35.巧妙に隠されたロッカー
ひなたはうつむき、唇を噛んでいたが、勢いよく顔をあげた。
「おばさん、ごめん。こうする方が手っ取り早い!」と申し訳なさそうに言い、手をさし伸べて佳苗の腕に触れた。
とたんに、光の奔流がひなたの視界になだれ込んできた。
いろんな記憶が同時に早送りで再生される。いままで佳苗が見聞きした過去のできごと。
フラッシュバックする形で情報が入り乱れるが、ひなたは冷静に取捨選択していった。
眼を閉じ、集中する。どうでもいいデータは無視するしかない。丁次に関するものだけを抜き取り、それも意味のないものとあるものとに仕分けしていく。
それこそスマートフォンを操作する感覚で、テキパキと処理していった……。
あいにく佳苗にとって、ドラマチックな過去はない。どれもがありふれた家族の日常だった。
そのなかで、祖父とのエピソードをまさぐったが、怪しい情報は得られなかった。それとも彼は身内にすら極秘事項を洩らさないほど武装が堅いのか。
ダメだ。丁次にまつわる有益なデータは見当たらない。
少なくとも佳苗からは、祖父の秘密には入り込めないようだ。
かくなるうえは初志貫徹するしかない。丁次自身か、せめて所持品に触れなくては暴露できまい。
「おばさん。やっぱり家にあげて。それからおじいさんの部屋に行かせて。ハルくんを救うには、まずそれが先。知らなくては!」と、ひなたは佳苗に泣きついた。
佳苗はその必死さに訳もわからず、
「……どうぞ、お好きなようになさって。ひなたちゃんにまかせるから。あなたを信頼する」言うなり、上がり框に尻もちをついた。まっすぐ続く廊下の向こうを指さした。「義父の部屋は、この奥を行って右の和室だから」
「お邪魔します」
ひなたは靴を脱ぐと、スリッパも履かず、奥へ続く廊下を進んだ。
大股で歩く。パステルグリーンのカーディガンの裾がひらめく。照明は暗く、濃密な檜の香りがこもっていた。
壁に突き当ると、左右に障子戸があった。ひなたは幾分ためらったのち、右の引き戸を開けた。
八畳の簡素な部屋。
正面は擦りガラスつきの障子戸が開けられ、縁側から午前十時すぎのどぎつい日差しが入り込み、室内は光であふれていた。芝生を敷いた庭が見えた。平和そのものだった。
畳張りの中央には紫檀の座卓が据えられ、かたわらには年季の入った将棋盤があった。駒を指しかけのまま出かけたようだ。
テレビやタンスなどの調度品は置かれていなく、生活感がまるでない。
渋い色の座卓には、のど飴の入った小さなカゴと、吸殻がひとつもみ消されたガラス製の灰皿、カラオケスナック『ひとみ』と記されたマッチがあるだけ。
手がかりを見つけ出さなくては……。ひなたは意識を研ぎ澄ませた。
ふいに気配を感じ、右の壁に眼を向けた。
床の間があった。壁には掛け軸がかかっている。中国の桂林を思わせる絶景の水墨画。
なぜかそのモノクロの掛け軸が気になった。
ひなたの眼は欺けない。水墨画から、黒い陽炎のような揺らめきを感じるのだ。
一段あがった床板に片足をかけた。親が見たら無作法と謗られかねないが、かまわず掛け軸の端をつまんだ。
そっとめくった。
なんと掛け軸の裏の壁には、ちょうど隠れるサイズの白いロッカーが埋め込まれていたのだ。
細長いが、板金は厚く、頑丈な造りのようだ。取っ手は金庫のようなノブがついている。
「これは……」と、ひなたは小さく洩らした。
背後で誰かの吐息を感じた。
「さすがね、ひなたちゃん。これがおじいちゃんがマタギ時代に利用してたガンロッカーなの」
ふり向くと佳苗が佇んでいた。
「ガンロッカー?」
「銃保管庫のこと。以前は猟銃を保管してたの。猟師はみんな、専用のロッカーを設ける義務があってね。弾を保管するところは別々にしないといけない決まりもあって、こことはちがう部屋にあるんだけど。おじいちゃんの願いで、こんな忍者屋敷みたいな作り方をしたのよ」と言い、肘を抱えるように腕を組んだ。「でもおじいちゃん、だいぶ前、仲良くしてもらってる銃砲店にそれを返納したの。愛着ある銃だからって、撃てないように改造して、せめてインテリアとして飾っておきたかったみたいだけど、それすら違法みたいでね。結局しぶしぶ返したって聞いたわ。いまは空のはず」
