38.命玉
純白のツキノワグマが仁王立ちのまま、極太の腕をふりあげ、怒り猛っている。
トロンボーンをひと吹きしたかのような吠え声を放つと、黄色い歯列をむき出しにした。
二本足のまま、今度はいちばん近いブン助に向きなおった。
着ぐるみを着ているように映ったが、ユーモアの欠片もない。両眼は血走り、殺意をみなぎらせていた。憤怒の形相となっている。
自身の体格よりも見あげるような巨体に、ブン助は銃口すら向けることができず、棒立ちになった。
クマは冬眠前にたらふく食ったらしく、貪婪なまでに脂肪がのり、筋肉の塊が浮き出、バリケードみたいに肉厚だった。
かつては信濃の金太郎・坂田 金時との異名をとり、マタギ仲間から畏れられた偉丈夫であるブン助が、氷像になってしまったかのように一歩たりとも動けない。
ひなたの意識はなすすべなく、その様子を見守るしかなかった。
「まさか信州で出会うとはな。お初にお目にかかるぞ、ミナシロ」と、丁次はつぶやいた。ブナの立木が左にあったので移動し、膝撃ちの姿勢をとり、幹に身体と銃身を押しつけた。ライフルの照門から照星を覗き込み、クマの胸に狙いをつけた。反動にそなえる。「たしかにミナシロに手を出しゃ、タテを収めなきゃならねえ。――けどな、これは願ってもない好機と言えるんじゃねえのか? 仮にも山の神の化身。その内臓はたいそう貴重にちがいねえ。身ぐるみ剥いで売れば高値がつく」と丁次は言い、含み笑いを洩らした。「仕留めたとしても、内緒にしときゃいいのさ。それで丸くおさまる。おれは頭領だ。仲間を守る義務がある」
左斜め前方で散弾銃をかまえた小幡老が、しゃがれ声をあげた。
「こら……丁次よ! おめ、まさか本気か? ミナシロに鉄砲向けたらロクな死に方せんぞ。おれぁ、おっ死んだお父ちゃんに顔見せできやしねえ!」
「どうせ、やらなきゃブン助までやられっぞ!」
ブン助はだらしなく尻もちをつき、両手をあわせた。眼をつぶり、哀願する。
殺意の権化となったアルビノが、力士が取組せんとばかりに迫る。まさに横綱級の威圧感を醸していた。背中の筋肉が発達しすぎて、異様なコブになっていた。
「……すまねえ! 山神さま、お許しを! おれゃ、先月子供が生まれたばかりなんだ! 双子なんだよ! 食わせなきゃいけねえ。おれが死んだら、残された家族は路頭に迷っちまう……」
ブナの大木の枝に避難していた緒方が、背中に括りつけていたクマ槍を抜いた。ちょうどアルビノの真上だ。
「やべえぞ、頭領! ヌシはお冠だ。早ぇとこケリつけねえと全滅だ!」
「なら、助太刀してくれるか、緒方! おれ一人じゃ太刀打ちできねえ!」と、丁次が言った。
こずるい人相の緒方が顔をゆがめた。
「山神さまのおかげで、おれたちゃ幸にありつけた。いまさら歯向かうなんて、おれにゃあできねえ。やるとしたら、仲間を助けるときじゃ!」
「しかと聞いた。緒方――合図したら、槍!」
古来より、マタギの世界には不文律があった。
ツキノワグマの胸にある三日月形、いわゆる『月の輪』が存在しない全身黒い希少種を『ミナグロ』といい、これを山神の使いと信じた。万が一射殺しようものなら『クマ槍を収める』――つまり、マタギを引退しなければならない掟があるのだ。
同様に白いアルビノ種『ミナシロ』も稀に目撃され、これも畏怖の対象とされた。獲るなど言語道断であり、神に唾するも同義であった。
その昔、秋田から流れてきた旅マタギの二人組がタブーを犯した。岩手の山間地にまで入り、ミナシロを追跡したという。
和井内の山中で巨大なミナシロを発見。戦いに挑んだが、高さ二〇メートルの絶壁から叩き落され、二人とも墜落死した。
その後、昭和三十五年ごろ、初めて全身アルビノの子グマが獲られた。山神の祟りを恐れ、神職を呼んでお祓いしたことさえあった。
「このバカチンが! 生きて帰れたら、ちゃんとおれの借金返せよ、クソ丁次!」と、小幡老がわめきながら銃をかまえなおし、そのくせ果敢に敵へと近づいた。
「うるさい! 博打の端金じゃねえか。なにをいまごろ!」
丁次は呼吸をとめ、銃身のふるえをこらえた。ブナの幹で固定しているので、立射するよりかは安定している。
初弾を外すわけにはいかない。いまにもブン助につかみかかろうとしているのだ。
クマは右側面を向けていた。あまりにも胸がぶ厚すぎた。どんな栄養を摂れば、こんなにもたくましくなるのか――。
引き金を絞った。轟音とともに、銃口が跳ねた。
信じられない!
