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6.吉田 万土香、山岳遭難の記事

 ほかの美術部員が集中して油絵と取っ組んでいるのをよそに、二人はおしゃべりに夢中になりすぎていた。

 ひなたから手渡されたのは、去年の信濃しなのアサヒ新聞だった。新聞の日付は二〇一七年、十一月十四日とある。


 長野県の地方新聞である。発行部数は約四十三万六〇〇〇部、県内購読率は五十二パーセントを誇る。

 新聞を開くと、中段の目立つところに、とある山岳遭難記事が掲載されていた。ひなたはそれをしきりに指さす。記事にはこうあった――。




『十二日、厂原がんばら地区の西にある六人行者岳に登山に来ていた但馬たじま 優子ゆうこさん(四十八)率いるメンバーの一人、吉田よしだ 万土香まどかさん(三十五)が遭難した。但馬さんら女性八人は、フェミニスト団体である『NPO法人女性サポート・アフロディーテ』に所属。


 但馬さんと吉田さんらは、過去に日本相撲協会や日本高等学校野球連盟、全国に散らばる酒蔵へ足を運び、これらの団体が管理する施設は女性差別だと抗議。

 最近では七月、ユネスコに世界遺産として登録された福岡県宗像市(むなかたし)に属する沖ノ島(おきのしま)にも上陸しようとして、物議ぶつぎかもしていた。


 その運動は山岳界にも及んでいた。三年前には、いまだ女人禁制を続ける奈良県吉野郡天川村の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)に強行登山し、警察沙汰になったこともあった。

 調べによると女性メンバーらは、「問題提起をしたかった」と言っている。

 厂原署では十二日午後四時、吉田さんが遭難したと見て、夜半にかけて地元消防団と協力し行者岳を捜索したが見つからなかった。

 十三日は県警などのヘリコプター、山岳遭難救助隊に支援を要請し、一〇〇人態勢で捜索に当たる予定。


 山岳遭難が発生した場合、捜索救助の大事な手がかりになる登山届。

 県内で昨年起きた山岳遭難は三十七件(四十九人)で、うち一人も登山届を提出していなかったことが、県警地域課への取材でわかった。

 今や空前絶後の登山ブームであり、今後も本格的な登山シーズンを迎える中、同課は「登山届の提出」の必須や、「無理のない登山と計画性」、「充分な装備」と「自身の技量に見合った登攀とうはん」を呼びかけている。』




「こんな遭難事故があったなんて、知らなかったな。遭難ぐらいなら毎度のことだし、べつに驚くほどでもないけど。それにしたって、これがなんで油絵のテーマに結びつくんだ?」と、治彦が首を傾げながら言った。「天啓が降りたって、関連があるとは思えないが」


「でしょ。なにがなんだかわかんない。私はあくまで描かされた立場(、、、、、、、)だから、理解不能」と、ひなたは言って、悪戯いたずらっぽく白眼をむいておどけた。


「皆川はアレ(、、)だよ。そういう才能がある人」

「アレ?」

「おれの母さんが言ってた。皆川は、もろに巫師シャーマンの血筋だって。スイッチが入ると、とたんに豹変するタイプ。なにかが憑りつくんだろうだって」


「言えてる。私を殺すと、きっと化けて出るよう!」と、ひなたは言って、両手をわしの爪のようにして、治彦に迫った。


「でもよりによって、六人行者岳の遭難記事って、縁起悪いな。まだ遺体は見つかってないんだろ? これって去年の新聞じゃん。この女の人ってどうなったか、その後の情報って知ってるか?」

