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5.皆川 ひなたとのおしゃべり

「六人行者岳? あそこって女の人が入ってはダメな山なんでしょ。――意外。まさかハルくんの持ち山だったなんて。てっきり国有林かと思ってた」と、皆川みながわ ひなた(、、、)はキャンバスに油絵の具を塗りたくりながら言った。ペインティングナイフの扱いがみごとだった。トーストにバターを塗るかのような使い手だ。「で、明日、あそこへ登って松茸を採ると。それも山ほど収穫してくるかもしれないわけ。でっかいボーナスチャンスじゃない。おじいちゃんにはナイショで、こっそり私にも恵んでよね」


「そんなに甘くはないと思うよ。だって、じいちゃんが一輪車に山盛りになるほど採ったことがあるったって、おれが憶えてるかぎり、ほんの数回だし」と、体操着姿の治彦は教室の壁にもたれたまま言った。「たぶん、年によって当たり外れがあると思う。どちらかというと、外れが多い」


 西日が差し込む高校の美術室だった。

 壁際にはデッサン用の石膏像せっこうぞうがある。ブルータス、アポロ、アリアス、モリエール、ヘルメス、パジャントらの胸像。どれもが定番だ。


 松茸の香りはすばらしいが、油絵の具をなじませるペンティングオイルの匂い――治彦はこの臭気が好きになれなかった。

 陸上部の練習から抜け出し、長いあいだ美術室で油を売っていると――文字どおり、これも油だった――、頭がクラクラするほどの頭痛に悩まされた。ひなたに言わせると、うっとりするぐらいかぐわしいという。人の感覚はわからないものだ。


 数人のエプロン姿の美術部員が思い思いの場所を陣取り、油絵制作に励んでいた。ものも言わず、筆を動かしている。

 テーマはカオスに満ちていた。


 メルヘンチックなお花畑の中央に弥勒菩薩像みろくぼさつぞうを描く者もいれば、巨大な淡水魚、アロワナが渋谷上空を飛んでいる図、『エイリアン』のデザインで名をせたH・R・ギーガーばりのエログロ世界観のそれや、これまた大きなダイオウグソクムシが、ソドムの町を滅ぼそうとしているようなシュールなものばかり目立った。

 どうやら美術部の未来は前途洋々らしい。


 そのなかで、ひなたの描くものは、別の意味で眼を惹いた。

 ただただ白い世界。

 完全な白ではない。ところどころ灰色やすみれ色が混じったり、淡い黄色を織り交ぜてある。まるで和紙のざらついた表面を思わせた。

 ひなたは光を表現するのに、たくみにペインティングナイフを使い、絵の具を盛りつけているのだ。

 そう――治彦には光を表現しているのだと思った。


 光を透過するようなその世界のキャンバス下段には、子供の両手が描かれていた。手の甲をこちらに向けて、すべての指が開かれている。まるで紅葉もみじ

 あきらかに子供目線のアングルであり、あたかも小宇宙に手をかざしているようにも見えた。

 なんてことはない絵にも思える。

 だが、治彦には胸に引っかかるものがあった……。


「で、明日の朝練休むのに、どんな口実、使ったわけ?」


 ひなたはキャンバスと向かいながら言った。四月に知り合ってからのわりには、旧知の仲のように砕けていた。


「私用でいいじゃんか。もう顧問の先生には伝えた。なんにしたって、それほど期待はしてないよ、猟場とやらについては。長田家の家伝どおり、教えを聞いといても罰は当たらないだろ。いつか結婚して、奥さんに財布にぎられたとき、小遣い稼ぎに使えるかもしんない」


「なんなの、そのうしろ向きの発想。異常に松茸の採れる秘密の場所なんでしょ? 張り切って行ってきなさいよ。稼げるものなら、いまのうちから稼いできたら。そのまえに、うんと採ってきたら私だけじゃなく、ここにいる美術部員みんなにふるまっちゃって、松茸パーティーしましょ。ハルくんの前祝い――なんの前祝いなんだか知んないけど」


 治彦は顔をしかめ、人差し指を唇にあてた。


「声、大きいぞ。だから誰にも言うなって」


「はいはい」


 皆川 ひなたは治彦のクラスメートであり、ちょっと気になる存在だった。本人を眼のまえにしておくび(、、、)にも出せないが。一年生ながら、はじめて手がけた油絵が、八月に開かれた長野市のコンクールで高く評価されるほどの腕をもっていた。

 度のきついメガネをかけていたが、それを外すと思いのほか顔立ちの整った少女であることに、治彦は早くから気づいていた。

 それに意外と胸が張り出し、プリーツスカートからのぞいた脚がきれいだった。


 ひなたの父親は神職であり、母は長野では著名な書道家だった。結婚するまえは東京で劇団員に入り、舞台女優もつとめたことがあったという。演技派として、知る人ぞ知る存在だったようだ。

 こういった遺伝子を受け継いだためか、彼女はときおりおかしくなる(、、、、、、)ことがあった。さすがアーティステックな部活に熱心なだけある。


「それはそうと、皆川」と、治彦はそばに立って、あごをしゃくった。「おまえがいま描いてる絵ってさ、いったいなにが言いたいの。なにがテーマ?」


「これか」ひなたは筆をとめた。左手にしていたパレットをテーブルに置いた。パレットには色とりどりの絵の具がこってり盛られ、いやな色合いに混ざり、さながら牛糞のようだ。「じつは今日になってひらめいた作品なの」


「できたてホヤホヤか」


「はじまったばかりだから、完成にはほど遠いよ。F二〇号の油絵一枚、仕上げるのに、どんだけ時間がかかると思ってんの」


「なにがひらめいたって?」


「なんでかはわかんない。急に思いつくところがあって、むしょうにこんなイメージが頭に浮かんだの。世界は白い視界に包まれてる。この女の子の手は私自身なんだろうけど。手にひらに触れる布地の感触まであった」


 と、ひなたは言ってキャンバスに描かれた小さな両手を筆で示した。


「手のひらに布地の感触だって? 芸術家志望はそこまで五感が敏感になるもんなのか?」


「脳内イメージのなかで、私はすごく不安の感情が沸きあがってくるのよ。閉ざされた感覚っていうのかな、それでもって、どこかへ運ばれてるような、ふわふわした感じが全身に伝わってきて。――ここまで生々しい体験は初めて。あまりにも印象が強烈だったもんだから、これを絵にしようと思い立ったわけで」


「なんのことやら、さっぱりだな」


 治彦は腕をひろげた。


「それっていうのも、となりの資料室で、偶然この新聞を見つけてね。これを手に取った瞬間、パッと視界が切り替わったわけ。私――そういう生まれだから(、、、、、、、、、、)


 ひなたは言って、サイドテーブルに置かれていた新聞を取ると、治彦に渡した。


「どれどれ、なにかヒントとなることが書かれているかも……」


 さっそく新聞を開いた。ひなたは中段の記事を指さした。

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