発射されたライフル弾は、たしかにアルビノの右胸の真横に着弾したのだ。衝撃で白い埃がパッと舞いあがったほどだ。
ところが弾はあさっての方向に弾かれた。まるで川で水切りしたかのようだった。
丁次はすばやく引き金のすぐ上についたレバーをあげ、手前に引いて排莢させた。
空薬莢は右方向へ回転しながら吐き出される。レバーをもとの位置にもどし、マガジン内の次弾を薬室に送り込んだ。
続けざま発砲。
こんどは頭部を狙ったつもりだった。しかしながら頭頂部でヒットしたはいいが、これも跳ねてしまった。
丁次は眼を疑った。
一瞬、クマの頭で火花が散ったように見えたからだ。まさかケブラー製のヘルメットをかぶっていたとしても、この至近距離だ。直撃したら、まちがいなく骨を突き破るんだぞ!
愚直にライフルのレバーを引いて排莢した。レバーをもどして装填し、かまえなおした。
「こんなことがあるか? こいつは化け物か」と、うめきながら照門を覗き込んだ。
「おいおい、どうするんだ。ますます手ぇつけられなくなっちまったぞ。やっぱりヌシだけある。これじゃあ勝ち目がねえ!」小幡も連続でスラッグ弾を浴びせたが、クマは衝撃でよろめくだけで、ことごとく弾き返された。
見まちがいではない。やはり着弾するたび、分厚い鉄の塊を相手にしているみたいに火花が砕けた。文字どおり弾丸が四散しているのだ。
ありえない……。丁次と小幡は夢を見ているかのように惚けてしまった。
人は窮地に追いつめられたとき、どれだけ平常心を保てるかが生死をわける鍵となる。
この丁次、若いころから女にめっぽう弱く、金がらみで失敗を重ねてきた。ときには気の短い考え方も玉に瑕であった。平静のときはそんなマイナス面を改めるため、読書することで内面を磨いてきたつもりだ。
いくつか読んだ本のなかで、柳田 国男の代表作『遠野物語』に触れたことがある。
言わずと知れた岩手県遠野地方に伝わる、逸話や民間伝承などを蒐集したものである。そのなかの一篇を鮮烈に憶えている。絶体絶命の瞬間、丁次はこれを思い出した。
――あれは和野村に住む嘉兵衛爺の説話だ。鉄砲撃ちのふしぎな話である。だからこそ印象に残っていた。
嘉兵衛が六角牛山に入ったときのこと。世にも奇妙な白い鹿に出くわしたことがあった。
白鹿も同じく神の使いとされ、もし殺せば必ず祟りがあると信じられていた。
しかしながらこの好機を逃せば、里に帰れば嘲笑の的となり、自身の名誉に傷がつく。嘉兵衛爺の腕はそれほど知られていた。だからあえて白鹿を撃つことにしたのだ。
ところが発砲するも、藪の向こうで手ごたえはあったのに、白鹿はピクリともしない。
胸騒ぎを憶えた嘉兵衛。
山中に入るにあたり、常日ごろから魔除けとして身につけている黄金の弾丸を取り出した。これに蓬を巻きつけて発射したくだりがあった。
このエピソードは結局、それですら白鹿は倒せず、近づいてみれば単なる白い石にすぎなかったというオチがつく。
数十年、猟師として生活してきた者が、こんなミスをするはずがない。
さしもの古参の狩人も、魔性のモノに誑かされたかと思い、このときばかりは二度と山に入るまいと誓うのだった。
……オチはどうあれ、猟師が常時、魔除けに持っているという『命玉』のことを思い出した。
たしかに、信心深いマタギはみな、同様の魔除け弾の一発を持っているものだ。どうあがいても太刀打ちできない獣と勝負しなければならないとき、ここ一番の切り札として使うべしと、先人たちに教えられた弾丸。
かつて鉛弾が主流の時代、特別に鉄で作ったり、伊勢神宮の許しを得た黄金の弾丸がこれだとされた。
あるいは通常の鉛弾でも、梵字や八幡大菩薩、あるいは南無阿弥陀仏と書かれていたともされ、信仰心が結集された一品であったという。
ただしこの弾丸を使ったら最後、狩りでの生業を辞める覚悟を迫られた。




