ナポレオンという皇帝
ファイナルファンタジー的予定調和の中で生きる「ファンタジー通」なゲーマー達、新聞やテレビゲームでは決して載っていないことってあるのだよ。
新聞記者はよく、自分の知らないことにたいしては沈黙を保つ。あるいは、NHKの記者は「予断を許しません」という言葉を使う。なるほど、近代教養、主として、ウィトゲンシュタイン以降の常識をよく理解している「賢明」な思考方法、よく教え込まれた思考方法ではある。
ガーフィッシュ、沈黙。
90年代に一世を風靡したガイナックスのアニメ、「ふしぎの海のナディア」の世界が、97年の北海道拓殖銀行の倒産に代表される予定調和が崩れた後の、インターネットにより、個人情報が、容易に地球外の異星人に盗用される様な世界において、有効なファンタジーとして働いていることを当時のNHKの委員たちは予期していたであろうか。
「前進して、物を作り、ひたすら物質的な充足を目指せ」が、97年以前の政府によるプロパガンタなら、2016年までのその間の束の間の平和、主としてMacによる文化の束の間のあくまで、日本における平和は「パソコン・ヘゲモニー」によるものであった。
倒れた。林檎の巨人は倒れた。闇の包囲網に屈した。データのアンティキティラへの流失、まともな企業の策とは思えないが、お金を甘く見たアップルは株と言う「経済学の悪魔」と手を結び、農業経済学を良く知り抜いた者以外は決して参加してはいけない領域に、たかだかアダム・スミス以来の間違った、神はお金、理財に関して、予定説、あるいは自由説的立場をとることはない。1920年代のアメリカの人達がどうであれ、善良であったから、悪魔に眼を付けられたに過ぎない。
ナディアの舞台は19世紀末の世界である。
朗も、良質な現代的冒険活劇、ファンタジーとしての「ナディア」に随分と助けられている。F.Fにもクリスタルが出てくるが、ナディアのそれは愛を象徴している宝石であり、F.Fのそれは、戦闘の中で出てくる「戦いの石」、それも、主人公達より上位に立った石として描かれていると言える。石は、現実的世界において役に立つ石は、愛の石なのである。
チャイコフスキーの「序曲1812年」が鳴っている。フランスの独裁者ナポレオン一世が、イギリスに対し大陸封鎖令を出し、それに違反したロシアへ出兵した年である。
この出兵は失敗、大失敗に終わり、ナポレオンは、エルバ島へ流されることになる。
現在、コロナウィルスの「病魔」が世間を席巻している。皆、マスクをしているわけでは無いし、近所を行く人達の表情は一様にやや明るい。平静を保っているようにも思える。社会的情勢が、何時かに似ている。そう遠くない時の事である。四年前だ、2016年の夏の酷暑の日の事だ、あれは。
あの時も、皆、ハイテンションで喜んでいた。
魔法的自我は効いていないのであろうか?効いているからこそ、平静を保てている、ぎりぎりのところで平静を保てていると言うべきではないだろうか?魔法的自我は「壁」の形で目に見えるものだが、人智の教養であり、「万能」ではない。
それと、魔法的自我と言うものは「対魔」の教養である。つまり、対象としての「魔」がいないとそもそもフルには展開しないものなのであり、敵もその点をついてきている可能性はある。政治学的に見れば、敵はこちらの戦力を冷静に把握し、この地区に「力の空白」を置いている可能性がある。距離を置いて、「魔」の力を行使すれば、魔法的自我の力を比較的発揮させずに済むし、それまで周りに蓄積させてきた魔の影響は保てるので、「魔側」にとって都合が良いからである。但し、その分、侵攻のペースは格段に落ちる。こちらから、攻撃をかける場合、対象としての魔が直接認識できなくとも、魔法的自我に基づく「小説」、「音楽」などの芸術の力によって、敵を攻撃することができる。
睨み合いが続くことになる。戦いの長期化、消耗戦である。
そして、地獄、神人の降臨、神魔大戦が始まっている。アーマゲドン(世界最終戦争)の最終段階である。アーマゲドンは大戦乱時の二項対立、対決の構図から生まれやすい形式である。困難が予想されても第三勢力、お金が乏しくても、本の勢力が存在する場合、本人達を通して、双方の会話のチャンネルが開かれ続ける可能性にのみ対立軸の緩和、話し合いによる和平的停戦を考えることが期待出来る。現在、日本における魔族の侵入は辛うじて食い止められたものの、イランには田中芳樹先生が『アルスラーン戦記』の中で登場させている蛇王ザーハックが降臨している。日本に上陸している幻獣、中国本土で発生したとされている虚無、その系譜のウィルス、コロナウィルスも、又、脅威的である。
