42.ひなた、カラオケスナック『ひとみ』に潜入する
ひなたは佳苗に向きなおり、
「わかりました、おばさん。これはたしかに熊の胆です」と、言った。ひどく疲れた顔をしていた。メガネの位置をただし、「ですが、やっぱり特別なクマの臓器みたいですね。ミナシロっていう、マタギの人たちが神聖視してるクマのものです」
「ミナシロ」佳苗は胸にこぶしを当てたまま、眼を見開いた。「聞いたことがある。たしか、おじいちゃんが言ってた――月の輪がないのをミナグロ、反対に全身真っ白なクマをミナシロだと。ぜったいに銃を向けてはいけないクマだと……」
「山の神の使いだとか化身とかいうそうです。おじいさんの秘密の過去にまでさかのぼり、まさにミナシロを殺してしまうところを見てきました。見たというより追体験したんです。わたしにはそれができる。……いまでも吐き気がします。その死骸を捌いて、臓器を取り出すところまで、この眼で見てしまったんですから」非難するつもりではなかったが、棘のある口調になってしまった。ひなたは言った直後、喉から突きあげてくるものを感じ、思わず口を押えた。
佳苗はすぐにひなたの背中をさすった。ひなたの体調を崩すほどの特別な熊の胆を、あわてて取りあげた。本能的にエプロンのまえについたポケットにおさめてしまった。
「だとしたら、あの人は厳しい掟を破ったまま、平気な顔して山へ出かけてたんだ。ほんとうだったら、猟から引退しなきゃいけないのに。ましてやいまは治彦をつれて、松茸狩りに出かけてる……。こんどこそ、よくないことでも起こるのでは……」
ひなたは手短に昨夜見た夢の内容を教えた。
「わかりません。ですが遠からず、なんらかの反動がくる予感がするんです。だったら、早くハルくんに知らせないと」
「でも、どうやって! ケータイの電波も届かないのに……。おばさんは、先祖代々うけ継いできたっていう猟場の位置すら知らないのよ!」
「こうなったら、ダイブするしかない」と、ひなたは眼を閉じ、決意したようにきっぱりと言った。そして部屋の中央に向かって左手をまえにかざした。手のひらで微弱な電波でも得ようとするみたいに右から左へと移動させる。まるで眠れる地下水脈を探すダウジングか、金属探知機かのようだ。「奥の手を使います。ほんとうはこれをやると、命を削られる思いをするのですが、ハルくんのため、いまはどうのこうの言ってる場合じゃない。ことは一刻を争うような気がするんです」
「ひなたちゃん、いったいなにを……」
「いわゆる瞬間移動をやってのけます。信じてもらえないかもしれませんが、わたしはいちど偶発的にできたことがある……。でも、前回はたまたまそうなっただけであって、狙ってテレポートができるのかどうか、自信ないんですけど……。つべこべ言ってないで、飛ぶしかない!」
「飛ぶったって、行く先がわからないんでしょ?」
「さっきの熊の胆の件は、おじいさんの過去に触れるためでした。こんどは松茸狩りができるっていう場所を特定できないか、手がかりを探ります。この部屋にあるかどうかわからないけど、あると信じて探すしかない」
佳苗にはどうすることもできず、成り行きを見守るしかなかった。
瞬時にして、ひなたの集中力がみなぎる。部屋の気温があがったのか、彼女の顔が汗ばむほど上気した。
ひなたのまっすぐ伸ばした腕が、ゆっくりと左右に振られる。
そのとき――左手のレーダーが反応した。手の動きがとまった。
八畳間の中央より、やや窓際に配置された紫檀の座卓。
黒みを帯びた座卓のうえには、のど飴の入ったカゴと、ガラス製の灰皿、マッチがあるだけだ。
ひなたは両眼を強く閉ざしたままそこに近づいた。
なおも左手をかざし続ける。
烈しい反応ではないが、わずかな変化をキャッチした。
手を伸ばし、それに触れた。眼を開けた。
カラオケスナック『ひとみ』と印刷された安っぽいマッチだった。
