40.「なら、スッポンポンにしてやるか」
ブナの大木の根もとに横たわった敬太のそれを見た。
敬太は下の歯がずらりと並んだあごの部分だけを残し、上がそっくり消失していた。かろうじて舌が張り付いているだけだ。
さしものミナシロの怪力に、丁次は慄然とするのだった。
脳が破壊されたというのに、依然その若い身体が感電しているかのように痙攣していた。
両手を鉤爪状にひらき、がに股になっている。括約筋のバルブがゆるんだらしく、股間を濡らしていた。
いちばん最年少だけに、肉体は死にきれないのだ。それとも肉体だけは死に抵抗しているのか。
いずれにせよ、心臓が止まるのも時間の問題だった。
丁次はそばへ寄った。
薬室内におさまった命玉を弾き出してキャッチし、肌着の胸ポケットにもどした。かわりに通常の三〇-〇六スプリングフィールド弾を装填した。
かたわらの小幡は口をへの字に曲げ、黙って向こうを向いた。
ライフルの銃口を敬太の胸に突きつけた。
「敬太、ご苦労だった。そろそろ楽になれ」と、静かに言った。
引き金を引くのに、ためらいもしなかった。
ブナの原生林に大音響が響きわたり、どこからともなくヤマガラの群れが飛び立った。いつの間にか吹雪がおさまっていた。
敬太の残骸はおとなしくなった。
「ショウブ!」と、小幡が口に手をそえ、虚空に向かって叫んだ。
丁次も、死んだマタギ仲間たちに、「ショウブ! ショウブ!」と、合図した。木霊が響いた。
マタギのクマ狩りでは、クマを最後に仕留めた者が「ショウブ」と合図を送る。
それを頭領が「ショウブ、ショウブ」と二度くり返し、山中に散らばる仲間に伝え、狩りが終わったことを知らせる作法がある。
この『ショウブ』の言葉の意味に諸説があり、はっきりしたことがわからない。
一説によると、仕留められたクマが最期にあげる断末魔の声は、『三途声』といって、山の神がマタギ=人間界に、クマの肉体を与える許しの声であるとされている。山の恵みはすべて山の神からの授かり物であると、マタギたちは考えていた。
だからマタギはその声を聞けば、「勝負、勝負」と、神への礼を表す返事をしたうえ、クマの皮を剥ぎ取り、毛祭をしてその霊を慰める必要があるのだ。
二人とも銃にこめられた弾丸をすべて抜き取り、ブナ林のすき間から見える灰色の山に向かって、雪上に突き立てた。丁次は大の字に寝そべったアルビノのまえにうずくまった。
「やっちまったのは取り返しがつかない。いつものとおり、ケボカイの神事をやる」と、丁次は毅然たる口調で言った。
「だな。ミナシロを弔わないと、きっと罰が当たる。とっとと捌いちまえよ。……おお、寒!」小幡は苦みばしった顔でうなずいた。クマと戦うまえと比べて、げっそりとやつれて見えた。「そりゃそうと、こいつを殺っちまったからにゃあ、年貢の納めどきだぜ。それに命玉を撃ったんだから、結局は同じこと。猟もこれっきりで店じまいだ。名残り惜しいったらありゃしない。――おめ、これからどうする? 心おきなく、例の猟場とやらで松茸狩りに精を出すってか? 保険のある奴はいいよな」
それに答えず、丁次は小幡をにらんだ。
二人はどうにかクマの身体を引きずり、頭を北向きに寝かせた。その頭部は惨たらしいほど半壊していたが仕方あるまい。
「タテを収めるってか? こいつはミナシロなんかじゃなかったと、自分をごまかしゃいい。ほんとうに山神の使いだか化身だったら、人間さまに倒せるはずもなかろう。手こずりはしたが、ご覧のとおり死んだ。ホトケになったら、それはごくふつうのクマだったってことよ」
「命玉があったからこそだ。これが山神のヨロイを無効にした」と、小幡は厭味ったらしく言い、雪上に転がった自身の笠を拾い、頭髪が薄くなった頭にのせた。あご紐を結びながら、「里へおり、ミナシロの肉やら内臓を見られてみろ。もしかしたら中身まで白いかもしれないんだぜ? なにより毛皮でそれとバレる。他のマタギどもに、命玉の数をチェックされても終わりだ。そんな偽装工作がうまくいくもんか」
丁次は襟もとから手を突っ込み、黄金の三〇-〇六スプリングフィールド弾を取り出した。一発だけだ。
「毛皮はおれがあずかる。売りに出すのはやっぱりやめとこう。とにかく獲ったのはミナシロじゃないと思い込め」と言い、大切な命玉を向こうへ放り投げた。弾丸は一瞬きらりと輝き、谷の下に消えた。「命玉は本来、たった一発しか持てねえことになってる。おれやあんたが五発も懐に入れてるのはルール違反だ。おれはこいつを倒すのに、三発使った。そして一発は証拠隠滅した。敬太にトドメを刺したのは通常弾だ。あとはシャツの胸ポケットに一発だけ。これで帳尻が合う。つまり、命玉は使ったことにはならない。里の連中は、まさか五発持ってたとは思っちゃいない」