「ちっとも知らない。――こら、遺体になったって決めつけんな。カエルやセミなんかをバリバリ食べて、まだ生きてるかもしんないのに」


「うえっ……気持ち悪いこと言うなよ。明日、ここへ松茸狩りに行くってのに、白骨死体と出くわしたらヤだな。まだ髪の毛ついてるかもよ」

 ひなたは治彦が手にした新聞をひったくった。

「もういちど、やってみる(、、、、、)。ちょっと集中するから、ハルくんは黙ってて」


 ひなたは眼をつむり、新聞を額に近づけ、またしてもサイコメトリー能力を試そうとした。

 とたんに反応があった。

 ひなたが眼を見開いた。心ここにあらずの表情になっている。治彦を見た。


「ねえ、ハルくん――行者岳の奥の山(、、、)に、山姫やまひめが現れるって知ってる?」

「藪から棒に山姫? なにそれ」


「山には山の神って、ぶっちゃいく(、、、、、、)なヤキモチ焼きの神さまが住んでるとかいうらしいけど、この山姫はニュアンスがちがうみたい」




 山姫とは、または山女やまおんなとも呼ばれ、日本に伝わる妖怪とされている。名のとおり、山奥に住む女の恰好をしているという。

 その分布も広範囲にわたる。東北地方をはじめ、岡山県、四国、九州、はては鹿児島の屋久島に至るまで、古来より山姫伝承が人々の口にのぼったほどであった。


 各伝承によりその性質に差異は見られるものの、長い黒髪を伸ばし、色白の美女であることは共通している。

 衣服は半裸の腰に草の葉のみのをまとっていたり、樹皮を編んだ服を身につけている場合や、十二単じゅうにひとえを着た姿との説もある。


  長野県の戸隠とがくしにある九頭龍山くずりゅうざんに現れた龍の正体を見届けようとした代官は、山中で山姫に会い、姫の吐く毒息に当たって病にかかった。


  宮崎の烏帽子岳えぼしだけにも山姫がいたと伝えられている。この山姫は、膳椀ぜんわんを貸してくれたが、いつも後ろ向きに渡して、決して素顔をさらそうとしなかった。

 ある若者が無理やり山姫の顔を見てしまって以来、椀を貸してくれなくなった(このように山や洞窟、池や沼の主が漆塗りの食器を貸してくれるという伝承は日本各地、無数に存在する)。


  宮崎では山姫に血を吸われて命を落とした人間が、後を絶たなかったという。

 大分の黒岳くろだけで出没した山姫は、絶世の美女だとされている。ある旅人が、山姫と気付かずに声をかけると山姫の舌が長く伸び、旅人は血を吸われてしまったそうである。


 鹿児島でも、山奥にまで入り込むと、怒った山姫が襲いかかり、生き血を吸われると恐れられた。

 離島である屋久島では、山姫をニイヨメジョと呼んだ。『新嫁女』の意味ではないかとされている。屋久島の山姫は、足元に届くほどの長い髪を垂らしているのが特徴で、十二単衣にの袴をはくなど、平安時代の官女の姿に似ているともいう。


 山姫は人に笑いかけ、思わずつられて笑い返すと、血を吸われるてしまうと信じられていた。山歩きをしていて、万が一山姫と出くわした場合の対策として、サカキの枝をふれば助かったり、もしくは山姫が笑うまえに、先んじて笑えば身を守れたとも言われた。山姫をにらみつけたり、草鞋わらじ鼻緒はなおを切り、唾を吐きかけたものを投げつけるのも効果的な防御法のひとつだった。


  屋久島においてはこんな逸話が残されている。

 吉田集落のある男が、山に麦の初穂を供えるため、旧暦八月某日に、十八人の男たちとともに御岳みたけへ出かけた。途中で日が暮れたので、山小屋に泊まった。翌朝の早朝、飯炊きがみんなより早起きして朝食の支度をしていたところ、不審な女が現れた。そして寝息をたてる男たちにまたがったまま顔をのぞきこみ、何かしていた。結局、物陰に隠れて難を逃れた飯炊き以外、みんなは血を吸われて死んでいたという。




「……で、その山姫がどうかしたって?」

 治彦が言うと、突然ひなたはうつむいた。

 またはじまった(、、、、、、、)。様子がおかしい。例の神がかりだ。


 ひなたが髪をふり乱して治彦をにらんだ。凶暴なゴブリンシャークじみた人相に変わり果てていた。

「よくもわらわの山に入り込んでくれたな! この愚か者どもめが! その身をもって償うがいい!」と声を枯らして叫び、治彦につかみかかろうとした。


「……うおッ! み、皆川?」

 治彦は思わずサイドテーブルに置かれたパレットをつかんだ。牛糞みたいな油絵の具が盛られた面を相手に向けて押しつけた。


 ぐちゃりと、いやな感触があった。

 ひなたの顔面にパレットが貼りついている。絵の具が接着剤がわりとなったものか、あたかもパレット人間となってしまったかのようだ。微動だにしない。騒ぎを聞きつけた周囲の美術部員が釘づけになっている。


 恐る恐る治彦はパレットをはがした。

 絵の具まみれのひなたが渋い顔をしていた。メガネをかけていたので、眼には直接入らなかったが……。なにはともあれ、もとに戻った様子だった。


「なにしてくれる、ハル! よくもやったな! お返しだ!」と、迷彩柄の顔になったひなたは、そばに立てかけてあったイーゼルで治彦をぶん殴った。

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