当たるも八卦当たらぬも八卦
八卦とは中国から伝わった易占いからの言葉だが、現在ではこのことわざは占い全般を指しているように思う
占いは当たることもあれば当たらないこともある
人は未来が解らないので不安になることがある
はっきりした進路への悩みならば、経験者や他人の意見を参考にするかもしれない
じゃあ、占いを気にするのはどんな時なんだろう?
当たることもあり当たらないこともある
どうして信じるに値するのか?
それでも業としての占い師の方はたくさんおられるので、商売として成り立つ職種となりうることも事実だ
こういうと私は占い否定派のように感じられるかもしれないが、10代の頃から数多くの占いの研究をしてきたという、いわゆる「好き者」である
私は怖がりのくせに不思議なこと、訳のわからないことにとても興味を持つ少年だった
小学校当時は寝床に入って愛読書はかつてよくあった分厚い百科事典だった
全18巻あって、その日の気分で今日はこの巻を見ようと決めて眺めていた
そのせいで小学校の頃は牛や豚の解剖図が頭に刷り込まれて、肉類を食べることができなかった
肉類は食べ物ではなくて生き物の一部であるとしか思えなかったからである
貝類も同じ理由で食べることができなかった
でも、野菜類は躊躇なく食べることができたので、単に我儘なだけだったのかも知れない
今では肉類は内蔵、いわゆるホルモン以外は食べられるようになっているが、貝類は変わらず少し敬遠している
話はそれたが、私が最初に凝った占いがホロスコープ占い、つまり12星座占いだ
ネットなど無かった時代なので、毎日本屋に立ち寄っては占い欄を立ち読みしていた
そのうち専門書を買い、自分で生まれた時のホロスコープを作成し、どのハウスにどの星が入っているとか、星同士の角度がどうとか、順行か逆行か、など計算しながら書くようになった
自分以外の何人かの知り合いの占いもしてあげたが、数ページに渡る鑑定結果はかなり好評だった
まあ、かなりの好評をもらうためには時間の方もかなり要するので安請け合いはしないことにしているが・・・
そうこうしているうちに、知らない人と話をしていると、その人の誕生日がなんとなく解るようになってきた
つまりこの人は何とか星座の第〇デーク(同じ星座内でも生まれた日により3つに別れている)かな?なんて勝手に湧き出てくる
これがまたけっこう当たったから不思議だった
今でも誰かに誕生日を聞けば、その人の簡単な占いぐらいは口頭でできる
けっこう場をもたせるのに重宝している
また、一度聞くとその人の誕生日は忘れない
これはこの人にはどういう接し方をすればいい関係になれるか?を考えるためでもある
ある意味統計学のようだと思っている
ただ、当たるも八卦当たらないも八卦でも、統計学というならありとあらゆる占いを勉強してその共通項を探ればいいんじゃないか?と思いそこからいろいろな占いの研究を始めた
九星占い、八星占い、六星占い、13星座占い、数秘術等々
また、幅が漠然としすぎているがおまけながら干支占いや血液型占い
さらには手相・人相占いもかじり、タロット占いもかじったけれどこれらはちょっと性格の違う別物という感覚を持った
で、命数占いと言われる生まれた日から鑑定する占いにはやはり共通項はあると感じた
同じようなことがけっこう書いてある
しかし、裏返すとそれを書いていれば外れにくいという作戦の集大成なのかもしれないとも猜疑心の強い私は思う
ただ、これ以降私の占いは精度が上がったと勝手に思っている
さて、今朝の占いの話が書きたかった
あるホロスコープ占いでは私の星座は12星座中12位と最下位だった
当たるも八卦当たらぬも八卦とは言い聞かせてもいい気分はしない
ところが違うサイトのホロスコープ占いでは全体運とか金運とか数項目があり5段階判定になっているのだが、ほぼ5点満点が並ぶ
同じホロスコープ占いなのにどういうことなんだろう?
過去にも、同じ日の占いで片方では「散財に注意!財布の紐を閉めて」と書いてあるのに、もう一方では「今日は好きなものを購入するのに最適日」なんて書いていたりして、どういうこと?と笑ってしまったこともある
まあ、良いことを書いてある方を信じることにするほうが気分はいいことは確かだ
ただ、金運だけは調子に乗らないように気をつけないといけないとも思う
結局、当たるも八卦当たらぬも八卦
自分がどう受け止めるか?しかないんだろう
日々機嫌良く過ごす
それが継続することが幸せなことだと思う




