第四章
【研修一日目 ~死神の存在理由と、剥魂方法について~】
死神とは、何なのか。
何故、自分は死神になったのか。
死神なら、必ずやらなければいけない事なのだろうか。
『人の命を奪う』。
その行為は、例え誰であっても、許されるものなのだろうか。
こうなってしまった今、常識が通用しない事は解っているけれど。
「……やっぱり……やらなきゃ、いけないんですか……?」
「あぁ」
ルルフはそう答えただけだった。
「……ひとを……ころ……」
ヒナは改めて、自分の置かれた状況に、後悔と、葛藤を抱いていた。
地上で生を受けてから、約七年間に培った僅かな知識でも、そのような、人を傷つける行為は“悪”であると、そう信じていた。
ヒナも、普通の子供と同じように、そんな悪い事をすれば、今の生活が滅茶苦茶になってしまうだろうことは解っていたし、
当然だが、決してそんな、理由も無く、誰かを傷付けたい、などと考えたこともなかった。
――この髪と肌、瞳を、衆目に晒せば、大多数は、絶対自分を傷付けるだろうに。……ヒナは、優しい子だった。
それどころか、誰も死ななければいいのに、とも、少し思っていた。
子供には、必ず父親がいるという事は知った。しかし、少なくとも、ヒナが覚えている限りでは、自分に父の記憶はないのだ。
母は、いつもはぐらかして、決して教えてくれようとはしなかったが、恐らく、父は死んだのだと思う事にしていた。
……ここに来て、大人のように思考出来るようになってから、
やはりそれは本当の両親ではなかったのではと、はっきり思えるようになったが、それでも母は母、母の愛した人は父、と思っていた。
そして、自分の、最後の瞬間は……、
殺されたんだ。
もう、誰も死なないで欲しいのだ。
それは、幼かったヒナが、その不確かな生と死の狭間で願った、ごく平凡で、純粋な望みであった。
恐らく、母もとても悲しんだはず。いや、そうでないはずはないだろう。
仮に、もし、そうでなければ……、ヒナは、全てを吹っ切る事が出来るような、気はした。
若干目を見開き、怯えたような表情になり、放心状態となったヒナを見て、ルルフはその先を話す事を中止した。
「……やはり、まずは……大前提から話しておこうか」
ヒナを安心させる為か、宥めるように穏やかな声で、ルルフは言った。
ヒナは、はっとして、視線はルルフの方を向いた。
聴覚はルルフの言葉を捉えられるようにはなったが、まだ少し、意識ははっきりしていなかった。
「良いか……、理解できるな?」
「……はい」
ヒナは、なんとか、理解はしようと身構えた。
「大前提の、簡単な話をする。理解してくれれば良い。応答は無理にいらん」
「はい……」
ヒナは、消え入るような声で、暫しの間で最後の返事をした。
「基本情報に、この世界のみに関する理念をあまり多く入れると、埋め込みに失敗する確立が高い。よって、基本的な理念はこうして説明し、受け入れて貰うしかない」
ここに関する事だけ、全然解らなかったのは、その所為なのか。
「死神は、生界と死界に在る人魂の、バランスを取る為に存在する」
ルルフは話し始めた。
『つまりは、生界の魂を、この死界へ運ぶ役割だ。
故に、事故・病気や、老衰などで衰弱しきった人間の魂を、こちらへ連れてくる仕事が殆どになる。
……因みに、死界にて、一定期間滞在した魂は、記憶を浄化され、新たな生命、着床した胎児へと転生する。勿論、例外も多々在るが。
我々が今、存在している死神界は、地上の、日本国のみを担当する死界に属している。
つまり、日本の死神界だ。日本で死んだ者の魂が、ここへ訪れ、そして日本に転生する。
また、地域の数だけ、異なる死界があるらしい。その先までは、流石に私にも解らない。
近年は、地上の魂に、古いモノの割合が多い。
転生率が低いという事も原因だが……。
要するに、地上人口の増加で、こちらの人手が足りなくなってしまったのだな。
半世紀ほど前、元々死神の人手が少なかった上に、天界の奴等がピュンピュン転生させた所為だ。
下等代替死神すら総動員させなければいけなかった時期でもあったな。