作家として、デカルトの発展的段階である「魔法的自我」を持っている朗としては、仙の味方をしつつ、弱い立場の人達の味方として、今日も小説を書くのであった。
ボロボロの破滅寸前の世界を救うのは、教養の力、リベラルアーツと愛である。
愛は宝瓶宮の時代にはなく、双魚宮の時代には確かにある。宝瓶宮の時代には、「魔法」が横行し、人々はぎすぎすした心で、魔女の支配、いつ『人類工場』に送致されるかを心配しなくてはいけないようになる。これを食い止めるために日々小説を書く小説家達が居る。朗もその中の一人である。
芸術対魔法の戦いは、芸術側が不利である。
皆様の何気ない小説への感想、暖かい励ましが不利な局面を突破していく鏨になる。
宝石、恋人に貰った宝石や結婚指輪などを心から大事にしよう。
ファイナルファンタジー的な戦いの構図、二元論的対立の構図から抜け出そう。
その上で、戦える人は、自分は忍耐強く、割かし沈着冷静で、バランス感覚に長けている、東西古今の本を読んでいると言う自信のある人は、第三極(佐藤亜紀mixiコミュニティー)の一員として読書体験を磨いてみよう。事実上の、真剣に言っておくけど、私設軍隊への入隊の私的な広告文です。これは。
どちらの陣営にも与せず、均衡を取って、立場を保とう。仙人しか味方は居ませんし、大事に「声」をやり取りしなければいけない。
仙の人達は自身の命がかかっているし、自分自身もヒキガエルにされ、膏薬にされてしまうかもしれないのだから、真剣に戦うべきであり、これは本当の未来がかかった戦いなのである。
魔族を倒せるかどうかは芸術にかかっています。仙人の栖鉈早紀が言うには、煙草は中南海が良いそうです。珈琲は芸術家の友だから、欠かせず、飲めば退魔の力が身体中に行き渡るそうです。野田病院に入院中も、煙草と珈琲には大変助けられました。
中南海はハーブが煙草の葉にブレンドされており、朗は現在、わかばと中南海の二つの銘柄を一日合わせて三箱、吸っている。
朗は今、中南海にセブンイレブンで買ってきた百円ライターで火を点けたところである。
ナポレオンは砲術が得意であった。人は、当時の人達はナポレオンをアンシャン・レジームを打ち破った「解放王」「英雄」として、熱烈に歓迎したが、彼の手にかかって、幾万の将兵が死に、味方の兵もやはり多数死んでいる、という実態を見るに、特に前述したロシア遠征では、冬、厳冬のロシアの大地で、補給不足から、数多のフランス軍の兵士が凍死せざるを得なかったと言う事実は、佐藤亜紀先生の先程のmixiへの参加を促す広告文を撤回した方が良いのかと言う良心を抱かせるほどには著名な歴史的事実ではある。
ナポレオンはどういうものを残したのか。ナポレオン法典が名高いが、これは私有財産の不可侵、個人の意思の自由、家族の尊重などを保障した。近代市民社会の法原理を確立したものである。
「赤と黒」のジャン・ソレルのような上流階級に憧れを持ちながらも、自分の野心の火に焼かれた「ナポレオン信奉者」ともいうべき田舎の視野が広くない、一途な青年がやはり居たのだろうか、当時の皇帝ナポレオンが倒れた後に。
歴史から学ぶと言うことはそう簡単ではない。
朗のデカルトの発展的段階である「魔法的自我」は魔法をアンチ化する。魔法を弾く、無化することが出来る。朗が今書いているように、魔族に対して攻撃的な小説が書けるのも、この為である。
魔法戦争を勝利に導くためには、戦争をするしかない、との見方は皮相的に過ぎよう。
政治勢力を統率するものが魔族の国にも要るはずだから、外交的努力が結ばれる機会が生まれ得るはずである。
魔族は今回の侵攻で魔法による構造転換を使って、人類側の意識を奪っている。
一点、世界を変えるには一点を変えれば充分である。
小説は変える。コードを変えて、全体をずらす。文章に文化の新たな潮流があれば、変えられる。
作家って大変です。
石持て、鍬が力尽き持てないときは、石で、土をすくい取るように土を耕しなさい。教養は必死になるところからしか発芽しません。
ナポレオンの軍事的才能は歴史的なものでした。人類を光のある世界へと導きました。しかし、彼は彼の政治的な身分を「皇帝」と言う身分に定めました。それでは彼、ナポレオンが邁進していたアンシャン・レジームの打破と言う当初の理想は何の為だったのでしょうか。
歴史を考えるときに理論と実践という二項対立は避けられないものがありますが、案外対立のほんの僅かな隙間をついて、蒙を解くのが小説の役割かもしれません。