ひなたは佳苗の硬い顔を見つめた。
「ロッカーに鍵は?」
「マタギの現役のころは、必ずかける義務があって、鍵の置き場所はおじいちゃんしか知らない。でも猟銃を返納してからは、なにも入れていないわけだから、かける必要もないと思う」
「だったら、開けることができるわけですね?」
「ええ。よっぽど隠したいものがあるなら、話は別だろうけど」
「よろしいですか、開けても?」
「ひなたちゃんのお好きなように」と、佳苗がうなずいた。「それで治彦が無事に帰ってくるのなら、この際プライバシーの侵害などと、とやかく言うつもりはないから」
佳苗の返事を聞き終わらないうちに、ひなたはロッカーの戸を開けていた。
鉄の箱の内側は暗い。ひなたは身体をどけ、光が入るようにした。
ロッカーのなかには数冊の古びた本と、小さな桐の箱が眠っていた。
黄ばんだ本のなかから、恐る恐る二つばかり、手に取った。
『山海経』と、『神農本草経』というタイトル。前者は文庫本で、出版社は『平凡社ライブラリー』だ。表紙には得体の知れない人面獣が描かれている。この姿は東洋版スフィンクスだ。パラパラとめくってみた。
妖しい妖怪の挿絵がいっぱいだ。どうやら古代中国のそれらを網羅したものらしいが、いかがわしさに満ち満ちている。
一方『神農本草経』はハードカバーで、表紙には三つの植物のイラストが描かれている。薬草だろう。こちらもページを繰ってみた。
見たこともないような奇怪な草木の特集だ。薬物学書のようだ。
養命薬に使えるというものや、毒にもなる養性薬、なかには有害ゆえに長期間服用は慎むべきだが、難病の治病薬になる触れ込みのものまで載っていた。
三六五種の生薬を三つに分類し、それぞれの味、性、薬効、産地などを記していた。ざっと眼を通したところ、『不老長寿』という単語が引っかかった。
およそ日本に自生しているとは思えない代物ばかり。やはり本の出どころは古代中国らしい。なぜ丁次はこんな珍本をロッカーに収めていたのか。
「おじいちゃん、銃をやめてから、松茸狩りや山菜採りに夢中になっていったの。まさかここまで本格的に研究してたなんてね」と、佳苗が『神農本草経』をあずかり、ページをめくりながら言った。
ひなたはロッカーの片隅に収められた桐の箱を手にした。小さなサイズで、トランプケースか、赤ちゃんのへその緒を入れる臍帯箱とほぼ同じ大きさだった。
「じゃあ、これはなにかな、おばさん」と、ひなたはつぶやいた。
小刻みに桐の箱が揺れはじめた。
いや、ちがう。
――ひなた自身の手がふるえているのだ。
なぜこうまでふるえるのだろう?
「わからない。見た感じ、へその緒の保管箱みたいだけど……。宗教のモノかしら?」
「――とまれ、右手。なんでふるえるの」と、ひなたは右の手首をつかんで制御しようとした。どうにも怯えは去らない。「……いや、ちがいます。これはへその緒なんかじゃない。なにかいけないものだ」
「いけないもの」
「これだ。このなかに、おじいさんの秘密が隠されてる気がする」
先ほど、掛け軸から黒い禍々しい陽炎が立ち込めていたのは、この箱が裏に秘匿してあったからだ。
ひなたは桐の箱のフタをつかんだ。そばで佳苗が固唾を飲んで見守る。
フタを取った。
なかには、箱いっぱいに黒々とした平べったい謎の物体が収められていた。
形はひょうたんに似ているが、中央はくびれていない。平らに押しつぶされた、膨らます前のしなびた風船を思わせた。ちょうど風船の口にあたる部分が紐で結ばれている。物体は黒々と乾燥し、わずかながら産毛のようなものを生やしていた。表面には白い粉まで吹いていた。
「この気味の悪いものはなんですか?」ひなたは紐をつまみ、持ちあげて言った。嫌そうに顔をしかめた。
佳苗がひなたの肩に手をおき、
「ひなたちゃん、これ、熊の胆だわ。ツキノワグマの胆嚢よ」と、鋭くささやいた。