「このマッチに、秘密の猟場を知る手がかりがあるみたいです」と、マッチを手に取ったまま、背後の佳苗をふり返った。「これより、私はあちらの世界に飛び込みします。私が倒れかかったら抱きとめてください。そして安静にさせてもらえないでしょうか。どれぐらいのあいだ、眠るかわかりませんし、はたしてぶじ帰れるかどうかさえ保証もないのですが……。とにかく、あとのことはよろしくお願いします」
佳苗はわけもわからず頷き、ひなたに従うしかなかった。
「ひなたちゃんを信じてる。どうか気をつけて」
マッチを耳もとで振った。ケースのなかで木でできた軸が、かさっと音を立てた。
そのとたん、視界が暗転した。
またしてもビジョンが切り替わった。
とにかく薄暗い。どこかの部屋だろうか? 天井も低く、さほど広くもない。
眼がまだ慣れない。伊達にメガネをかけているわけではないのだ。裸眼だと〇.〇一あるかどうかの世界。ましてや夜目が利かなかった。
しだいに視野に入るものが像を結びはじめた。――まちがいなく部屋だ。
前方に淡いピンク色の照明がぼんやりとついていた。それと、天井には嵌め込み式のLED型ミラーボールが取り付けられている。リモコン操作により、派手な色があふれ、部屋じゅうを光と影の迷彩柄に染める仕様のようだ。もっともいまは、点灯と回転がとめられていた。
バーカウンターがある。向こうが棚になっており、いろんな酒瓶がずらりと並んでいた。
左上には大きなモニターと、その真下には大きなスピーカーとカラオケ機器らしき本体が据えてある。
スナックの店内のようだ。ひなたの親戚の叔父がオーナーをしており、店に入ったことがあった。そっくりなレイアウトだった。
文字どおり、マッチのパッケージに印刷されたカラオケスナック『ひとみ』のなかにちがいない。
あいにくカウンターに人の姿はない。営業時間を終えたばかりなのだろうか。いましがたまで酔客が騒いでいたかのような侘しさが落ちていた。
ひなたは手を見た。そして着ている服装をつまんだ。
自身の手であり、いささか肌にフィットしすぎたブルージーンズにパステルグリーンのカーディガン姿。まちがいなくひなたの姿のまんま、ちがう世界に飛び込んできたようだ。
右の方で人のささやく声がした。
ふり向いた。右奥の、ひときわ影が濃い一角に、なにかが蠢いている。
メガネのツルをつまみ、眼をこらした。
テーブルを挟み、幅広のソファーが手前と奥の壁際に置かれてあった。
手前のソファーの背もたれから二人の後頭部が見えた。
寄りそって、なにやら密談中のようだが、穏やかな様子ではない。
片方はウェーブのかかった長い髪型をしていた。女性だ。
その女へと密着せんばかりに白髪頭の老人が近づき、耳もとでささやいている。女は嫌々をするかのように、老人の反対側に逃れようとしている。肩を抱かれているせいで逃げきれない。まるでトラバサミにかかったか弱いトムソンガゼルのようだ。かたや老人は、ゆっくり獲物を丸飲みしながら味わっているニシキヘビみたいに執拗だった。
老人の押しの強いこと。かなりの高齢だ思われるのに、見かけによらず、リビドー丸出しで女を口説いている。
そう、言い寄っている最中なのだ。
老人は――丁次だった。
先ほどのクマ狩りのシーンでは、丁次自身の追体験をさせられたが、こんどは客観的に丁次の過去に参加しているようだ。
ためしに、そばのテーブルにあった灰皿をつかみ、床に落として存在を示そうとした。二人が驚けば、丁次も行動を制するかもしれない。まさか今年九十にもなろう老人がここまで熱烈に口説きにかかるとは……。男はいくつになっても、どうしようもないものである。
ところが、手は灰皿を素通りした。
それならばと、テーブルに触れようとした。
これも堅いガラステーブルに手をつくことはできず、気体みたいにすり抜けた。
「あッ!」と声を出してみた。続いて、「ダメですよ、ハルくんのおじいさん!」と、叫んだ。
ソファーで絡みあっている二人は平気の平左だ。気づきもしない。
どうやらまったく干渉できないタイプのサイコメトリーだ。垂れ流される過去の場面を見ているだけらしい。ここでのひなたは無害な幽霊そのものであり、単なる傍観者にすぎないようだ。