こうして、生界と死界のバランスが狂ってしまったわけだ。
そして、こちら側に、優等な死神を増やす為の打開策として……お前達がいる、というわけだ。』
ヒナは、以上の事柄を、要点だけ、なんとかして記憶には残せた。
「すまぬ、簡単では無かったな。……解った、か?」
「……はい……」
ヒナは、至極小さな声で答えた。
「でも……やっぱり……」
「……ふむ、死神としての本業を働く事に、抵抗を覚えているように見える。……無理もない、が」
ルルフは、今度は諭す様に、再び語り始めた。
「死神は、絶対悪ではない」
この頃から、ルルフは、自分が焦っている、という事を認識していた。
「死が予定されている魂の、水先案内人をする、と思えばいい」
「案内……」
その言葉だけなら、ヒナは、幾らか納得できたような気がした、が。
「勿論、別任務や独断で、身体的に問題のない者を殺す事も在るが……」
「…………」
やっぱり、駄目だ。
自分に、誰かを死に導くなんて、出来ない。
選ばれた魂の中で、かつて一番純粋であったヒナは、そう諦め掛けた。
しかし、彼の説得は続いた。
「地上の人々には恐れられるが、例えば……悪魔などと呼ばれるモノとはまた違う。死神は、人の命を運ぶモノの中でも一番、正当な理由を持っているのだ」
一瞬、奥にあった影が少し動いた気がした。
「任務に従って行動する限り……、お前は今のままの存在で居られる。そして……今、死神界には、お前が必要なのだ」
それまで淡々と語っていたルルフが、少しだけ感情を込めて言った。
ヒナは迷った。
私が必要だと言う。
私に、その仕事をやってくれという。
普通の魂として、また、普通に転生……それなら記憶は残っていないだろうが……させてくれれば、どんなに楽だったろう。
――複製元の、本当の私の魂は、今頃もう、新しい人生を歩んでいるのだろうか。――
でも、本当に、私が出来る事で、全ての世界が良い方へ向かうなら、喜んで引き受ける。
しかし、その、具体的な理由がわからなかった。
何故、自分が選ばれたのか。
それを詳しく説明してくれたなら、まだ進んで受け入れられただろう。
だが、今のヒナには、そこまで訊ねる元気はなかった。
「死神として行動する事に理由が必要なら、上層部を代表して私が頼む。……どうか地上を、浄化してくれ……」
ルルフは、ヒナに向い、上体を前へ傾けた。
「頭を上げて下さい……そんな、人間をゴミみたいに言わないで……」
「お前も……、その人間に、塵のように殺されたのだぞ」
「……!」
ヒナは、俯いて、赤い眼を見開いた。
肩が、少し震えていた。もう何も話したくなかった。
ルルフさえ、後悔と、葛藤の念を懐いていた。
基本情報は埋め込まれたとは言え、やはりこの前までは、無垢な幼き少女だったのだ。
それを、どうにか説得し、考えを変えさせるなど、極めて難しい事だとは解っていた。
自分に、特に……説得の才能はない。しかし、他の者にやらせる訳にもいかない事だった。
長期的に考えれば、徐々に、それを解らせる事も、出来ない事ではないだろう。ある種の洗脳、と呼ばれるかもしれないが。
しかし、時間……というか、余裕が無かった。長期的に考えてはいけない。
もう、この子に賭けてみるしかないのだ。
多少、荒療治となるが……
已むを得ん。
「コトル……」
「はい」
ルルフの呼び掛けに、コトルは表情を崩さぬまま、待ち受けていたように、ささとヒナの前に歩み出た。
左手に、何か、小さな円盤状のものを握り締めていた。
「ヒナ嬢、私は、あなたが死す前後の記憶を持っています。失礼、親指を……」
コトルは、そう言って、左手の親指を差し出し、右手でヒナの左手を取り、引き寄せた。
「や、な、何を……」
そして、親指同士を触れ合わせた。
瞬間、ヒナの視界は暗転していた。
白い花が咲く海岸。
抱き締_た少女の_髪を撫でる女……。
ぽろぽろと、飛__る、二つの__。
そ_は繰り返_れ、崩れ落ちる、少女……。
同じ_、ぺたりと座___、女性……。
そして……
や_て…… お母さ_も……
……?! だめ……ダメ……!!