「なんて算数の仕方だ。あきれてものも言えんよ。――逆に言や、多めに持っていなかったら、こっちがやられてたがな。おれも三発使った。だったら一発捨てればいいか。これでタテを収めずに済むなら。いい年こいて、ズルもいいとこだが」
「好きにしろ。それより、さっさと皮ダチしてやろう。ミナシロも成仏したがってる」
「なら、スッポンポンにしてやるか」
皮ダチとはクマの毛皮を皮膚ごと切り裂き、脱がすことである。解体前の儀式をさす。
丁次は死骸に塩をふりまき、ブナの林でちぎってきた小枝を手にするとしゃがんだ。仰向けに横たわったクマの胸と腹をさすって清めた。
「大物千匹 小物千匹 アト千匹 タタカセ給エヤ。南無阿毘羅吽欠蘇波河……」と、眼をつぶったまま呪文を三回唱えた。
コヨリと呼ばれる小刀を抜き、おごそかに、クマの下あごに当てた。
切り口を入れると、予想に反して赤い肉があらわになった。一気に腹まで裂き、股間まで一直線に刃物を走らせる。牡だった。恐ろしく硬そうな肉質で、コヨリをゴシゴシやらなければならなかった。
それが終わると、こんどは両手首から胸へ切り裂く。続いて足首から股間へと断ち割っていった。心臓が止まっているので、血はほぼ流れない。
それが済むと、毛皮を剥ぎにかかる。
白い脂肪が皮側に残らぬよう剥ぐのは熟練度を要した。まさに頭領の面目躍如たる技能であった。小幡は感心した様子で見守っている。
毛皮がいっさい破損せずきれいに剥かれると、紅白の筋繊維のみとなった。文字どおり、身ぐるみ剥がされ裸になったミナシロは、通常のツキノワグマのそれと変わりなかった。まるで一九五〇年ごろ、メキシコで捕えられたという宇宙人のインチキ写真を生で見ているかのようだった。
剥ぎ取った毛皮を、高級な羽毛布団よろしく丁重にあつかう。
毛皮を頭と尻を逆さにして、裸のクマにかぶせた。これは人間の死者に着せる逆さ着物の作法と同義だとされている。
またぞろ小枝で尻から頭へとさすった。
「南無ザイホウ ジュガクブシ」と、早口で七回唱えた。続いて、
「コウメヨウ シンジ」と、こんどは三回つぶやく。そして渋い声で、
「コレヨリ後ノ世ニ生レテ ヨイ音ヲ聞ケ」と一度だけ唱えて、丁次は立ちあがった。
唱え言葉は、クマに引導を渡すことにより、祟りを防ぐためだとされている。
総じてケボカイの神事とは、クマの霊を神のもとへ送り返し、さらなる獲物をマタギ衆に授けてもらえるよう祈る儀礼のことだ。
ここからは小幡も解体に加わった。
ナガサと呼ばれるマタギ御用達の山刀を使い、たっぷり時間をかけてクマの四肢を切り離していく。
腹を裂き、臓物を取りのぞいた。あいにく心臓は命玉を撃ち込まれ、原型を保っていなかったが……。
丁次の意識に同調しているひなたには眼を背けようがない。吐き気を催していたが、丁次の強靭な意志力が加わっているせいで、意識を失わずに済んでいた。
クマの腹部から、あらかたの臓器を抜き取ると、皮の底に赤黒い血がたまっているのが見えた。鉄臭い匂いが強烈すぎる。
「小幡、飲めよ。元気になるぞ」
子供っぽく鼻の下をこすった小幡は白い歯を見せた。小便をがまんしているかのように、身をくねらせた。
「どれ……グイッと一杯やるか。ミナシロのありがたい血だ。さぞかし精がつくだろうよ。ギンギンになっちまうかも」と言って、右肘から上を持ちあげる下品な仕草をした。
「ミナシロじゃないと言ったろ。これからは一切外部に洩らすな。それこそ狩りができなくなっちまう」
「わかったよ。おしゃべりはNGだな」
小幡はひざまずいて、中身がくり抜かれ、袋状になったクマの身体に口をつけた。
まだ生温かいその血液をすすった。ズルズルと卑しい音を立てる。
ひとしきり飲ませると、丁次は小幡を押しのけた。こんどは顔をひたして吸った。
クマの血には滋養強壮の効能があると言われ、マタギたちは獲ったばかりのそれを好んだものだ。飲むとかすかに塩味があり、たちまち身体が温まった。
二人はおたがいの顔を見あわせた。
口のまわりは真っ赤になり、地獄で亡者を責めさいなむ鬼みたいに、あさましい顔つきをしていた。仲間が死んだというのに、声を出して笑った。




