ。それを、『偽りの世界』に狙われた。真実がどうかはわからないけど、アタシはそう考えてる」
無自覚な願い。その正体は、なんだったのだろうか。
「他に、聞きたいことはある?」
「……モモさんは、この世界の人間じゃないんですか?」
「うーん、ちょっと惜しいかな」
ということは、クロと同じように別世界への転移を経験したのだろうか。紫穂が直後に抱いたその考えもまた、外れていた。
「アタシも、紫穂ちゃんと同じ。別の世界から転移してきた人間の干渉を受けた存在だよ」
「干渉……もしかして、クロ君から?」
「それは内緒」
面の前で、人差し指が立てられる。
後ろめたい理由があるように思えてならなかったが、得たい情報は他にもあったため、ひとまず追及しないことにした。
「それにしても……私のこと、随分よく知ってるんですね」
「そりゃもう。ずっと前から目をかけてたし。だから、あの日も占いに見せかけて記憶を刺激してあげたんだよ?」
「……目的は、なんですか?」
ただの善意による助力とは思えない。モモが二度も自身に接触してきた理由を、紫穂は恐る恐る尋ねた。
「アタシたちの計画に、付き合ってほしいの」
その言葉の直後、紫穂とモモ、それぞれの後方に一つずつ扉が出現する。先程クロが使用したものとは、また別種のようだった。
「断ってもいいよ。力づくで言うことを聞かせるつもりはないし、どんな選択をしたとしても、ちゃんと助けてあげる……だから、紫穂ちゃん自身で、よく考えて決めて」
紫穂の頷きを確認できたためか、モモはさほど間を取らずに話を再開する。
「紫穂ちゃんのお友達に、藤咲クロ君っているでしょ? 彼への嫌がらせを考えてるんだけど……一緒にどう?」
「嫌がらせって……」
「あ、もちろん、それが最大の目的じゃないよ。ある計画を果たすついでに、そうなるだろうってだけで。詳しいことは、首を縦に振ってからじゃないと教えられないけど……」
少なくとも、クロの味方ではないらしい。
ということは。
「ただ一つ確かなのは、世間一般から見て、アタシたちは『悪』側の存在だってこと」
紫穂が確信すると同時に、モモからそう告白された。
普通に考えれば、手を貸すわけにはいかないとわかる。彼女は、世界の平和を脅かす存在になる可能性が高いのだから。
だが、紫穂は違った。
「さて、どうする?」
「決まってますよ」
クロへの嫌がらせ。紫穂には、その言葉が妙に魅惑的なもののように思えた。
そして、気づく。
やっと理解したのだ。元凶たる彼に向けるべき感情を。今まで見て見ぬふりをしていた、本当の気持ちを。
「おや、迷わないんだね」
「ええ。だって私……」
もう、どうしようもない程。
「クロ君のこと、大っ嫌いですから」