全てが、紅く染まった。
……こ_、しテ ヤル
みんな、_して……!
ヒナの、空いていた右手に、霊光が瞬いた。
その時のことを、ヒナは、右手が熱くなった感覚だけ、僅かに覚えていた。
「くっ……」
コトルはさっと親指を引き剥がし、ヒナから離れた。珍しく、差し迫った表情だった。
『悲しみ、誤解、羨望、妬み、逆恨み、怒り、狂気……人の負の感情……コロシテヤル……』
そんな声、思念が、どこからか聞こえた気がした。
ヒナは、託ち泣いていた。
「……こ、是程までとは……!」
ルルフは、今までに感じた事のない程の狂気を、その少女から感じていた。
しかし、最早それは、少女、とだけ呼べるものではなかった。
鬼。
死神、とも、十分に呼称できる、獣や、鬼のような気迫だった。
そこにいたのは、姿は少女であれ、少なくとも、明らかに禍々しい存在だった。
閃光が、薄暗かった部屋中を一瞬だけ、明るくした。
【黒い部屋と白い箱、祭りの夜の路地裏的な雰囲気】
ヒナは、黒い部屋に居た。
天井から、床を見下ろしていた。
暗い、その部屋には、母と、自分が、眠りに就いていた。
襖を開けて、女が忍び込んで来た。
手には刃物を持っていた。
女は、忍び寄り、それをヒナの腹部へ割り込ませた。
しかしヒナはそれを、まるで決まっていた事かのように、冷静に、客観的に見ることができた。
そして、女は、血に染まった刃物を、そのまま、母の首へ突き立てようとして……
ズァウシャッ
事切れた。
ヒナは、紅い模様を描いた自分の右手を、ぺろりと舐めた。
自分の亡骸を跨ぎ、何気なく母の寝床へ近づくと、
目覚めないと思っていた、母の目が開いた。
母は起き上がり、自分へ近付いて来ようとした。
「?!! ……ち、違うの、これは……し、信じて、お母様!」
怯えながら後退ると、足が何かにぶつかり、尻餅をついた。
それは、自分のはずだった。しかし、よく見ると、鼻が無い。目と口もおかしい。
「に、人形?!」
そう、それは人形だった。
自分に向かって、蘇った亡者のようにゆっくりと歩み寄ってくる母。
しかし、身体がおかしい。肩が、関節が、丸く膨れ上がっている。
そして、やはりその顔も……――
「ぃやぁああああああ!!!」
ヒナは絶叫し、右手で、自らの喉を激しく掻き毟った。
瞼を固く閉じ、死ねた、と思った瞬間。
がしっと、自分の頭を、誰かに両手で掴まれた。
「何、これは……」
知らない少女の声がした。
目を開けると、暗い部屋は消えていた。
頭から手を離されると、少女が、ヒナの目の前へと、現れた。
「なんだ、髪、か。珍しい人も居るものね」
久し振りに、その事を掘下げられたので、ヒナの心はチクリと痛んだ。
「……箱を、探しているのよ」
少女は、そうとだけ言った。
「箱?」
ヒナは不機嫌そうに訊き返した。
「えぇ。真四角な、白い、箱よ」
「し、知りません……」
ヒナが答えると、少女は溜息を吐き、回りを見回した。
「あ、あそこの男の子が持ってるの、そうかな」
「え……」
そういうと、少女はヒナに何も言わず、飛ぶように移動していた。
少女が向かった先には、ブレザーの学生服を着た少年が、袋を持って立ち尽くしていた。
ふと自分の回りを見渡すと、靄のようなもので、辺り一面、真っ白だった。
「やはり、危険です。いきなりは……」
遠くから、声が聞こえる。
「……恐らく、先程の事は記憶に残っていない筈だ。それならば、後回しにし、先に他の事を教えておいても良い筈だ」
