Chapter 1-1
◆◇◆
あの日のことを思い出す度、ギルバート・ベルンシュタインの右足は喪われる。
次いで口の中に鉄錆の味が広がり、鼓膜の奥で哀願の叫声や怒号が嵐のように渦巻く。それから体中を鉄の棒で殴られたような激痛が支配し、立っていられなくなるのだ。
狂おしいまでのフラッシュバックに苦悶の声を上げて転げ回るギルバートを、いつも彼女は見下ろすのだ。
脆く砕けそうな砂糖細工の肢体に、夜明け前の雪原を思わせる白銀の瞳――そこへ脂汗と涙と涎に塗れながら地を這うギルバートが映る。
静脈に打ち込まれた鎮静剤のせいで霞がかる意識は、彼女の顔を朧げに乱反射させては砕け散る。溢れた彼女の冷たくも熱くもない血を全身に浴びて、ギルバートは目を閉じる間際に最期の声を聞く。
『人殺し』
鎮静剤の微睡みから覚醒して、油が切れてすっかり錆びついた脳味噌で理解する。
今日もまた濁った太陽が昇ること。
反吐が出るほど醜悪な己が生きていること。
傍らにエレナが、いないこと。
永遠に、いないこと――。
◆◇◆
くぐもった電子音が等間隔で鳴っている。それを最後に見たのは三日前だ。恐らく――というか十中八九、この散乱した服とコピー用紙の海の底にあるだろう。
ギルバート・ベルンシュタインもまた、その只中に漂流するひとりだった。頭に分厚い瘴気の専門書を、腹には自身が書き殴った論文の束を広げたまま、ソファの上で寝てしまったらしい。
閉じきっていないブラインドの隙間から射し込む朝日は瞼越しに目を焼き、窓際の鳥籠の中では黄色い金糸雀型の医療補助機械が高い声で歌う。叩き起こされた心地も良いものではないが、窮屈な体勢だったせいで頭だけでなく関節も筋肉も鉄屑のように重い。身動ぎすれば、パキパキと骨が立てる軽い音が響いた。
通話端末の呼出音は未だ鳴り続けている。一度止んだかと思えば、十秒も経たぬうちに再度鳴った。居留守など許さぬと言わんばかりの主張に、ギルバートの方が根負けした。
ズレた眼鏡を掛け直し、ソファから転がるように降りて左右の長さが違う足で紙の海を這う。フローリングを覆う紙が千切れるのも構わず、本を退けてやっと長方形の端末を見つけ出したのは呼出音が更に二巡した頃だった。液晶に浮かんだ名前に、ギルバートは堪えきれずに深い溜息を吐く。一週間前にあれほど連絡するなと言ったのに、あの鳥頭はすっかり忘れてしまったらしい。
最後の悪足掻きとして受取拒否をタップするも、やはり数秒経ってからまた電子音か鳴った。諦めるのはこちらのようで、通話許可のアイコンを左へスワイプした。
『よぉ、生きてるか教授!』
「カスト……もうかけてくるなと言ったはずだぞ。それと、俺は教授じゃなくて講師だ。非常勤のな」
通話口から聞こえてきた陽気な声に眉間の谷が更に深まり、安酒に灼かれた喉で唸るような返事をする。風邪か疑われそうな声音だというのに、端末の向こうの男は一切気にする素振りもなく『そうだった、そうだった』と豪快に笑ってみせた。
くらりと目眩がしたのは、二日酔いかそれとも彼の無遠慮な声のせいか。
とにかく、ギルバートが今求めているのは穏やかな二度寝の時間だ。何を考えてこの悪友が連続で通話を試みてきたのか、話だけ聞いて一方的に遮断すればいい。
本と紙、埃を巻き上げて、仰向けに寝転がった。
「それで、何の用だ。また女房と喧嘩したから、自棄酒と愚痴に付き合えってんならお断りだぞ」
『違う違う。ただ酒とカロリーバーで腹を膨らます哀れなやもめ男に、お優しいカスト・パヴァロッティ様が新しい生きる糧を与えてあげようと思ってな』
「いらん、切るぞ」
『待て待て待て! いいから、聞け。悪い話をしようってんじゃない。……そろそろ昼だ、どこかで飯でも食いながら話そうじゃねぇか。どうせ晩飯も碌に食ってねぇんだろ? たまには外に出ようじゃねぇか、今日も移動植物園はいい天気だぞ』
一方的に店の名前を告げて、カストは最後まで念を押しながら騒がしい通話を切った。
糸の切れた人形の如く、力の抜けた腕と端末が床に転がる。重怠い頭で二度寝か約束かを天秤に掛けて、ギルバートは体を起こした。
手近な服に着替えて、ソファの座面を支えに立ち上がる。鳥籠型の充電器から医療補助機械を肩に移し、松葉杖を左腕に嵌めて玄関の前に立った。
ノブへ伸ばした手が止まる。項辺りを逆撫でされるような感覚がした。己自身からの最終勧告だと、分かった。
それでもギルバートはノブを回し、アパートの外へ出ることを選んだ。
――理解しているつもりではあった。
ひとつの選択。
ひとつの行動。
それらの結果の連続で世界は作られていること。
ギルバート・ベルンシュタインは自身の選択を生涯に渡って後悔することになるなど、アルコールと眠気に麻痺した頭が気づくことはなかった。