36.ひなた、特別な熊の胆を探る
「ひなたちゃん、これ、熊の胆だわ。ツキノワグマの胆嚢よ」と、佳苗は鋭くささやいた。
ひなたはふり向いて、佳苗の顔を見た。
「胆嚢は部位的にわかるとして、熊の胆ってなんですか、それ?」と言い、中指でメガネの位置をただした。
「家にはときおり、富山の薬売りのおじさん――置き薬の業者が訪ねてくるの。その救急箱にも、ツキノワグマの絵が入った容れ物で、熊の胆と書いた薬があってね。丸薬に加工されたものなの。食べすぎ、胃もたれ、整腸作用まで、幅広い効能があるって言うらしい。夫の場合、どちらかと言うと二日酔いか、宴会前の悪酔いを防ぐのに、事前に飲んだりしてる。これがよく効くって気に入っててね。難点は、動物性の生薬――ツキノワグマの小さな胆嚢そのものが貴重だから――なもんだから、値段が高いのがネックなんだけど。この桐箱の品は、マタギの人たちがクマの体内から取り出し、乾燥させた加工前のものよ」
「クマの胆嚢から作った薬。胆嚢って、肝臓で作られた胆汁をたくわえておく小さな気管ですよね。そんな気管に、それほどの効能があるんですか?」
漢方における熊の胆――いわゆる熊胆の主な薬効は、鎮痙、強心、解毒、健胃、胆汁分泌促進作用、さらには産後の婦人病まで期待された。
『熊の胆一匁、金匁』なる言葉があるぐらい高価なものとして扱われ、昔は米と交換するときには、熊の胆の一匁が二俵にも相当したのだ。一匁の重さは約三.七五グラムであり、現在の五円硬貨一枚がちょうどその一匁だ。
漢方医学や東洋医学では、古来より消化器系全般の万能薬として使われた歴史があり、現在でもクマから採れた天然の熊胆は、希少な動物性生薬として重宝されている。この熊胆の主成分がウルソデオキシコール酸。現在も医療現場において広く利用されるほどである。
今日の日本薬局方においては、『クマのみならず、その他近縁動物の胆汁を乾燥させたもの』が熊胆と定義され、日本国内ではエゾヒグマとニホンツキノワグマが用いられている。
とはいえ、日本での狩猟者が減少傾向にあり、熊胆の流通量が少なく、取引価格が高騰している。最近は主に中国からの輸入に頼っている。
マタギたちはツキノワグマを仕留めると、解体し、その胆嚢を取り出しにかかる。
まず胸を切り裂き、クマの胆嚢の口の部分を、紐で固く結んでから切り取り、専用の小板に挟み込む。これをストーブの上に吊るして一週間ばかり乾燥させる(陰干しにする場合もある)。
その後、乾燥させた胆嚢をぬるま湯につけてもみ込み、仕上げ用の型板に挟んで整形。さらに一週間乾かす。
ようやく完成した胆の重さは、解体直後のわずか四分の一にまで縮んでしまう。一頭のクマからは、乾燥後のそれが平均して七、八匁、大物になれば二十匁もの熊の胆が採れるとされた。
クマ由来に使われる薬は熊胆だけに限らず、身体のあらゆる部位が薬用として珍重された。
なかには頭骨や、腸内の糞までもが利用されるほどだった。クマの頭骨は脳みそが入ったまま乾燥させ、蒸し焼きにして粉末にすれば脳病の治療薬になるとされた。
脳みそ自体も焼酎に漬けたものを食べさせれば、これも脳病に効くと信じられた。
それ以外の骨もすりつぶして、酢か酒で練り合わせて患部に塗れば打撲傷のシップ薬になったり、煎じて服用すれば血圧をさげたり、肝機能障害にも効能があるとされたのだ。
血液も同様に乾燥させ粉末にすれば、強壮剤として使えるほどだという。またクマの牙は、魔除けのアクセサリーとして好まれた。いまでこそ毛皮の値打ちも落ちたが、かつては敷物としての人気があったものだ。
……が、いずれも昔の話にすぎない。現在においてクマの各部位はそれほど流通しなくなっている。
「マタギの人たちは、もっぱらチームで組むことが多いのよ。勢子っていう集団が獲物を山の上に追い立て、尾根のあたりで猟銃を持った射手たちが待ち伏せするの。ツキノワグマが平地で走る最高速度は五〇キロメートル以上とからしく、あのウサイン・ボルトより速いんだけど、さすがのクマも斜面を上へ登るわけだから動きが鈍るわけね。それに射手が下へ撃ちおろすときは視野が広くなり、射撃としては有利な条件になるってこと。その様子を離れた場所からマタギチームをまとめてる頭領が指示するの。誰々の方へクマが行ったぞ、誰々の前の沢へ入ったぞと連絡するわけ。そのリーダーを、昔、おじいちゃんが務めてたらしくてね」と、佳苗が言った。