「最後には、それをするのでしょう? リスクが高すぎます。下手をすれば……魂が壊れてしまう……」
ひどく心配した声だった。
「……時間が無いのだ。解ってくれ……!」
「でも! あの子は……」
「何だというのだ」
「いえ……、その……」
「……いいな、言ったとおりに頼む」
女の声が口篭ると、もう一人のものであろう足音が、遠ざかって行った。
「…………」
静寂。
それと同時に、また、意識が、深い海の底へ溺れて行った。
「あっ、大丈夫?! ヒナちゃん!」
ヒナが目を開けると、“友達”の顔が真っ先に視界に飛び込んだ。
ヒナが寝ていたベッドの、左側にある椅子に座っていたナツミが、前のめりにヒナの顔を覗き込んでいた。
「管理人さん、ヒナちゃん気がついた!」
ナツミが呼ぶと、カーテンで遮られた向こうから、アマヤが現れた。
「大丈夫? あなたはヒナさん。わかりますか?」
ナツミの隣の椅子に座り、問いかけた。
声だけが、ひどく心配しているように聞こえた。
態と、ふざけた言い回しで和ませようとしているのがわかる。
「えっ? あ、はい。でも、何で私……」
窓の外を見ると、既に薄暗くなっていた。
「ここは医務室。ヒナちゃん、研修中に気絶しちゃったらしいじゃん……。何があったの?」
「お、……落ち着いてからで、いいんですよ? ね……」
アマヤは、そっと、ヒナの手を握った。
その温もりが、何故かすごく、ヒナの心を安心させた。
気付くと、アマヤは、白衣を纏っていた。
“がっこう”と言うところの、“ほけんのせんせい”って、こんな感じなのかなと、ヒナは思った。
「……えぇと……大前提、だっけ……教えてもらって……。それから、なんか、コトルさんが親指を……」
「……!」
一瞬、アマヤが思い詰めたような表情をした。
「あれ? そこまでしか、覚えてない、です……」
「親指? 何それ、コレ? あ、それともこれ?」
「ひゃぁっ?!」
いつの間にか、アマヤの後方にはミキがいた。
くるくると指で色々なサインをしている。意味は全て、ヒナには解らなかったが。
「ミキっ! いつの間に?」
「ん? 今帰って来たとこ。みんないなかったから、コトさんに訊いてここに」
ミキは、腕に少し大きな袋を抱えていた。
「な、何? それ」
「ん~? おみやげ。部屋で、ね」
ミキは、悪戯っ子のようにほくそえんだ。小悪魔的な、って、こういうのを言うのだろうか。死神だけど。
ともかく、そんな、いつものやり取りが、よりヒナを安らがせた。
何に動揺していたのか、当の本人は覚えていなかったが。
「ヒナさん、……えっと、今日はもう、研修は終わりとの事です。どうします? すぐに明日からも……続けますか?」
アマヤは、複雑な微笑で、ヒナに問いかけた。
「……怖い……けど……、やらなきゃ駄目、ですよ。多分……」
少し前のヒナなら逡巡していただろうが、ヒナは迷いながらもそう答えた。
何があったか忘れてしまったのだ。それに対する恐怖は、かなりあった。
しかし、忘れてしまっていたのだから、拒否する理由もなかった。
そして、やらなければいけない事である事も、何故か、解っていた。
「……そう……。わかりました。宮長に伝えておきます」
アマヤは何かに納得したように数秒目を閉じ、立ち上がった。
「落ち着いたら、部屋に戻っていいですよ」
そう付け足すと、アマヤは医務室の扉に向かって歩き、出て行こうとする所だった。
振り返ると、こう呟き、最上級の微笑みを送った。
