7.六人行者岳へ入る
土曜日のきらめくような早朝。このまま首尾よくいけば、日中は晴れが続きそうだ。いよいよ六人行者岳へ入山する日だった。
治彦は昨日ひなたに殴られた側頭部をさすりながら、ベッドから起きあがった。まだ腫れていた。
朝っぱらから丁次は、なんとパンツ一丁で庭へ出ていた。バケツに水をくみ、おまけに製氷室の氷を放り込んだうえ、豪快に頭からかぶった。
水垢離をくり返すこと三回。丁次は寒いとも、不平を洩らすこともない。タオルで身体を拭くと下着に袖をとおし、作業着をまとった。
台所では佳苗が二人分のおにぎりを握り、かんたんなおかずを詰め込んでいた。鼻歌まじりで、水筒にたっぷりの熱いお茶を注いだ。
和室に入った丁次は、保存食となる干し餅やら飴玉やらチョコレートをポシェットに詰めはじめた。いくら勝手知ったる山でも油断は禁物であり、もしものために用心は越したことがないという。
外へ行き、納屋から竹細工でできた大小二つの背負いかごを運んできた。
治彦に背負わせるかごはさほど大きくはないが、齢九十にして丁次が持つそれは、酒樽二斗(三十六リットル)サイズを誇る大きさ。いったい、どれほどの量を採取するつもりなのか……。
鞘に収められた鉈まで用意した。長年愛用している丁次の相棒である。刃物にあたる部分は長方形をした、いわゆる角鉈と呼ばれるオーソドックスなタイプだ。柄はよく使いこまれたせいで、手垢で真っ黒になっていた。これで藪を払うつもりらしいが、物々しいほどの大きさだ。
「これを見てみい、ハル坊。この刃物に入った刻みの意味がわかるか」と、あぐらをかいた丁次は鉈を見せた。
刃物の左側面に三本の溝が刻まれ、もう片側には四本のそれがあった。左右対称になっていないのは不自然な感じがした。
「この溝って、深い意味があるの?」
「まったく、これだ」と、あきれたようにあごを突き出した。「意味もなく、こんな細工をしてあると思うか? 三、四で『みよけ』だ。すなわち魔除けを意味する。山での仕事にはかかせないものだ。杣師(樵)の道具のうち、もっとも重要とされる伐採用の小型斧にも同じ溝が刻まれておるのだ。これをヨキノナナツメと呼んだ(大木を伐採し、倒れてきても『身=三』を『よける=四ける』という説もある)」
「魔除けねえ。たしかに山ってふしぎな空間だけどさ」治彦は焼けたトーストをかじりながら言った。
「――よいか、ハル坊。ひとたび山へ踏み込めば、そこは異界だ。里での常識は通用しなくなる。山には物の怪の類がゴマンといる。おまえが信じようがいまいが、とにかくそういうこった。昔から山へ出かけるときには、必ず刃物を身につけて行けと言われたもんだ。刃物が魔性のモノを遠ざけてくれる。鉈はおれの得物だとして、おまえには特別にこれを与えよう。丸腰で行かせるわけにはいかんのでな」
と言って、これも年季の入った折り畳みナイフを渡された。ナイフをおこすとステンレスの刃物が現れた。よく研がれている。
「ばあさんが亡くなったとき、遺体の胸に守り刀を置いたのを憶えてないか。守り刀も、亡くなった者を魔物から守る魔除けだ。人が死に、肉体が抜け殻となったとき、そのすきに悪霊が入り込むのを防ぐためにやった風習だ。ほかにも光るものを嫌うとして、猫よけに小刀が置かれたという諸説もある。つまり、猫は魔性のモノとして、昔の人に恐れられたんだろうな」
「ふーん、いまとなっては迷信だろうけどね」と、治彦は率直に言った。
「はたしてそれはどうか。まあ、憶えておくがよい」
祖父と孫は玄関で靴をはくと、背負いかごのなかに弁当と水筒、ちょっとした荷物を詰めたポシェットを入れた。それに加えて丁次は、冷蔵庫から新聞紙に包んだものまで持ってきた。かすかに生臭いにおいがする。刃物といっしょに収めた。治彦はナイフをポケットに落とした。
宗教と佳苗が戸口で見送ってくれた。
「お義父さん、くれぐれも怪我には気をつけてくださいね。治彦も無事で帰ってくるのよ。暗くならないうちに引き返してください」と、佳苗が小さく手をふった。
宗教がパジャマの襟もとに片手を突っこんだまま、眠そうな顔で、
「欲かいて無理しちゃダメだぞ。いいか、熊には用心しろ。松茸採りに行って、命取られるなんてバカなマネはよしてくれ」と言った。ほかにもなにか皮肉を言いたそうだったが、思いつかなかったのか、不貞腐れた様子で家のなかに引っ込んだ。
見送られた側は、これといった感慨も示さず、軽トラックに乗りこんだ。荷物は荷台に置いた。
丁次がハンドルを握り、出発した。
息子夫婦にとって、これが丁次を見た最後の姿となった。