ひなたが眼を大きくした。乾燥した熊の胆の紐をつまんだまま、
「なるほど、あのふてぶてしいおじいさんなら適任かも。――いえ、しっかりしてそうだから、きっとみんなをまとめあげるのは、お手のものだったかもしれませんね」
「若いころからしたたかでしたから、さぞかし優秀だったでしょうね。――とにかくツキノワグマを仕留めた射手が最高の栄誉として、胆嚢をいただけるっていうそう。マタギの世界での、厳しい掟と特権ってわけね。でもそのマタギもいまや存続の危機みたい。高齢化や、猟銃の規制が厳しくなったせいもあり、廃業に追い込まれてるって聞くわ。こうして古い文化は忘れ去られていくものなのかも」佳苗は言い、ひなたが手にした、平らにプレスされた胆嚢を指した。「それにしたって、これよね。おじいちゃんが後生大事に、ロッカーに入れてまで持ってるってことは、マタギ時代、ご自分で狩ったんだろうけど、なんでまたこの品だけなんだろ? それほど思い出深いものなのかしら?」
「というのは、なぜです?」
「いくらでも、おじいちゃんから加工前の熊の胆を見せてもらったことがあるの。家じゃ、びっくりするほど珍しいものでもなかったのに。大抵売りに出してた。なのにこの一品だけ、ロッカーに保管してるところを見ると、すごく貴重なものみたいだけど」
「念のため、ひとつだけ常備してあるってことじゃないですか? 家族の者が胃腸の具合が悪くなったとき、いつでも煎じて飲ませられる用にとか」
佳苗はあごに手をそえて、思案顔をして、
「なんとなくだけど」と、言った。「……この熊の胆だけは特別な気がする。ロッカーに鍵をかけてなかったのは、おじいちゃんにしては不用心だったけどね」
「特別な熊の胆」ひなたは眉間にしわを寄せ、メガネを押しあげた。「なんにせよ、掛け軸の裏のロッカーに保管してたのは、きっと意味があるんだと思います。……わかりました。この熊の胆から探ってみましょう」
「ひなたちゃんにまかせるしかない」
「少し、私にお時間をください」
ひなたは唾を飲み込むと、眼を閉じた。
そして気味の悪い、黒々とした胆嚢を握りしめた。手のひらのなかで、干し柿を包み込んだみたいな感触がした。
すると、背筋に電流が流れたかのような衝撃が走った。
瞬時にビジョンが切り替わった。
視界いっぱいに白い世界。
昨日、わけもわからずF二〇号のキャンバスに描いていた油絵みたいだと直感が働いた。
が、あきらかにそれとは異なる。
油絵のテーマはあたかもザラついた和紙の表面を思わせた。あのシチュエーションこそ、白い布でできた大袋に入れられ、どこかへ運ばれていくイメージに他なるまい。つまり何者かに拉致されて、誘拐されていく場面を描写したのだ。描写させられたといった方が正しいか。
いま、眼のまえに広がっている白さはちがう。純然たる青ざめた白さだ。
これは一面雪景色だ。
新雪が外の景色を埋め尽くしてしまった図にちがいない。
ザク、と音がした。
まさに積雪の地面を歩いたとき、踏みしめるそれ――。
ひなたは自身の下を見た。
ダボダボのズボンをつけた下半身。とび職人のニッカポッカそっくりだ。その下は紐を幾重にも巻いたすね当てをつけた両脚が見え、わらじを履いたうえ、木を曲げて組み合わせたカンジキまで装着した姿だった。
どうやらカンジキをつけているおかげで接地面積が広がり、新雪が積もった地面にめり込まずに済んでいるようだ。
ひなたは急にずしりとした重みを腕に感じたので、両手を見た。
なんとその手には、長さ一メートルを超えるライフルが握られていた。光沢を放つ黒い銃身はクロームモリブデン鋼製で、いかにも強力なライフル弾を発射しそうな獰猛さを感じた。銃床は堅い木ででき、手垢で真っ黒になっていた。持ち主の猟に対する歴史が染みついているようだった。
――そう。これは猟の最中のシーンだ。