「あなたは、あなたのままでいてくださいね」
ヒナ達は、ミキの部屋で寛いでいた。
隣り合って並んだ三人の部屋の真中だったため、専ら、三人が集まる場所はここに定着していた。
「ちょっとさ、行った先の村がねー、ちょうどお祭りだったんだ」
ミキが抱えていた袋には、祭の出店にお馴染みの食べ物類が詰め込まれていた。
例えば、かき氷(ほぼ溶けていなかった)、たこ焼き、りんご飴、クレープ、その他諸々と。
祭など、行った事のないヒナにとっては、初めて見るものばかりだった。
それらを楽しみながら、三人は談笑をしていた。
「いいなぁ……私も行って見たい」
「ついてくる? 夏祭りだから……まだ明日もやってるよ多分」
「どうだろ……一応任務なのに、勝手についてってもいいもんかな?」
「あ、ミキさん、それは何ですか?」
「これ? ほらあれだよあれ」
袋の外側に書いてある字を見て確認する。
「てんつあまぐり」
「あれ、えっと……多分それはてんしんあまぐりって読……いたいいたいてんつあまぐりですそれはもう間違いなくてんつあまぐりですから! ついでにヒナちゃんの甘栗もむいちゃうぞっ☆とか耳元で囁かないでくださいたいたいこわいこわい」
ナツミは二人のやり取りを、早くも慣れた様に横目で見つつ、カーテンを捲って窓の外を見た。
「あっ!? そっか……もう……」
ナツミが驚いた声をあげた。
「そーだよ。さっき帰った時に見た」
ミキが知っていたように、ナツミの傍へ駆け寄った。
「えっ? どうしたんですか?」
ミキから解放されたヒナは、二人に割り込んで窓から外を見た。
【蒼月夜に狼は狂え】
青い。
昨日は赤かった筈の、大きな月が、今夜は青かったのだ。
因みに、その横にちょこんと在った小さな月には、何ら変わりは無かった。
ナツミ達によると、年に一度、三日間だけ、こうして月が青くなるらしい。
何か特別なことらしいが、詳しくは知らされていないと言っていた。
珍しい時に来たものだと、ヒナは思った。
果たしてそれは、ヒナに関係していたのだろうか。それとも、全くの偶然だったのだろうか。
ともかく、ヒナは昨夜と同じように、中庭のベンチで夜空を眺めていた。
同系色の月が照らす夜空は、いつものものらしい赤い月の夜空より、とても幻想的だった。
「あーおーいーつーきあかりひーとーりーゆめみてたっ」
知っている唄の中に、ふっと浮かんだものがあったので、口遊んでみる。
「あらあら、今夜にピッタリですね」
「あっ、アマヤさん」
背後から、アマヤが現れ、そう笑いかけながらヒナの隣に腰掛けた。
その表情からは、先程の複雑なものが抜け、昨夜と変わらぬ様相であった。
「いい詩ですね。何の曲なんですか?」
アマヤが問う。
「母が、教えてくれた歌なんです。他にもいっぱいありますよ」
アマヤに教えようと、ヒナは、僅かな生前の記憶を探った。
しかし、思い出したものを歌い出すことは、躊躇った。
「あ……今になって、意味が理解できます。思い出せるだけでも、半分は、悲しい内容の詩ですね……」
「そうですね……」
また少し、心の中を読んだらしい。
しかし、こういう状況なら、心の中を共有できるというのは、ヒナには嬉しかった。
「あっ、すみません……。ヒナさんの思い出した詩が、余りにも強い思念に満ちていたので、読み取れてしまいました……」
ヒナに嫌がられていると思ったのか、アマヤは弁解した。
「そ、そうなんですか?」
「はい。主に……負の、感情ですが」
「負の……」
ヒナの記憶の片隅で、本人も知らぬまま生き続けていた、その負の思念とは、誰のものなのか。
もしそれが、母のものであったのなら、少し悲しかった。
しかし、更に悲しい事に、真実を知る術も、既に無かった。
今の、ヒナが置かれた状況に比べれば、どうでもよい事だったが、
不思議と、……不気味なくらい、その詩たちの思念は、ヒナの心に響いていた。
知らぬ間に、少し、口遊んでいた。
あぁ 貴方のくれた花が まだ咲いていたとしたら
それはきっと立派に……育っていたことでしょう……
「……メモリ、というものを、知っていますか?」
再び訪れた長い沈黙の後、アマヤが唐突に切り出した。
「めもり……?」
「ある能力者は、それを、人の記憶の中から複製し、取り出して、カタチにすることができます。それを、メモリと呼びます」
「は、はぁ……」
唐突に説明しだされた、これまた新系統のシステムに、ヒナは少し考えが出遅れた。
「私は、昨日話したとおり、日常的に、少しだけ他人の心を読む事が出来てしまいますが、その代わり、メモリを作り出すことは出来ません。能力者は、取り出そうと思った時にしか、心の中へ入り込めません。……まぁ、色んなタイプの人がいると思ってください」
アマヤは、ヒナの初めて見る、少し真面目な顔で語っていた。
「あ、あの……その、メモリが、何に関わってるんでしょう……?」
「それがですね……、恐らく、…………、……いえ、やっぱり……、何でもありません」
アマヤは、少し長い沈黙を挿み、取り消した。
「え、ぇえ……気になるじゃないですかぁ……」
「ごめんなさい。忘れてくださいね」
あれだけ話されて今更そんなこと言われても。
そう簡単に忘れられる訳はなかった。
「まぁ……何れは、その辺りの仕組みも知らなければいけないことですし……。で……では、今夜は、なぜ月が青いのかを、お話しましょうか?」
先程までの話も気になったが、それも知りたかった所なので、ヒナは大人しくその話を聞くことにした。
「とは言っても、ほとんど神話的なものですね。死神の」
蒼い月は、不気味なほど静かに、上空に佇んでいた。
『あの大きな月は、地界の最下層――地獄、罪人の牢獄、そして、罪を背負った魂への責め苦が行われる、拷問郷を映し出しています。
そこでは、沢山の血が流されるので、あの大月は、赤い光を放っていると伝えられています。
しかし、年に一度、三日間だけ、どういうわけか、月が色を変えます。
その三日間は、拷問郷の鬼達が休む為、血が流れないのでしょう。
そして、その間だけ、月が、本来の蒼い輝きを放つ、と云われています……。』
「えと……結局、真実は解らないんですか」
「そう。ごめんなさいね。この死神界で、知っている人がいるとしたら、上層部の人たちだけでしょうね」
「上層部……?」
「第零宮のことですよ。この死神界を取り纏めているの。宮長さんなら――」
その時、不意に、ワアーンと、狼の遠吠えのような音が聞こえた。
「な、何ですか、今の……?!」
「……さぁ、部屋に戻りましょう? 蒼い月に狂ってしまった狼さんに、襲われてしまいますよ」
「お、おおかみって……」
なんだか胡散臭かったが、ちょっと恐いのは確かだったので、ヒナは言われたとおり、部屋へ戻る事にした。
ベッドに潜った後も、また何回か、それらしき声と奇声、笑い声のようなものが聞こえたが、眠気には勝てず。
カーテンに薄められた蒼い月明かりに照らされながら、ヒナは眠りに就いた。